たちの悪い浦島太郎だった僕は大学時代、年越しに実家へ帰ったことなどない、というか、実家について考えたことすらなかった。
大晦日にどこでなにをしていたかというと、下のとおり。
本当にドラ息子で、これでは(現在大学生の)自分の息子に何も言えるわけがない。
○1981年~82年 浅草国際劇場 ニューイヤーロックフェスティバル
○1982年~83年 新宿ロフト サンハウス復活ライブ
○1983年~84年 渋谷PARCO劇場 ニューイヤーロックフェスティバル
ライブで騒いだ後は着替えて鎌倉まで足を伸ばし、初詣客でごった返す鶴岡八幡宮を遥拝するのが毎年の習慣だった。
シーナ&ザ・ロケットやルースターズのライブへ通ううち、いつの間にか顔なじみになった何人かと小さなグループができていた。
看護師のユリちゃん、新聞記者のヤスコさん、M大の軽音部のハラ、カメラマン志望のフジタさん、少女漫画家のツヅキさん、先輩格でOLのクリタニさん。
みな音楽や映画や文学が心底好きで、詳しかった。
初期のルースターズは、同時期に博多から出てきたライバルバンド、陣内孝則率いるロッカーズと対バンでのライブが多かった。
1981年大晦日のニューイヤーロックフェスティバル終演後(明けて82年元旦)、家出少年少女の風体の僕らは浅草国際劇場の入口でばったりロッカーズのメンバーと出くわした。
細身の豹柄のスーツに金髪といういでたちのギターの鶴川が美人のユリちゃんにすかさず目を止めて声を掛けた。
「きみ、仕事何してるの?」
看護婦(当時)です、と答えると、鶴川が言った、
「ああ、ナースね。」
この言い換えがやたらキザでカッコよく聞こえて、今でも借用させていただいている。
鶴川。隣りは陣内(この当時からとにかくMCが上手かった)
当日のルースターズ、当日の会場