1996年1月11日(日本時間)、アメリカのケネディ宇宙センターからスペースシャトル「エンデバー号」が打ち上げられました。宇宙開発事業団(NASDA)の若田光一宇宙飛行士は、日本人初の搭乗運用技術者(ミッションスペシャリスト)として5名のアメリカ人クルーと共にSTS-72(スペーストランスポーティションシステム-72)ミッションに参加しました。
STS-72は、NASDAが1995年3月18日にH-IIロケット3号機により種子島宇宙センターから打ち上げた宇宙実験・観測フリーフライヤ(SFU)の回収、アメリカ航空宇宙局(NASA)のフリーフライヤ「OAST-FLYER」の放出および回収、さらに国際宇宙ステーション組立用の船外活動関連機器の試験等を行うNASAのスペースシャトルミッションです。
1996年1月13日、エンデバー打ち上げから3日目、予定通りの軌道に達し14時50分、SFUの回収作業が開始されましたしかし、折りたたみ式の2枚の太陽電池パドル(SAP)の収納完了が確認できませんでした。そこで、部分的に開いてまた畳むという作業を3回繰り返しましたが、ついにSAPの収納をあきらめました。そして、2枚のSAPを切り離した後、SFUは若田宇宙飛行士の操作するロボットアーム(RMS)によりとらえられ、シャトルのカーゴベイに固定され、エンデバーは20日16時42分ケネディ宇宙センターに無事着陸しました。こうして、若田宇宙飛行士は日本人初のミッションスペシャリストとして、そしてさらに、日本初の衛星回収に成功したのです。
また、国際宇宙ステーション建設のための予行演習で2人の宇宙飛行士が船外活動を行ったときにも、若田宇宙飛行士はロボットアームを操作して、船外活動の手助けをしました。
SFUは、打ち上げ機から放出された後、地球の低高度軌道(300~500km)で数ヶ月間実験を行い、回収されて地上に戻るものです。繰り返し利用できるものとして設計されています。SFUはアルミニウム合金の8角形トラスで、8組の実験モジュールを取り付けたり、取り外したりしやすいメカニズムになっています。
若田さんの活躍は、日本の有人宇宙開発にとって大いに役立つものでした。
STS-72は、NASDAが1995年3月18日にH-IIロケット3号機により種子島宇宙センターから打ち上げた宇宙実験・観測フリーフライヤ(SFU)の回収、アメリカ航空宇宙局(NASA)のフリーフライヤ「OAST-FLYER」の放出および回収、さらに国際宇宙ステーション組立用の船外活動関連機器の試験等を行うNASAのスペースシャトルミッションです。
1996年1月13日、エンデバー打ち上げから3日目、予定通りの軌道に達し14時50分、SFUの回収作業が開始されましたしかし、折りたたみ式の2枚の太陽電池パドル(SAP)の収納完了が確認できませんでした。そこで、部分的に開いてまた畳むという作業を3回繰り返しましたが、ついにSAPの収納をあきらめました。そして、2枚のSAPを切り離した後、SFUは若田宇宙飛行士の操作するロボットアーム(RMS)によりとらえられ、シャトルのカーゴベイに固定され、エンデバーは20日16時42分ケネディ宇宙センターに無事着陸しました。こうして、若田宇宙飛行士は日本人初のミッションスペシャリストとして、そしてさらに、日本初の衛星回収に成功したのです。
また、国際宇宙ステーション建設のための予行演習で2人の宇宙飛行士が船外活動を行ったときにも、若田宇宙飛行士はロボットアームを操作して、船外活動の手助けをしました。
SFUは、打ち上げ機から放出された後、地球の低高度軌道(300~500km)で数ヶ月間実験を行い、回収されて地上に戻るものです。繰り返し利用できるものとして設計されています。SFUはアルミニウム合金の8角形トラスで、8組の実験モジュールを取り付けたり、取り外したりしやすいメカニズムになっています。
若田さんの活躍は、日本の有人宇宙開発にとって大いに役立つものでした。