父に連れられ、小さなビストロでランチをとった。
商店街から少し外れた雑居ビルの地下にある可愛らしいお店。
ランチタイムも終わりに近い時間だったが、8席あるテーブルのほとんどがまだ埋まっていた。
ひどい偏食の父はどこのお店に行ってもほぼ同じメニューしか頼まない。
パスタだと、決まってアーリオ・オーリオ・エ・ペペロンチーノだった。
それを指摘すると苦笑しながら言った、
「自称ラーメン通の人たちは塩ラーメンを食べるとその店の味や腕がわかるってよく言うじゃない。
パスタならアーリオ・オーリオ・エ・ペペロンチーノかな。
具材が最小限だからごまかしようがないものね。」
出てきたそれを、父はジンジャー・エールとともに手際よく嬉しそうに食べた。
私はランチセットをオーダーした。
隣席の食べ終えたお皿を下げにフロアへ現れた女性オーナシェフに声を掛けられた。
「井浦さん、いつもありがとうございます。お嬢さんですか? ぜひまたいらしてくださいね。」
そらさないひとだった。
父はいつもこういうお店が好きなのだ。
イメージ(映像と本文は直接関係ありません)
これは割とよく知られていることだが、「おいしい」は元々女性語、女房詞 (にょうぼうことば、室町時代、御所などに仕える女官の用語)だった。
小津安二郎監督の「お茶漬の味」(1952年)、「東京物語」(1953年)、「秋日和」(1960年)では、男優(鶴田浩二、中村伸郎)が「うまい」と言い、女優(津島恵子、杉村春子、岡田茉莉子)が「おいしい」と言って、厳密に使い分けられている。
もちろん時代背景もあるものの、小津の厳格さ、几帳面さが垣間見られるような気がしている。
昔も今も上品さとは無縁の瘋癲老人の僕は不思議なことに、生まれてこのかた食べ物を「うまい」と言い表したことがない。
いつも「おいしい」だ。
母親の影響だろうか。
テレビでクズ芸人などが料理やその土地の特産品を口に入れるなり「うまっ!」と発声するのを、内心苦々しく観ている。
何度か取り上げた「乳母車」(1956年)にも使い分けのシーンがある。
鎌倉材木座在住の会社重役の令嬢で、K大(原作者の石坂洋次郎は慶応大文学部)に通う女子大生の芦川いづみが、アルバイト学生の裕次郎と築地の大衆中華料理店にいる。
出てきた焼きそばを見て、芦川は怪訝そうな顔をし、食べない、とかたくなに宣言するのだが、裕次郎はせっかく僕が奢るのだから食べてごらんよ、と割り箸を割って持たせた。
「うまいだろ?」と裕次郎。
うなずいて「おいしい」と芦川。
「ホントおいしいわ。おいしいっていうよりうまいってカンジね」と笑顔で言った。
「ってカンジね」がいい。本当に素敵なお嬢さんだ。
うまいとおいしいの境界線があるのだとしたら、このへんから変わって行ったのかもしれない。
裕次郎は映画出演三作目で、まだ芦川の方が格上。
「お茶漬けの味」
「お茶漬けの味」(昭和27年)撮影時。小津安二郎監督(中央)の隣に木暮実千代。
昭和20年8月、ソ連が日ソ不可侵条約を破棄して日本に宣戦布告し、翌9日にはソ連軍が満洲へ侵攻する。敗戦を覚悟した満州映画協会理事長の甘粕元大尉(宮城県仙台市出身)は、満映の社員とその家族千名以上を会社の講堂に集めて映画を鑑賞させ、その最中に爆薬で全員を爆殺(集団自決)し、幹部たちは服毒自殺するという計画を立案する。
幸いにもこのトンデモ計画は幹部の諫言によって取りやめとなり、甘粕は20日早朝、青酸カリで自決した。
夫が満映の常務理事で現地に居た女優木暮実千代も、危うく難を逃れた一人だった。その後、彼女は一家で艱難辛苦を乗り越えて帰国し、戦後はそのキャリアをさらに花開かせることになる。
すごい女性だな。
甘粕も、木暮の夫も、日本でやらかして(失敗して)、満州での再起というか、キャリアロンダリングを図った男たちだ。
当時はそんな空気が国内にも、あちらにもあったのだろう、海外雄飛などと称して。
県北の呉服屋の跡取り息子として生まれた母方の祖父は、クラーク博士にのぼせて北大農学部に進む。
卒業後は戻って家業を継ぎ、家庭も持ったものの落ち着かず、店を畳むと妻子を仙台市に残して単身満州に渡り、農園を経営する。
ただしほどなく体調を崩して内地に戻り、昭和20年、終戦の年の12月に疎開先で亡くなって、妻子を戦後の混乱と貧困の真っただ中に置き去りにしている。
なんてひとでしょうね。
「スージーQ」について書いたら、この映画にも触れなければなるまい。
「地獄の黙示録」(1979年)の、プレイメイトによる慰問シーン。
「スージーQ」に乗ってプレイメイトがセクシーに踊り、兵士たちを煽る。
僕の年代にとって「地獄の黙示録」はまさに同時代の映画なのだが、80年2月の日本公開前からさまざまな人物がさまざまな論評を加えていて、ひどく手垢まみれに感じていた。
結局、公開時に大スクリーンで観た後、一度も通して再見しなかった。
自分でもひどいな、と思うのだけど、「労多くして功少ない映画」(長時間付き合った割に得るものが少なかった映画)に仕分けてしまっている。
この映画について長々と、あるいは熱に浮かされたように自説を述べるひとたちについて、映画の原作であるジョゼフ・コンラッドの小説「闇の奥」をきちんと読んだのかな、と感じていた。
少なくとも同じくコンラッド原作の「ロード・ジム」や、キャロル・リード監督にしては失敗作、という不名誉な評価を受けている「文化果つるところ」を観ていれば、このカオス映画がきれいに割り切れてくる。
蛮地、あるいは東洋で、西洋の文化、西洋人がモラルを急速に失って滅んでしまう物語。
「地獄の黙示録」も、下の写真が端的に示しているように、蛮地の撮影現場で滅びそうになったコッポラ監督の精神状態を表した極めて私的な映画、と見るのがいいと思う。
「地獄の黙示録」は舞台をベトナム戦争の只中に置き換えたが、1994年にニコラス・ローグ監督が原作に忠実に映像化している。
主演がティム・ロスとジョン・マルコヴィッチと、個人的にやや苦手な男優。さらに鬼才ローグにしてはフツーなのは、やはりテレビ映画の枠内だからか。
邦題がひど過ぎる。
1938年、オーソン・ウエルズは「闇の奥」をラジオドラマ化し、そのあと自身の初監督作として映画化を試みるが資金が集まらず断念。より低予算で「市民ケーン」を撮ることになる。
クルツ役のテスト写真。「地獄だ! 地獄だ!」
コンゴ川をさかのぼる蒸気船の模型を持ってご満悦だ。
スージーQ
おお、スージーQ
おお、スージーQ
ベイビー、アイラブユー、
オレのスージーQ
お前の歩き方が好きだ
お前の話し方が好きだ
お前の歩き方が好きだ
お前の話し方が好きだ
スージーQ
オレだけだって言ってくれ
オレだけだって言ってくれ
オレをブルーにしないと言ってくれ
スージーQ
オレの彼女になってくれるんだろ
オレの彼女になってくれるんだろ
ベイビー、いつだってさ
スージーQ
黒人ブルース・レーベルのチェス・レコード所属だった白人ロッカーのデイル・ホーキンスが1957年にリリースした「スージーQ」は、一度聴いたら耳に残るイカすギター・リフが多くのバンドに好んでカバーされ、ロックン・ロールの定番曲となった。
このギター・リフを編み出したのが17歳の天才ギター少年、ジェームズ・バートンと言われていて、後年彼はエルヴィス・プレスリーのバックバンドのリーダーとなった。
そのバートンだが、1987年11月、エルヴィス・コステロのバックバンドとして来日する。
このツアーには前年、初来日公演が中止となりファンを大いに失望させたニック・ロウも帯同していた。
ステージ中盤、コステロがニック・ロウに花を持たせる形で彼の代表曲「(What's So Funny 'Bout) Peace Love and Understanding」を二人でデュエットした。
この時のバートンの流れるようなギター・ソロは本当に素敵だった。
そしてエンディングの一音まで、丁寧に丁寧に奏でている。
やはりすごいギタリストだったのだ。
観客から大きな声援を浴びてにっこり笑顔のロウ。最高にキュートだった。