詩集「2N世代」

詩作品、短編、評論、エッセイ他: Blogタイトルと内容がこの数年異なってきた。タイトルを変えたほうがいいかもしれない。

John Hay's Lincoln Lincoln's John Hay

2012年09月28日 10時16分59秒 | サイト&人物の紹介

Nicolay, Lincoln and Hay, photographed by Alexander Gardner November 1863, and later painted over in watercolor at Nicolay’s request so that the portrait is set in the White House work room.
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Lincolnの長男Robertは父の死後10年目に母がいよいよおかしくなって、一家の当主としてではあるが、騙して母をおびき寄せて精神病院に隔離してしまう。当然母は激怒、親子の関係は破綻するのであるが、Robert自身も随分と悩んだのだろう、この件についてHay(写真右立っている人物)に相談の手紙を出している。それを見て実は驚いた。このHayこそ、あの門戸開放宣言のJohn Hayであるからだ。教科書には門戸解放宣言とJohn Hayの名は必ず登場するが、John Hayという人物の解明はなされていない。彼の思想形成におけるLincolnとの親子のような親しい関係は、またその影響は検証されたことがない。John HayはWhite Houseに寝泊まりし、同じベッドで夜を徹して語り合ったLincolnを取り巻く男たちの中でも、一番Lincolnに感化された政治家だったと言えるのではないだろうか。余談になるが「見えない鳥の存在」別室の上映会 (30) Steven Spielberg's Lincoln の参照:Charlie Rose - Doris Kearns Goodwinをクリックしてこの伝記作家のInterviewを聞いていると、どうもLincolnにはHomosexualの噂があるらしいことを知った。Lincoln-Gayで検索すると延々とペイジが出てきて驚いた。とは言え100%断定するものはなく、ましてJohn Hayとの関係を云々するものもないことはここで断っておく。という訳で、Robertを通して(RobertとJohn Hayは親友関係であった)John HayがLincoln一家にとってほぼ家族に近い存在だったということに気づいたのだった。正式に彼はLincolnの個人秘書でもあった。上の写真左側に座っているのはHayの友人でもうひとりの個人秘書だったNocolay.
John Hay: wikipedia: John Hay (1838-1905)
Lincoln treated Hay with the affection of a father, only with more than a father's freedom. If he waked at night he roused Hay, and they read together; in summer they rode in the afternoons, and dined in the evenings at the Soldiers' Home. In public matters the older man reposed in the younger unlimited confidence.
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Abraham Lincoln16代大統領、その時の副大統領・閣僚・最高裁長官の中にJohn Hayの名前はない。John Hayが歴史に出るのは25代大統領William McKinleyの時に国務長官となり門戸開放政策の提案をしてからだ。John Hayの存在は従って後者(1)のイメージは突出しているが、前者(2)の関係の意味を問われたことはない。
・・・・・(1)・・・・・
After the Civil War Hay served as a distinguished poet, novelist, journalist, businessman and diplomat, including service as Ambassador to Great Britain (1897-98) and Secretary of State (1898-1905) under Presidents William McKinley and Theodore Roosevelt. Hay managed the Open Door Policy toward China, negotiated the Hay-Pauncefote Treaty and helped arrange for construction of Panama Canal.
日本史に於けるJohn HayのOpen Door Policyの意味↓。
正統史観年表:門戸開放主義の提唱:
九ヵ国条約と米国の門戸開放主義
John Milton Hay:
The Open Door in China, 1899-1900
John L. O’Sullivan, Manifest Destiny
この辺りのことは西尾幹二先生が「アメリカは何故日本と戦争をしたのか」の講演で一番最初に検証の対象とされている。従って今回は門戸開放提案には触れず最初に戻ってLincolnとJohn Hayの関係がわかったところから何が引き出せるか(2)を考察したい。
・・・・・(2)・・・・・
John Hay's Lincoln Lincoln's John Hay:
Robert Todd Lincoln (1843-1926)
Mr. Lincoln & His Observers
Residents and Visitors
Lincoln Research Site:
Tragedy Strikes: The Assassination:
John Hay (1838-1905):
Reception and Legacy
Writing Abraham Lincoln: A History
ここで今回思い切って仮説をたてたい。ヘイは同僚の秘書、ジョン・G・ニコレイと共に10巻に及ぶリンカーンの伝記(1890年)を執筆出版した。これにより奴隷解放者Lincolnのイメージを確立したという仮説である。単なるManifest Destinyよりも、奴隷解放というHumanismを持ち込めば、そこに普遍的正義と名声が付加することを、その結果として知ることとなった。Lincolnの伝記を書いたというより、実はLincolnの歴史を作ったのである。ある意味HayはLincolnの使徒であった、そしてこれを裏付ける資料はあっても覆す資料はない。次に第二の仮説である。「門戸解放政策提案」はどこから閃いたのだろうか?唐突でも無根拠でも無いはずだ。年月を経てMacKinleyの下で国務長官となった彼は、Humanismによって正義を確保した以前の絶対的手法を思い出したのだ。門戸開放・機会均等・領土保全を振りかざせば、向かうところ敵なし、年月とともにこの政策は功を奏する確信があったのだ。Lincolnを奴隷解放によって歴史上の偉人に仕立て上げた彼だからこそ「門戸開放」を発想しえた、というのが第二の仮説である。つまり彼がLincolnの使徒であった、という過去の事実が「門戸開放」の着眼に繋がった。そしてこの「門戸開放」をマクロ的に大きくジャンプさせれば、結果として日米衝突、そして日米開戦に、それこそDestinyとして最終着地するということだ。

・・・・・追記:2012年9月29日・・・・・
上の仮説はLincoln家とJohn Hayの親密な関係の発見に着眼を得たことに加え、Lincolnと分離し難く捉えられている奴隷解放宣言は、勿論南北戦争の目的でもなく、Lincolnの理念でもなく願望でもなく、戦争に勝つために、見方を多く集めるためのPropagangaであったという説の肯定を前提とした上に組み立てたものです。
参照:Emancipation Proclamation Background Information

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参照:Tom's Cabin by Harriet Beecher Stowe - Parts 1-8
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