娘がまだ小学生だったころ、毎週のように鉛筆を僕にくれた。
聞けば被災地の小学校に届いた支援物資を各人に配分したものだった。
そんな心のこもったお品物を受け取るわけにはいかないよ、とはじめ断ったのだが、どうやら彼女はお気に入りのシャープペンシルの方を使いたいらしく、パパ、鉛筆が大好きでしょ、と譲らない。仕方なく、では代わりにありがたく使わせていただくね、と父親が折れた。
その鉛筆の中で困り物だったのが、よく小学校入学時に祖父母が贈る児童の名入りのものだ。さすがにそれは少し気味が悪くてこっそり捨てた。もともと僕は社名などの入ったノベルティグッズは使わない主義なので、無理やりその範疇に入れて処分した。
そう言いながら、4ダースあった娘の名入りのB鉛筆は長いことかかってやっと最近使い切った。すでに義父は亡くなり、娘は二十歳を過ぎていた。
今、仕事机の上のペン皿は、ステッドラーの鉛筆に占拠されている。廉価なトラディション、マークシート試験用の白いボディのステッドラー・ホワイト、製図用の青いルモグラフを二本ずつ削って並べると、一本一本はドイツ製品らしい質実なたたずまいなのに、不思議と机上が華やいでいる。
最近買ったステッドラー・ノリカ50本入り。このまま机上に置きたいくらい。
「サキノハカといふ黒い花といっしょに」
サキノハカといふ黒い花といっしょに
革命がやがてやってくる
ブルジョアジーでもプロレタリアートでも
おほよそ卑怯な下等なやつらは
みんなひとりで日向へ出た蕈(きのこ)のやうに
潰れて流れるその日が来る
やってしまへやってしまへ
酒を呑みたいために尤らしい波瀾を起すやつも
じぶんだけで面白いことをしつくして
人生が砂っ原だなんていふにせ教師も
いつでもきょろきょろひとと自分とくらべるやつらも
そいつらみんなをびしゃびしゃに叩きつけて
その中から卑怯な鬼どもを追ひ払へ
それらをみんな魚や豚につかせてしまへ
はがねを鍛へるやうに新らしい時代は新らしい人間を鍛へる
紺いろした山地の稜をも砕け
銀河をつかって発電所もつくれ
上の「サキノハカといふ黒い花といっしょに」は昭和二年に宮沢賢治が書いた未発表詩だ。
サキノハカという植物は存在しない。
賢治先生の造語である。
その意味に関しては、「釈迦の墓」であったり、暴力という文字を分解したものだなどと諸説あるが、どうもしっくりこない。僕だけか。
花巻をハーナムキヤ、仙台をセンダードと素敵にもじった賢治先生のパターンではないように思える。
もう一つ、冒頭から激しい言葉が続いて行くが、最後の二行でぐんと上昇曲線を描く。
この曲線が急で、印象深い半面、このあとがもう少し続くのではないかと長く思っていた。
そこは誰も何も言っていない。これも僕だけか。
金満イベントへ唐突に賢治先生を持ち出して、復興五輪などとそらぞらしくすり替えるのはホント、やめていただきたい。
星めぐりの歌
宮沢賢治
あかいめだまの さそり
ひろげた鷲の つばさ
あをいめだまの 小いぬ
ひかりのへびの とぐろ
オリオンは高く うたひ
つゆとしもとを おとす
アンドロメダの くもは
さかなのくちの かたち
大ぐまのあしを きたに
五つのばした ところ
小熊のひたいの うへは
そらのめぐりの めあて
22分52秒から、クラムボンのボーカル原田郁子が歌う短縮版
とうとうワクチン接種を受けることになった。
認知症高齢者グループホームと小規模多機能ホームの利用者様と職員、それに居宅介護支援事業所と地域包括支援センターの職員が二回目まで完了したものの、まだデイサービスと高齢者相談室の職員が残っていて、彼らが終わるまでは、と内心思っていたところが、仕事上の最大のライバルで、クリニックを併設している老健エーデルワイスのS常務理事から直接電話をもらった。
「先日来、NPO法人なごやか事務局を通じて何度かお誘いしていますが、そのたびデイサービスの職員に譲られていますよね、井浦さん。あなたにもしものことがあったら、職員さんたちばかりでなく、私も困るのです。」
殺し文句をさらっと言う。
すみません、事務局から報告を受けた時はそのお気持ちがとても嬉しかったのですが、私のモットーは『アラユルコトヲ ジブンヲカンジョウニ入レズニ』なので。
「きっとそうだろうと思って、今日は連絡したんです。」気分がよさそうな笑い声が携帯電話の向こう側から聞こえた。
こうなってはもう断り切れず、昨日午後1時半に一回目の接種を受けた。
左肩に接種して、夜10時ころには打った場所の下が少しチクチクするだけだったのが、早朝起きてみると、腕立て伏せをやり過ぎたあとの筋肉痛に似た痛みが左腕のみにある。
よく言われている発熱や倦怠感といった副作用はなく、ほっとした。
もちろん、3週間後の二回目の方がひどい、と聞いているので油断はできないが、これがモットーに反してあさましく行動していたら、こんな痛みでは済まなかっただろうと思っている。
25歳の宮沢賢治が花巻農業高校に着任したのが大正10年、やぶ屋の創業は大正12年。
新し物好きの賢治先生が、新築二階建てのそば屋の常連になることは必然だったであろう。
「今日はブッシュ(藪)に行きましょうか。」
そう言って同僚を誘い、好物の天ぷらそばと当時高価だった三ツ矢サイダーを食す。
なんてハイカラな。
盛岡のフェザン(駅ビル)にやぶ屋のテナントが入っている。
「今日はブッシュにしようか。」
二人の子供たちからの返事はなかった。
確かに、彼らは「宮沢賢治被害者の会」(家族や友人に熱心な賢治ファンがいて、興味もないのに繰り返し話を聞かされ続けたため心底ウンザリしている方々)の正会員だ。
メニュー化されている「宮沢賢治セット」