「入院していた友人が発作を起こしてICUへ移送されたとの連絡をもらい、僕はセンダード市の病院まで車を飛ばした。たまたま午後の職員が少ない時間だったのが幸いしたのか、止められることもなくICU専用の控室まで入ることができた。
友人の会社の社員たちはそれぞれ忙しく連絡業務に追われており、あとから着いた僕がひとり留守番のようになっていた。
病状と治療の進捗について、説明がないか、じりじりと待ち続けていると突然、バ―ンとドアが開いた。地元選出の代議士だった。
あれ、井浦さんじゃない、ほかの社員たちは?
現在これこれこうなっています、先生は東京からいらしたのですね?
うん、さっき国会が終わったので新幹線とタクシーを乗り継いで戻ってきた。昨晩もね、ここに泊って朝、上京したんだ。ほら、彼は天涯孤独だろ、こんな時くらいオレがついていてやらないとさ。
先生に付き添われて、彼は幸せですね。先生がテレビに映ると、必ず嬉しそうにツッコミを入れてましたから。
まもなく僕は病院を後にした。代議士はこのまま控室で明日の衆議院本会議の下準備をするというので、邪魔をしてはと思い。
結局、友人は十年におよんだ苦しい闘病生活ののちに亡くなった。
I理事長、今日も先生はテレビに出てましたよ、本当に、本当に、誇らしいですね!」
イメージ(画像と本文は直接関係ありません)
今夜から新米だけど、おかずは何がいい?と家人に尋ねられて、何と言ってもアレでしょう、と挙げたのは、本市で創業三百年を誇る横田屋本店さんののり佃煮です。
僕にとってこれはもう、「ままかり」(=おいしくて食が進み過ぎ、隣家からご飯を借りてくるほどという小魚の名前)で、茶碗に軽くよそったご飯の上にスプーンひとさじ弱を乗せ、茶碗を汚さないよう気をつけつつ、ご飯を切り分けながら食べれば、まさに至福の時です。
香蘭社の茶碗、一等級の杉の割り箸、それに氷水で、初物を美味しくいただきました。
同社HPより
(平成26年5月)
「未知への飛行」より。中央の大男がマッソー。
きれいに髪を撫でつけ、タキシードへ黒のボウタイを締めて鏡をのぞき込むたび、「未知への飛行」(1964年)のウォルター・マッソーに似ていないだろうな、と心配したものだ。
極端な反共思想を独特の話術で披露してその場を支配する大柄な政治学者。怖いキャラクターだった。
「がんばれベアーズ」(1974年)の、お人よし監督と同一人物とはとても思えない。
マッソーが一番怖かったのは、カーク・ダグラスとキム・ノヴァク主演の「逢う時はいつも他人」(1960年)だ。ダグラスとノヴァクがひっそりと逢瀬を重ねる中、その関係を察知してダグラスの妻にニヤニヤ言い寄ってくる隣人。唾棄すべきキャラクターだった。
面白いことに、ダグラスは次作「脱獄」(1962年)でもマッソーを起用している。脱獄犯の自分をジープでヘリで、どこまでも執拗に追ってくる保安官役として。
実を言うとそれ以前にダグラスは自身が設立した独立プロダクション、ブライナ・プロの記念すべき第一作「赤い砦」(1955年)へもマッソーをキャスティングしている。こちらもかなり嫌な悪役だ。
のちに生涯のライバルとなる名優バート・ランカスター唯一の単独監督作「ケンタッキー人」(1955年、ヘクト=ランカスター・プロ作品)で映画デビューを果たしたマッソーを観ての起用だった。抜け目のないダグラスらしい。さらに、自伝「くず屋の息子」にはまだ映画慣れしていなかった若い舞台俳優のマッソーへ映画撮影のイロハを教えたエピソードが披露されており、このへんがダグラスの嫌われるゆえんだ。
ともあれ、ハリウッド有数の気難し屋ダグラスが三度も使ったのは、よほど才能を認めていたからに違いない。また、ギャラも安かったのだろう。
「逢う時はいつも他人」より。ダグラス(右)の鉄拳制裁。
連日、敬老会が催されています。
まずはグループホームポラーノの杜です。
小規模多機能ホームぽらん気仙沼はお昼に外食という企画でした。
同じくグループホームポラーノはお昼を気仙沼プラザホテルで外食、午後3時にお茶会という企画でした。
ここでも特注の敬老パンが提供されています。
小規模多機能ホームぽらん大島では調理員が腕によりをかけたお膳が振舞われていました。
今年も敬老会のシーズンがやってきました。
地元選出の元防衛大臣から、今年度も祝辞をいただきました。
ぽらんデイサービス
特注の敬老パン。なごみのロゴを入れていただきました。