「苦学生だった僕は進学早々、本気でアルバイトをしないと生活が成り立たなかった。
初めてのバイトは定番の引っ越し作業。もちろん、日払いだ。
いろいろな意味で、今で言うブラックバイトもいいところだった。
次は遺跡発掘。これも日払いだ。
京王線沿線は府中を過ぎるとほとんど駅ごとに遺跡がある。
僕が通ったのは百草園という、(最寄駅の)多摩動物公園駅から2つ目の、各駅停車しか止まらないさびれた駅の近くの遺跡だった。
アルバイトはほとんどが同じように地方から出てきて苦学しているC大生かそのOBで、後者は多くが司法浪人(難関の司法試験を受け続けている方々)だった。
炎天下、アルバイトが一列になって地表をレーキで削って行くと、ところどころ土の色が赤黒く変わっている。
これが土器などが埋まっている可能性のある地点だ。
男たちが一列で黙々と削り進むさまは、映画で観るチェインギャング(戦前のアメリカの刑務所に収監された囚人たちは、道路工事などの重労働に狩り出される際には鎖と鉄球を足に取り付けられ、ムカデ競走のようにして歩き、一列になってつるはしを振るった)さながらの光景だった。
その当時は言葉すらなかったが、よく熱中症にならなかったものだと振り返って感心する。
この苦しい作業の中で知り合った司法浪人2年目のOBとはアパートが近いことがわかって、内縁の奥さんが作る手料理を食べに来るよう誘われた。
数日後、行ってみると先客がいた。
司法浪人7年目というつわもののOBだった。
僕が手土産にと持参した缶ビールを遠慮なく次々飲み干すと、気が大きくなったのか、近くのオレのアパートへ飲みに来いと言う。
もう内心閉口していたものの、当時はまだ若くて断る方便を持ち合わせておらず、3人でふらふら千鳥足でアパートまで行ったところ、ドアを開けた途端、雷が落ちた。
そこはOBのアパートではなく、やはり内縁の奥さん宅だったのだ。
そこからの、酔いがすっかり醒めたOBの態度は卑屈という表現そのもので、長く女性に養われると秀才でもこのようなことになってしまうのだな、という、僕にとっては上京して初めてに近い恐怖体験になった。
(幸い、僕自身は同じ法学部でも法律学科ではなく政治学科だったので、司法試験は将来の選択肢に最初から入っていなかった。)」
その後、司法浪人が社会的な問題になったこともあって、2006年から始まった新司法試験は、新設された司法予備試験合格後、または法科大学院卒業後5年以内3回まで※と受験回数および期間の制限が定められている。
※2014年からは5年以内5回までに緩和されている。
「おかえりモネ」もとうとう今週で最終回を迎える。
ヒロインが東京へ出てとんとん拍子に運を掴むさまを観て、思い出したことがある。
僕が足を踏み入れたアパートの中で最も悲しい気持ちにさせられたのは、大学生のころに知り合った友人が住んでいた三軒茶屋(太子堂)の物件だった。
共用玄関、内廊下、共同トイレの、いわゆる「めぞん一刻」式で、もちろん風呂などない。かろうじて、古ぼけたタイル貼りの流しがついていた。
ある日、その部屋から片手に靴を持って出ようとドアを開けると、折あしく隣人に出くわした。
洗濯物を入れているのか紙の手提げ袋を持ったその人とは目が合ってしまったので軽く会釈したところが、「井浦くん?」と相手が言う。
もう一度よく顔を見ると、小中と同級のコだった。
驚きから立ち直れず、ああ、ハタノさんもこっちに出てきてたんだね、などとマヌケな返答が口から出た。
うなずいた彼女は、僕が手にした靴とドアを交互に見やると、「じゃあ、またね」と笑って部屋の中に消えた。
上京した十代の僕たちのほとんどがまず直面するのが、劣悪な住環境とビンボーだった。
これにめげずに、勉学や目標や夢に邁進する新生活を築くのは本当に容易なことではなかった。
そのあと彼女とは顔を合わせる機会がないままでいるが、どこかで幸せに暮らしていて欲しい。
というか、気仙沼を出て他県・他市町村で暮らしているすべての女性たちが、幸せにすこやかに暮らしていることを、切に切に願ってやまない。
数年前、デパートで手に取った革手袋がボルサリーノ社の製品だったのには驚いた。
ただし、日本製のライセンシー商品だったことから少し迷ったが、結局購入した。
ダーバンのスーツを着ても強くなった気はしないが(そもそも持っていない)、ボルサリーノの手袋をつけるとワクワクする。
フランス映画「ボルサリーノ」(1970年)はチンピラ二人(アラン・ドロンとジャン=ポール・ベルモンド)がマルセイユの暗黒街でなり上がり、あこがれの名品イタリア・ボルサリーノ社製の帽子をかぶるまでになるのだが―、というストーリー。
ドロンが自身のプロダクションの企画へ三拝九拝してベルモンドを招き実現させた競演作だ。
ただし、有名な作品の割に、さほど面白くない。
脚本が薄く、特にベルモンドの個性を生かし切れていない。
内容よりも、スター二人の間の緊張感がヘンに伝わってきて、そちらにハラハラする。
かえって、野沢那智(ドロン)と山田康雄(ベルモンド)による往年の吹替版を「ながら見」するくらいがちょうどいいかもしれない。
今は手袋だが、もう少し頭が寒くなってきたら、ボルサリーノの帽子もありかな、とベルモンドの訃報に接して不謹慎なことを想った。
日本では劇場未公開だったものの日本語吹替版が時々テレビにかかり、のちにビデオ化された「三人の秘密」(1950年)という古い映画がある。
セスナ機事故で一人生き残った5歳の少年が、かつて事情があって養護施設に預け里子に出した実の子供ではないかと胸をざわつかせながら現場に駆け付けた三人の女性を、エリナ・パーカー、ルース・ローマン、パトリシア・ニールが演じている。
監督は何を撮っても傑作にしてしまう職人ロバート・ワイズ。この小品も、三人の実力派女優の個性を生かし、見ごたえのある仕上りになっている。
ニールの自伝「真実」に、この映画に関する記述がある。
「エリナ・パーカーが配役のトップで、ローマンがもっとも共感を呼ぶ役だった。しかしそれでもなおわたしの役は大役で、若いころの作品ではもっとも力の入った演技ができた映画だと思っている。(中略)エリナは自分の役を嫌っていた。猫をかぶって、取り澄ましている女の役だったのだ。実際の彼女はユーモアのセンスにあふれ、この上なく楽しい人だった。どんなに彼女に笑わせてもらったことだろう。」
ゲイリー・クーパーとの恋愛でキャリアが座礁してしまったニールは翌年、「地球の制止する日」という一見ゲテモノSFスリラーへあまり気乗りしないまま出演したのだが、この配役は監督のロバート・ワイズが希望して実現したものだった。
そしてこの作品はSF映画の古典として、今なお映画史に残っている。
ということは、ロバート・ワイズが2度目のアカデミー監督賞に輝いた「サウンド・オブ・ミュージック」(1965年)でエリナ・パーカーが男爵夫人を演じているのもたまたまではないように思えてくる。1950年から65年までの間にワイズはさまざまな女優を使ってきたが、その中で最も男爵夫人にふさわしいと彼女を推したのではないかと。
「黒い絨毯」(1954年)
衣裳はイディス・ヘッド
NPO法人なごやかには私が管理者を務めるやまねこデイサービスともう一つ、なめとこデイサービスがある。
このデイサービスはもともとなごやか理事長個人の不動産だったのを、法人に寄付して改築したものなのだが、今春、その裏の土地建物を法人で購入していた。
それが今月、さらにその隣の空地を同じ持ち主から駐車場として借りたことで、結果として約320坪の広大な正方形の土地が出現した。
私は半分呆れて思った、理事長は戦国大名か。
ウチの子もそうだが、男の子はとにかく陣地・領土を広げたがる。
なにか持って生まれたものなのだろう。
けれども、なごやか理事長は時々こんな話をする。
これは実話なのだそうだが、ある町に強欲な夫婦がいた。
狭い敷地に建っている小さな家をいつも嘆いていた二人は裏山の崖のすそ野を少しずつ削って奥行50センチほど土地を広げ、わがものとしていた。
ところがある台風の夜、大雨で崖が崩れ、二人の土地に奥行1メートルほど土砂が流れ込んでしまった。
しかし二人は反省などしないだろう。なぜ厄災を招くようなことをしたのだと尋ねられたら、彼らはきっとあの『サソリとカエルの話』のように答えるに違いない、
「仕方ない、それが私たちの性分(キャラクター)なのだから」と。