アルコール依存症に陥ったホールデンの映画キャリアは60年代に入ると急に精彩を欠いているのだが、それにはもう一つ理由があり、彼は早い時期に俳優業の限界にも気づいたのか、徐々に実業家としての活動に重きを置くようになって行った。
油田、牧場、テレビ局、アフリカの狩猟クラブとホテル。
ホールデンの事業はハリウッド人の中では最も成功したもので、もはや副業と言えないほどの規模だった。
スクリーンでは明るく好ましいアメリカ人を演じ続けたホールデンだったが、実際は異常なほど自身の健康に神経質で、それが嵩じて呼吸困難になることがあったという。
そして60年代後半に気管支系の大病を患うと、彼は別人のように老け込んでしまった。
「ワイルド・バンチ」(1969年)や「コマンド戦略」(1967年)を観るとよくわかる。
その後も「タワーリング・インフェルノ」(1974年)、久々にアカデミー主演男優部門にノミネートされた「ネットワーク」(1976年)などに出演していたのが、1981年11月、自宅でたった一人で亡くなっているのを、死後数日たってから発見される。
大スターの孤独死というショッキングなニュースは、当時世界中を駆け巡った。
「タワーリング・インフェルノ」で娘婿(先日亡くなったリチャード・チェンバレン)を詰めるビルのオーナー役。
「ワイルド・バンチ」。ガトリング銃。閲覧注意。
ビリー・ワイルダー監督の「悲愁」(1979年)。いい映画だった。
ウイリアム・ホールデン主演の映画に「第七の暁」(64年)という作品がある。
第二次大戦中、マレーで抗日ゲリラとして共に戦ったゴム園主(ホールデン)と現地人リーダー(丹波哲郎)。強い友情と信頼で結ばれていた二人だったが、数年後、独立運動が激化する中、モスクワ帰りの丹波は共産主義テロリストを指揮して次々と過激な事件を起こし、ホールデンもまたその渦中に巻き込まれて行く-。
映画評ではあっさり「凡作」と片付けられていることが多いけれど、僕はこの映画が好きで、10代のころからテレビにかかるたび観ていた。
大霊界へ行ってしまう前の丹波は、ホールデンを敵に回しても持ち前の押し出しの良さ(=態度のデカさ)で一歩も譲らない大好演。さすが中央大学法学部卒(ただし裏口入学)だ。
褒め過ぎかもしれないが、この映画の丹波哲郎と、「ブラックレイン」の若山富三郎、それに「二十四時間の情事(ヒロシマ・モナムール)」の岡田英次が、全ての外国映画に登場した日本人ベスト3ではないかと思っている。
映画「慕情」(1955年)は香港を舞台に、アメリカ人記者マーク(ウイリアム・ホールデン)と、中国とイギリスの混血の女医スーイン(ジェニファー・ジョーンズ)の悲恋を描いたハリウッド製大メロドラマだ。
この「慕情」のホールデンの着こなし術と、映画の前半で彼が連発する、日本人ではとても口にできないし、思いもつかないキザなセリフは、大きな声では言えないが、僕のルーツなのだ。
(名セリフの数々は、字幕スーパーだと規定の字数内に収まりきらないため要約され、月並みな言葉に置き換えられてしまっているので、TVの吹替版で観た方がずっと楽しめる。)
大人になったらこの映画のホールデンのように颯爽と、かつジェントルに生きたい、と願ったものである。
そこで今回は実際にホールデンの着こなしをチェックしてみましょうか。
マークとスーインは病院の理事夫人が主催するカクテル・パーティで出会う。
この時の彼の服装はというと、サイドベンツが入った茶のツイード・ジャケット、明るい茶のネクタイ、それからダーク・グレーのフランネル・パンツ(①)。
最初から果敢にアプローチした彼がもう一度電話でダメ押しして、デートが決まる。
当日。
病院の通用門までオープンカーで迎えに来たマークは洋装で現れたスーインに向かって(前回同様)チャイナドレスに着替えてきませんか?と半ば真顔で声をかける。
「あのドレス、とてもよかった」
「今度プレゼントしますわ」
車のドアを開け、ドアを閉める。
乗り込み方も、足を差し入れるように、ダイナミックで。
水上タクシーに乗り(②③)、レストラン珍寶で食事(④)。
この時はグレーのスーツに薄いブルー・グレーのタイだ。別れ際にはお礼の握手(⑤)。
日を置かずマークは病院に押しかけ泳ぎに行こう、と誘う。
迷った末OKするスーイン。
クリーム・イエローのジャケット、白のパンツに白い靴、淡いクリーム色の開襟シャツ、とぐっとラフだ(⑥)。
この海岸、レパルス・ベイは映画公開後、観光名所となっている。
そして有名な病院裏の丘の上での待ち合わせシーン(⑦)。
スーインを遠くから見つけて手の振るあのなにげない仕草も、とにかくスマート。
思わず真似たくなる。
相手役のジェニファー・ジョーンズはこの映画のために14着のドレスを香港に持ち込み、計22回着替えたと伝えられている(アカデミーカラー衣裳デザイン賞受賞)が、ホールデンの方は用意してきたワードローブが尽きたのか、これ以降は着まわしだ(⑧)。
そして物語も次第に重苦しくなって行く。
①
②
③
④このシーンのセリフは最高だ
⑤
⑥
⑦
⑧
仕事場からデートの誘いの電話をかけ―
デートから帰宅したら不意打ちのおやすみコールをかける。学ばせていただきました。
「ブラボー砦の脱出」より、名花エリナ・パーカーと。
オットー・プレミンジャー監督の異色作「月蒼くして」、ジョン・スタージェス監督の出世作「ブラボー砦の脱出」(1953年)、「喝采」、「トコリの橋」(54年)、「ピクニック」(55年)と立て続けにヒットを飛ばし名実ともに大スターとなったウイリアム・ホールデンだったが、いつしか彼はハリウッドとそのシステム、生活スタイル、パーティ人種らをひどく嫌悪するようになっていた。
それなくして彼の地位と名誉はないのだけれど、その嫌悪はどうしようもなく募った。
そんな時、彼は「慕情」の撮影で香港を訪れ、そのエキゾティシズムにすっかり魅了される。
彼は心の中でとりあえず折り合いをつける方法を見つけた。
その後の彼の作品リストをざっと見てみるとよくわかる。
「戦場にかける橋」、「ライオン」、「第七の暁」などなど、それらはことごとくハリウッド以外でロケされたものなのだ。
(映画を観始めたころ、僕はそれが偶然だと思っていた。)
1959年、彼は家族を連れてスイスへ移住する。
それにより彼の旅行はますます頻繁になった。
世界各地を回り、映画を作るよりもほかにもっとやらなければならないことがある、と感じ始めていた彼は内的葛藤から逃れようとアルコールに依存して行った。
探して探して見つからない焦燥感。
悪循環だった。
60年代に入ると急に彼のキャリアが精彩を欠いているのはそんな理由があった。
老いが彼の容姿に現れ出すのもこのころからだ。
(この項続く)
「麗しのサブリナ」でヘプバーンと。
ウイリアム・ホールデンは1939年、21歳の時に「ゴールデン・ボーイ」でいきなり主役デビューを果たした。
幸運なスタートを切り、順調にスターへの道を歩み始めた彼だったが、第二次世界大戦が勃発すると兵役にとられてしまう。
終戦後、ハリウッドに戻ってみると、彼より一世代下の男優たちが目覚ましく台頭しており、彼はもはや忘れられた存在になっていた。
B級映画でくすぶっていた彼へ、モンゴメリー・クリフトが断ったビリー・ワイルダー監督の「サンセット大通り」(1950年)の主役が回って来る。
ハリウッドの内幕を鋭く描いたこの問題作と、ジゴロに成り下がる若い脚本家を熱演したホールデンは大きな評判をとり、彼は再起のきっかけを掴んだ。
また、彼の仕事ぶりをワイルダーは高く買い、53年には「第十七捕虜収容所」の主役に再び据える。
この作品でホールデンは見事オスカーを獲得、一線級のスターとなった。
ワイルダーとの親交はその後も続き、「麗しのサブリナ」(54年)では髪をブロンドに染めてプレイボーイの弟を楽しそうに演じていたし、ぐっと時代は下がるが「悲愁/フェードラ」(79年)にも主演している。
(この項続く)
「サンセット大通り」
「第十七捕虜収容所」。左端は「スパイ大作戦」のフェルプス君ことピーター・グレーブス。
「麗しのサブリナ」より、笑える家族の肖像。