「私が管理者を務めるなめとこデイサービスは日曜日と祝日が定休日です。その日は日曜でしたが、運営指導を来月に控えていることもあり、無人の事業所へ午前中短時間出て、ファイル類の整理を行なっていました。
すこしして、防犯のため鍵をかけていた玄関サッシがガチャガチャ幾度か音を立て、チャイムが鳴りました。恐る恐るモニターを覗くと、顔の半分が映っていたのは、いつもいらしている女性利用者様でした。
徒歩で1時間ほど離れた自宅から、(明日の入浴支度等、別に住まわれている娘さんが準備していた)重たい荷物を3つ抱え、トンネルをくぐって、長い坂道をここまでいらしたのです。
「今日は集りの日ですよね」と素敵な笑顔を私に向ける。
お疲れでしょう?と急ぎ中へお通しして、冷たいお茶を飲んでいただきました。
娘さんに連絡したところ、ご多忙のようでしたので、私がお送りすることにしました。
重い認知症でも、私たちぽらんの場所だけはご記憶の中にあるのでしょうか(普段は事業所の車での送迎です)。
本当に愛おしく、ありがたい思いで胸がつまりました。」
十代のころ友達と自作のカセットテープを交換したように、チャック・ベリーのカバー集を編んでみようとしたところが、面白いもので、なるべくバラエティに富んだ内容にするつもりが、頭に浮かんでくるのは、聞き慣れたバンドのカバー・バージョンばかりだ。
具体的に言うと、ビートルズのBBCライブやデッカ・オーディション・テープ、それにハンブルグ・スタークラブ・ライブでの、チャック・ベリーのカバーが、一番しっくりくる。
特にBBCライブはどれも演奏が出色の出来だ。「スィート・リトル・シックスティーン」や「ジョニー・B・グッド」は他のどのバンドのバージョンを聞いても物足りなく感じるほど、スピーディでエネルギーにあふれている。
○「メイベリーン」ジェリー&ザ・ペースメーカーズ
チャック・ベリーのレコードデビュー曲を、マージー・ビート・バンドで。
○「トゥー・マッチ・モンキー・ビジネス」ザ・ヤードバーズ
ヤードバーズおよびエリック・クラプトンの記念すべきデビュー・ライブ・アルバムの一曲目。当時の人気ライブハウスの熱気がダイレクトに伝わってくる。
○「ビューティフル・デライラ」ザ・キンクス
とにかくイントロが可愛い曲。キンクスの「トゥー・マッチ・モンキー・ビジネス」も、大好きだ。
○「アラウンド・アンド・アラウンド」ザ・ローリング・ストーンズ
キース・リチャーズのステージ・アクトとポージングのカッコよさにはほれぼれする。
○「メンフィス・テネシー」ザ・ビートルズ
不合格となったデッカ・レコードでのオーディション・テープより。
ジョン・レノンのボーカルが甘くてとてもチャーミング。
○「ジョニー・B・グッド」ザ・ビートルズ
BBCライブより。ジョン・レノンのリズム・ギターが冴え、いつもはややハラハラさせられるジョージ・ハリソンのリード・ギターもスムーズで、安心して聞いていられる?バージョンだ。
○「カム・オン」ザ・ルースターズ
おまけ。1981年6月、久保講堂での1曲目。2曲目はベルベット・アンダーグラウンドの「リアル・グッド・タイム・トゥゲザー」のカバーだった。
「オレたち新しい日本人。最新型。」インタビューでの発言に、シビレた。
「入院していた友人が発作を起こしてICUへ移送されたとの連絡をもらい、僕はセンダード市の病院まで車を飛ばした。たまたま午後の職員が少ない時間だったのが幸いしたのか、止められることもなくICU専用の控室まで入ることができた。
友人の会社の社員たちはそれぞれ忙しく連絡業務に追われており、あとから着いた僕がひとり留守番のようになっていた。
病状と治療の進捗について、説明がないか、じりじりと待ち続けていると突然、バ―ンとドアが開いた。地元選出の代議士だった。
あれ、井浦さんじゃない、ほかの社員たちは?
現在これこれこうなっています、先生は東京からいらしたのですね?
うん、さっき国会が終わったので新幹線とタクシーを乗り継いで戻ってきた。昨晩もね、ここに泊って朝、上京したんだ。ほら、彼は天涯孤独だろ、こんな時くらいオレがついていてやらないとさ。
先生に付き添われて、彼は幸せですね。先生がテレビに映ると、必ず嬉しそうにツッコミを入れてましたから。
まもなく僕は病院を後にした。代議士はこのまま控室で明日の衆議院本会議の下準備をするというので、邪魔をしてはと思い。
結局、友人は十年におよんだ苦しい闘病生活ののちに亡くなった。
I理事長、今日も先生はテレビに出てましたよ、本当に、本当に、誇らしいですね!」
イメージ(画像と本文は直接関係ありません)
今夜から新米だけど、おかずは何がいい?と家人に尋ねられて、何と言ってもアレでしょう、と挙げたのは、本市で創業三百年を誇る横田屋本店さんののり佃煮です。
僕にとってこれはもう、「ままかり」(=おいしくて食が進み過ぎ、隣家からご飯を借りてくるほどという小魚の名前)で、茶碗に軽くよそったご飯の上にスプーンひとさじ弱を乗せ、茶碗を汚さないよう気をつけつつ、ご飯を切り分けながら食べれば、まさに至福の時です。
香蘭社の茶碗、一等級の杉の割り箸、それに氷水で、初物を美味しくいただきました。
同社HPより
(平成26年5月)
「未知への飛行」より。中央の大男がマッソー。
きれいに髪を撫でつけ、タキシードへ黒のボウタイを締めて鏡をのぞき込むたび、「未知への飛行」(1964年)のウォルター・マッソーに似ていないだろうな、と心配したものだ。
極端な反共思想を独特の話術で披露してその場を支配する大柄な政治学者。怖いキャラクターだった。
「がんばれベアーズ」(1974年)の、お人よし監督と同一人物とはとても思えない。
マッソーが一番怖かったのは、カーク・ダグラスとキム・ノヴァク主演の「逢う時はいつも他人」(1960年)だ。ダグラスとノヴァクがひっそりと逢瀬を重ねる中、その関係を察知してダグラスの妻にニヤニヤ言い寄ってくる隣人。唾棄すべきキャラクターだった。
面白いことに、ダグラスは次作「脱獄」(1962年)でもマッソーを起用している。脱獄犯の自分をジープでヘリで、どこまでも執拗に追ってくる保安官役として。
実を言うとそれ以前にダグラスは自身が設立した独立プロダクション、ブライナ・プロの記念すべき第一作「赤い砦」(1955年)へもマッソーをキャスティングしている。こちらもかなり嫌な悪役だ。
のちに生涯のライバルとなる名優バート・ランカスター唯一の単独監督作「ケンタッキー人」(1955年、ヘクト=ランカスター・プロ作品)で映画デビューを果たしたマッソーを観ての起用だった。抜け目のないダグラスらしい。さらに、自伝「くず屋の息子」にはまだ映画慣れしていなかった若い舞台俳優のマッソーへ映画撮影のイロハを教えたエピソードが披露されており、このへんがダグラスの嫌われるゆえんだ。
ともあれ、ハリウッド有数の気難し屋ダグラスが三度も使ったのは、よほど才能を認めていたからに違いない。また、ギャラも安かったのだろう。
「逢う時はいつも他人」より。ダグラス(右)の鉄拳制裁。