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今日は何の日?

昔の今日は何があったのでしょうか?ちょっとのぞいてみましょう。

アンペール生誕(1775/1/22)

1775-01-22 18:58:08 | 誕生日
中学生を今でも悩ませる右ネジの法則は、フランスの物理学者で電磁気学の創始者アンペールが提唱したものです。電流の単位のA(アンペア)は彼の名にちなんでつけられています。
アンドレ・マリー・アンペールは、 1775年1月22日、フランスのリヨンに裕福な商人の子として生まれました。幼い頃から数学や語学で特別な才能を発揮し、11歳で代数・幾何学をマスターし、12歳にはラテン語で書かれた微積分のテキストを読み終えていたと言われています。
彼が22歳になった年の1793年、フランス法廷で判事をしていたアンペールの父親は、フランス革命は行き過ぎであるという主張を崩さなかったため、貴族主義者であるとの誤解を受け、ギロチンで小計されてしまいます。これにショックを受けたアンペールは、1年以上もの間、無気力状態になってしまいました。
しかし、リンネやルソーの植物学の書物に出会ったことがきっかけとなり、次第に無気力状態から脱し、自然科学にも興味を示すようになりました。家庭教師などで生計をたてていた彼は、その後、高等中学校の教師となり、1805年にはパリのエコール・ポリテクニクの解析学講師となります。彼の才能は、当時の皇帝ナポレオンにも認められるようになり、1819年にはパリ大学哲学講師、1820年には天文学助教授、1824年にコレージュ・ド・フランスの実験物理学教授となりました。
彼は、デンマーク・コペンハーゲン大学の物理学教授が出した電流の磁気作用についての論文に刺激されて自分でも研究をはじめ、“右ねじの法則”を発見し、のちに、この法則をもとにして、2本の電流間に働く力についての“アンペールの法則”を発表しました。
 彼は、電磁気学の基礎を気づいた一人として評価され、アンペールの法則は、電磁気学の基礎であるマクスウェルの方程式の4つの方程式の1つとなっています。(KK)

アイザック・ニュートン生誕(1643/1/4)

1643-01-04 23:08:26 | 誕生日
アイザック・ニュートンは、イギリス、リンカーシャー地方のウールスソープという村で農民の家庭に生まれました。当時イギリスで使用されていた旧暦(ユリウス暦)でいうと、ニュートンが生誕したのは1642年の12月25日です。これを新暦(グレゴリオ暦)に換算すると1643年1月4日になります。
 ニュートンは、父アイザック・ニュートン(父も同名)の子として、比較的裕福な農家に生まれました。しかし、生まれた当時は父が既に死んでおり、さらに未熟児として生まれたため、育つかどうか危ぶまれました。それでも、母親の懸命な努力で丈夫に育ちます。
 ニュートンはわずか3歳になったころから、母方の祖母の家へ里子にだされます。母親がニュートンの養育費を確保するために30歳以上年上の裕福な司祭と再婚するためという理由でした。猜疑心が強く、怒りっぽいなど、人と交わりにくいニュートンの性格は、愛情に飢えた幼少時代を過ごしたことからきているとも言われています。
 1661年、ニュートンはケンブリッジ大学のトリニティーカレッジに入学します。大学3年生のころから本格的に独学で勉強し始め、数学では当時のトップクラスの研究も理解できるほどまでになります。1665年1月に大学を卒業しましが、ちょうどこのころ、イギリスではペストが大流行し、その年の6月から1年半、故郷のリンカーシャーに帰省しました。この1年半にニュートンは、万有引力の法則をはじめ、運動の法則、微分積分法、光と色の理論をまとめました。「リンゴの木を見ていて、万有引力を思いついた」という逸話は、この頃のことです。
 その後、教員となり大学に戻ったニュートンは、才能が認められ、ルーカス数学教授(ケンブリッジ大学の数学教授の称号)に就任します。1672年には、ロンドンの王立協会(今で言うところの学会)の会員に選出され、自らの光学の理論を発表しようとしますが、これをきっかけにして、ロバート・フックと対立します。この対立関係はフックがなくなるまで続きました。ニュートンは微分積分法もライプニッツとは別に発見していますが、どちらが発見したかについて、ライプニッツとも論争をしています。
ニュートンは、ハリーの資金協力などもあり、1687年に「プリンキピア」を刊行しました。これはフックに対抗して実績を示すためであったとも言われています。フックの死後、ニュートンは王立協会の会長となりました。
 彼が残したニュートン力学は、海王星や冥王星の発見をもたらしただけでなく、その後の科学界に大きな影響を与え、近代科学技術の発展に貢献しています。

ニコラス・コペルニクス誕生(1473/02/19)

1473-02-19 00:00:00 | 誕生日
1473/02/19

「コペルニクス的転換」という言葉は、コペルニクスがそれまで長い間人々に信じられていた地球中心説から、太陽中心説へと思考の基本転換をおこなったことにより生まれた言葉です。前者を天動説、後者を地動説といいますが、この地動説を唱えたことで有名なコペルニクスは、1473年2月19日、ポーランドの商業都市トルニに、商人の子として生まれました。

コペルニクスは裕福な家庭に生まれましたが、10歳のときに父を亡くし、その後母方の叔父に育てられました。18歳でクラクワ大学へ入学し、以後イタリアのボローニャ、ローマ、パドーバと33歳までに神学、数学、医学、天文学、法律と、実に広い分野にわたって学問に接しています。叔父は彼が司祭になることを望んでいましたが、彼は天文学の研究に没頭しました。

天動説は1900年前の天文学者プトレマイオスが地球中心の宇宙体系として、著書「アル・マゲスト」にまとめたものです。当時から、星には恒星と惑星があることがわかっていましたが、恒星が位置関係を変えず全体が同じ方向に動くのに対し、惑星は恒星を追い抜いたり逆戻りして見えます。これを、プトレマイオスは地球を中心とする円周に、さらに小さな円周が回っているという複雑なモデルで説明しました。この地球中心説は「不動の大地」という聖書の教えとも一致し、16世紀まで人々の支持を得ていました。

しかしコペルニクスは、古代ギリシャのアリスタルコスの説に注目し、地球が中心ではなく、太陽を中心として地球や惑星が回っているとした方が、天体の動きを非常に簡単に説明できることに気付きました。さらに、自転という概念を取り入れることで、今までの疑問がスッキリと解決することに驚きさえも覚えたのでした。
彼はこの太陽中心説を手書きの「要約」にしてヨーロッパの学者に回覧したところ、好評を得ました。そして、弟子の薦めにより出版を決意し、「天球の回転について」が1543年に出版されました。しかしそのときコペルニクスは、死の床にあったといわれています。

当時反宗教改革運動の盛り上がりとともに、この著書は1559年に「禁書目録」に加えられましたが、その後のガリレオやケプラーといった多くの人々に影響を及ぼした、天文学上重要な再発見だったのです。
ケプラーの生まれ故郷に、コペルニクスの立像があります。その像は新たな宇宙像を掲げ、左足は「アル・マゲスト」を踏みつけています。もちろん、これはコペルニクスがプトレマイオスの天文学を否定したということを表しているのです。

2006.01.03 作成 KS