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今日は何の日?

昔の今日は何があったのでしょうか?ちょっとのぞいてみましょう。

若田光一さんが大型実験衛星の回収に成功(1996/01/13)

1996-01-13 22:52:20 | 宇宙開発
1996年1月11日(日本時間)、アメリカのケネディ宇宙センターからスペースシャトル「エンデバー号」が打ち上げられました。宇宙開発事業団(NASDA)の若田光一宇宙飛行士は、日本人初の搭乗運用技術者(ミッションスペシャリスト)として5名のアメリカ人クルーと共にSTS-72(スペーストランスポーティションシステム-72)ミッションに参加しました。
STS-72は、NASDAが1995年3月18日にH-IIロケット3号機により種子島宇宙センターから打ち上げた宇宙実験・観測フリーフライヤ(SFU)の回収、アメリカ航空宇宙局(NASA)のフリーフライヤ「OAST-FLYER」の放出および回収、さらに国際宇宙ステーション組立用の船外活動関連機器の試験等を行うNASAのスペースシャトルミッションです。

1996年1月13日、エンデバー打ち上げから3日目、予定通りの軌道に達し14時50分、SFUの回収作業が開始されましたしかし、折りたたみ式の2枚の太陽電池パドル(SAP)の収納完了が確認できませんでした。そこで、部分的に開いてまた畳むという作業を3回繰り返しましたが、ついにSAPの収納をあきらめました。そして、2枚のSAPを切り離した後、SFUは若田宇宙飛行士の操作するロボットアーム(RMS)によりとらえられ、シャトルのカーゴベイに固定され、エンデバーは20日16時42分ケネディ宇宙センターに無事着陸しました。こうして、若田宇宙飛行士は日本人初のミッションスペシャリストとして、そしてさらに、日本初の衛星回収に成功したのです。
また、国際宇宙ステーション建設のための予行演習で2人の宇宙飛行士が船外活動を行ったときにも、若田宇宙飛行士はロボットアームを操作して、船外活動の手助けをしました。

SFUは、打ち上げ機から放出された後、地球の低高度軌道(300~500km)で数ヶ月間実験を行い、回収されて地上に戻るものです。繰り返し利用できるものとして設計されています。SFUはアルミニウム合金の8角形トラスで、8組の実験モジュールを取り付けたり、取り外したりしやすいメカニズムになっています。

若田さんの活躍は、日本の有人宇宙開発にとって大いに役立つものでした。

純国産ロケットH2打ち上げ(1994/02/04)

1994-02-04 20:00:51 | 宇宙開発
 1994年2月4日、純国産ロケットのH-IIロケット(試験機1号機)の打ち上げが成功しました。ロケットの性能確認衛星「みょうじょう」と有翼宇宙往還機HOPEのためのデータ収集用軌道再突入実験機「りゅうせい」が搭載されていました。H-IIロケットは、重量2トン級の静止衛星打上げ能力をもつ、大型ロケットです。これまで、アメリカの技術を導入して開発してきたロケットに変わり、全て国産の技術による2段式ロケットです。第1段には、H-IIロケットのために新たに開発した、真空中で約110トンの推力をもつLE-7と呼ばれる大型で高性能な液体酸素・液体水素エンジンを、また第2段には、H-IIロケットで開発したエンジンをさらに高性能、高信頼化したLE-5Aエンジンを採用しました。1トン程度の静止衛星なら、同時に2個打ち上げることが可能で、他国のロケットで同じくらいの打ち上げ能力を持つものは、2~3倍の大きさを必要とし、当時もっとも効率的なロケットとして開発されました。
 一方、H-IIロケットは、性能上は非常に効率的なロケットでしたが、その経済性(打ち上げコスト)は決して良いものではありませんでした。当時、各国のロケット打ち上げコストを見ると、アメリカのデルタロケットは1機約90億円、ヨーロッパのアリアンロケットは100~130億円、ロシアのプロトンロケットは43~67億円でしたが、日本のH-IIロケットは190億円でした。改良型であるH-IIAロケットの開発目的のひとつに打ち上げコストの削減があげられていたことからもわかります。その結果H-IIAロケットは90億円台までコストダウンしています。
 さて、H-IIロケットは1994年の初フライト成功以来、静止気象衛星「ひまわり5号」や技術試験衛星「きく6号、7号」などの打ち上げに貢献してきました。しかし、1998年の5号機は軌道投入に失敗し、1999年の8号機も打上げ失敗しました。その結果、以後に予定していた7号機の打上げを中止し、その使命を終了し、その技術は次のH-IIAロケットに引き継がれました。(HY)

日本人初の民間宇宙飛行(1990/12/02)

1990-12-02 11:53:14 | 宇宙開発
1990/12/02


ソ連とアメリカの対抗で進んだ宇宙開発ですが,日本はかなり出遅れてしまいました。
日本人の有人宇宙飛行はこの両国に頼らざるを得なかったのです。
宇宙開発事業団に所属している毛利衛宇宙飛行士がアメリカのスペースシャトルによる宇宙飛行に出る予定だったのです。しかし,スペースシャトルチャレンジャー号の事故によって飛行計画が大幅に見直される事になってしまったのです。
一方,民間人としてはまだまだ個人の資金で宇宙に行くのは無理で,企業がスポンサーに付け,打ち上げ資金を獲得するために座席を解放しているロシアの宇宙船を利用するのが一番現実的でした。開発当初は色々と問題はあったのですが,長い歴史で安定運行をしているソユーズという宇宙船です。

日本人として初めて宇宙に飛び立ったのは,このソユーズを利用してTBSが宇宙特派員として派遣された秋山豊寛さんになった訳です。秋山さんはソユーズTM11で宇宙に飛び立ち,宇宙ステーションミールに9日間滞在しました。
もちろん飛び立つために長期間の訓練を行い,宇宙空間でも睡眠実験などに協力をしました。

最近になって色々なところから宇宙旅行の話が出てきています。そう遠くない将来,自分たちも宇宙旅行に出かけられるような時代になるのかもしれません。もちろん莫大にお金を持っている人はですが。

いずれにしても,このような先人たちの様々な努力やデータによって,これからの宇宙旅行も支えられているという事に違いはないでしょう。

科学衛星「ひてん」打ち上げ(1990/01/24)

1990-01-24 18:07:43 | 宇宙開発
なにかと宇宙開発への進出が遅れているように言われている日本ですが、ロシア、アメリカに次いで月へ向かった探査機は日本の探査機「ひてん」(宇宙科学研究所によって打ち上げられた第13号科学衛星MUSES-A)でした。M-3SII-5ロケットによって、1990年1月24日20時46分に鹿児島宇宙空間観測所(現内之浦宇宙空間観測所)から打ち上げられました。燃料と搭載していた孫衛星を含め197kgで、高さ0.79m、直径1.4mの円筒形の衛星です。
「ひてん」の実験内容は、将来の惑星探査計画に必要となる、軌道の精密標定・制御・高効率データ伝送技術や、月の重力を利用した、宇宙飛翔体の軌道変換、いわゆるスイング・バイ実験などです。また、ミュンヘン工科大学の共同研究として、ダストカウンターによる地球・月空間の宇宙塵の計測もおこなわれました。月の重力を利用して加速する「スウィングバイ」は地球から遠く離れた惑星探査にはかかせない燃料を節約する技術であり、全部で8回行われました。また地球の大気層の抵抗を利用した軌道修正技術「エアロブレーキ実験」は世界で初めてということで海外からも注目されました。また、1990年3月には搭載していた孫衛星「はごろも」を月周回軌道へ投入することにも成功し、1993年4月11日に月面へ衝突させ、その任務を終えました。
衝突時の発光現象はシドニー郊外にあるアングロ・オーストラリアン天文台でとらえられました。現在でも「ひてん」は、ウサギの耳(蟹のハサミ)の先端よりやや南にあるステヴィヌス・クレーター付近にあるはずです。(HY)

旧ソ連の探査機「べガ1号」が世界で初めて彗星の核を近接撮影(1986/03/06)

1986-03-06 00:00:00 | 宇宙開発
 ハレー彗星は、約76年周期で地球に接近するもっとも有名な周期彗星です。前回の出現は1986年、次回は2061年と考えられています。
 ハレー彗星が地球に接近した1986年、その実体を解明するために、探査機がつぎつぎと打ち上げられました。旧ソ連は1984年12月15日と21日に「ベガ1号」と「ベガ2号」を、ヨーロッパ宇宙機関(ESA)は1985年7月2日に「ジオット」を、日本も文部省宇宙科学研究所(ISAS)が同年1月8日と8月18日「さきがけ」と「すいせい」を、それぞれ打ち上げました。
 ベガ1号は、金星からおよそ3万9千kmの位置を通過して、ハレー彗星観測軌道へ進み、1986年3月6日、ハレー彗星からおよそ9千kmまで接近し、核の様子を撮影しました。これが、世界初、彗星の核の近接撮影となりました。この結果、ハレー彗星の実態が明らかになってきました。彗星は氷と塵でできた核に鉱物や金属が混入しており、大きさが8×8×16km程度の大きさでジャガイモのような不定形をしていることが確認されました。

スペースシャトルチャレンジャー爆発事故(1986/01/28)

1986-01-28 21:32:39 | 宇宙開発
1986/01/28 スペースシャトルチャレンジャー爆発事故

スペースシャトルは、今まで宇宙開発に利用してきたロケットとは違い、地球と宇宙空間を往復して運用できるアメリカの有人宇宙飛行船です。開発したのはアメリカ航空宇宙局(NASA)です。
軌道船であるオービタと固体ロケットブースタ,外部タンクでできています。外部タンクは使い捨てですが,それ以外は再利用が可能で,大幅なコストダウンにつながっています。

シャトル自体は1981年に初飛行が行われました。このオービターはコロンビアと呼ばれました。その後、チャレンジャー・ディスカバリー・アトランティスと合計4機のオービターが次々打ち上げられたのです。有人宇宙輸送の安価なシステムが完成し、安定運行が可能になっ
たように思えたのです。

しかし、1986年1月28日、スペースシャトルとしては25回目の記念すべき飛行でした。様々な人種、性別、職業の搭乗員、特に一般人として女性高校教師が搭乗し、生徒達と交信する予定でしたから非常に注目されたフライトだったのです。シャトルの定員は宇宙飛行士7名です。

順調にカウントダウンが行なわれ,打ち上げから73秒後に、固体ロケットブースター異常によって爆発し、搭乗者全員の命が失われたのです。この大事故によってNASAのシャトル計画は大幅な見直しが行われました。

飛行を重ねるたびに,データを元にさまざまな修繕を行ない,外部の耐熱タイルや飛行制御システム,主エンジンも改良されたのです。

しかし,今後は新型シャトルの開発という計画もありましたが、開発の遅れなどで全て中止され,アポロ宇宙船のようなシステムで宇宙開発という予定のようです。

ハレー彗星探査機「さきがけ」打ち上げ(1986/01/08)

1986-01-08 00:00:00 | 宇宙開発
1986/01/08

 人工衛星「さきがけ」(MS-T5)は太陽系惑星探査機として1985年1月8日に鹿児島宇宙空間観測所からM-3S-IIロケット1号機で打ち上げられました。「さきかげ」は日本で初めて打ち上げられた惑星間空間探査機で、地球の重力圏から離れて太陽を周回する人工衛星です。
 「さきがけ」はハレー彗星を探査する目的のPLANET-A計画の探査機として打ち上げられました。ハレー彗星の探査、M-3S-IIロケットの性能の確認、深宇宙探査に関する技術の習得などのミッションを担いました。
 1986年3月11日、「さきかげ」は同じくハレー彗星の探査目的で日本が打ち上げた「すいせい」(日本)、「ジオット」(ESA=ヨーロッパ宇宙機構)、「アイス」(米国)、「ヴェガ1」「ヴェガ2」(ソビエト)の6機の探査機とともにハレー彗星に700万キロメートルまで接近し、ハレー彗星のまわりの太陽風磁場やプラズマの観測を行いました。この国際協力による探査機郡のことを「ハレー艦隊」と呼びます。世界で初めて実現された最大規模の国際協力の宇宙探査となりました。
 ハレー彗星の観測後は、太陽風プラズマ波動の観測を続けました。 1998年に、ジャコビニ・チンナー彗星がやってきたときに観測を行う計画が持ち上がりましたが、「さきがけ」の燃料が不十分という理由で中止されました。そして、打ち上げからちょうど14年後の1999年1月8日に搭載されている送信機を停止させ、その役割を終えました。

2005/12/26 作成 MK

国際宇宙ステーション計画開始(1984/01/25)

1984-01-25 22:39:21 | 宇宙開発
地球の上空、高度約400kmで建設が進められているISS(International Space Station:国際宇宙ステーション)は、宇宙開発に興味のある人ならば誰もが知っている人類史上最大の宇宙施設です。2005年の年末にはロシアの宇宙飛行士セルゲイ・クリカレフ氏が地球を見ながらインスタントラーメンを食べるCMでも同じみになりました。2005年12月現在、15カ国が参加して建設を進めるISSは完成するとサッカー場ほどの大きさ(108.5m×72m)で重量も450tという巨大建造物になります。
1982年にNASAではスペースシャトル計画に続く有人宇宙計画として宇宙ステーションの開発に関する話し合いが始まりました。カナダやヨーロッパ諸国そして日本に対してもその計画への参加要請を水面下で進めていました。そして1984年のこの日、レーガン大統領は年頭教書演説において「我々の次の大きな目標は、米国のパイオニア精神を構築し、新しいフロンティアを開拓することだ。私は宇宙空間に恒久的な有人宇宙基地を10年以内に建設することを指示する。」と演説し、ISS建設に正式にGoサインを表明しました。国際宇宙ステーション計画が具体的に開始したのです。
しかし、実際の建設開始までには時間が必要でした。具体的に計画が動き始めてからも各国は予算の確保に苦しみ、何度も全体計画が再設計されました。1993年の12月になってロシアが計画に参入し、ようやくISSの全体構成、建設スケジュールが決定しました。1998年に国際宇宙ステーション協定が署名され、参加国はアメリカ、ロシア、カナダ、日本、ドイツ、イタリア、フランス、イギリス、デンマーク、ベルギー、スイス、ルクセンブルグ、スペイン、スウェーデン、ノルウェーの15カ国(順不同)となりました。そしてその年の11月20日に、ようやく最初の基本モジュール「ザーリャ(日の出)」がロシアのソユーズロケットにより打ち上げられたのです。
1998年の「ザーリャ」打ち上げ時には2004年に完成予定だったISSですが、その後も計画は遅れています。2007年には日本からも実験棟「きぼう」が打ち上げられ、ISSに加わる予定ですが、すでに計画は遅れています。私たちが完成した国際宇宙ステーションを見ることができるのはいつになるのでしょうか。(HY)

日本初のX線天文衛星「はくちょう」打ち上げ(1979/02/21)

1979-02-21 00:00:00 | 宇宙開発
1979/02/21

夜空に輝いている星々は、数限りなくあるように見えますが、私たちは「可視光」という人の目に見える範囲の光を出している星しか見ていないのです。実際には目に見えない光を放っている星々が、宇宙にはまだたくさんあります。光の波長は温度と密接に絡んでいて、表面温度が約6千度の太陽は、可視光を強く出しています。一方X線は約100万度~1億度という高温の天体から放出されており、このような星は私たちには肉眼で見ることができないのです。

X線は大気に吸収されてしまうので、宇宙からのX線を検出するには、できるだけ高い所へ検出器を運び出さなければなりません。世界初のX線天文衛星は1970年アメリカの「ウルフ」でした。日本はそれから6年後、X線天文衛星「CORSA」を打ち上げましたが、失敗に終わります。そしてさらに3年後の1979年2月21日、「CORSA-b」は打ち上げに成功し、90分で地球を1周し、データレコーダに蓄えられた1周分のデータを、内之浦上空で約10分間地上に送り続けました。これが日本で初めてのX線天文衛星となり、はくちょう座のX線星にちなみ、「はくちょう」と名付けられました。

「はくちょう」は「すだれコリメーター」という日本独自の広視野のX線コリメーターを備え、X線バースト源を次々と発見し、X線パルサーの周期の異常変化やブラックホール候補のX線星を観測するなど、国際的に高い評価を得ました。「はくちょう」の成功により、日本はX線天文学の分野で世界をリードするまでに至ったのです。

この「はくちょう」は、6年間活躍した後、1985年4月16日、大気圏に突入して消滅しました。日本は「てんま」(1983年2月打ち上げ)、「ぎんが」(1987年2月打ち上げ)、「あすか」(1993年2月打ち上げ)と次々にX線天文衛星を送り出し、数々の貴重な成果を上げてきました。現在は「すざく」(2005年7月打ち上げ)が観測を続けていますが、昨年8月に起きた、目玉となる観測機器の故障が懸念されるところです。

2006.01.31 作成 KS

人類初の宇宙ステーション打ち上げ(1971/04/19)

1971-04-19 00:00:00 | 宇宙開発
1971/04/19

1971年4月19日、旧ソ連によって、人類初の宇宙ステーション「サリュート1号」が打ち上げられました。

当時、宇宙開発は米国と旧ソ連の間で熾烈な競争が行われていました。旧ソ連がガガーリン宇宙飛行士を乗せた人類初の有人宇宙船を成し遂げると(1961年4月12日)、米国は旧ソ連に遅れを取るなとアポロ11号で人類初の月面着陸を成功させました(1969年7月20)。人類初の月面着陸を米国に譲った旧ソ連は宇宙開発のミッションを宇宙空間での長期滞在に変更します。その計画がサリュートでした。旧ソ連は人類初の宇宙ステーションの計画を成功させたのです。サリュートは1971年から1982年の間に1号から7号まで打ち上げられ、最後の7号は1986年まで運用されました。

1986年には新しい宇宙ステーション「ミール」が打ち上げられます。1990年12月2日にソユーズで宇宙へと旅だった日本人初の宇宙飛行士、秋山豊寛さんもミールに滞在しています。

2007/04/18 作成 MK