室根のりんご園へ、それぞれのホームが恒例のりんご狩りに出かけてきました。
今年は予定日に雨が降って順延となったため私は参加できなかったのですが、収量は並みで、比較的大きく赤いりんごが獲れました。
持ち帰ったりんごは各ホームで調理するほか、家族様など来訪者や、退職された功労者へも広くおすそ分けされます。
いつも車が見えなくなるまで見送ってくださる方がいた。
「迎え三歩、見送り七歩」の、行き届いたもてなしである。
それに応えるには、大老井伊直弼の「茶の湯一会集」の中にある、“独座観念”しかないと思っていた。
井伊が記した茶の湯のもてなしのすごみは、客が帰ったあとからが本領であるところだ。
「主客とも餘情残心を催し、退出の挨拶終れば、客も、露地を出るに高声に咄さず、静にあと見かへり出行ば、亭主は猶更のこと、客の見へざるまでも見送る也。扨(さて)、中潜り・猿戸、その外、戸障子など、早々〆立などいたすは、不興千万、一日の饗応も無になる事なれば、決て、客の帰路見えずとも、取かた付、急ぐべからず。いかにも心静に茶席に立もどり、此時、にじり上りより這入、炉前に独座して、今暫く御咄も有べきに、もはや何方まで可被参哉(まいらるべきや)、今日、一期一会済て、ふたゝびかへらざる事を観念し、或は独服をもいたす事、是、一会極意の習なり。此時、寂莫として、打語ふものとては、釜一口のみにして、外に物なし。誠に自得せざればいたりがたき境界なり。」
すぐにバタバタ片付けなどせず、帰って行った客のことを思い、今日のこの一期一会はもう戻らないのだと独り座って観念し、あるいは茶を服すのが、極意である、と。
これと同じように、(バックミラーで眺めるような無粋な真似はせず―いや、時々、車窓から腕を出し、ちぎれるほど手を振ったが、)園庭の前で見送る方を思い、今日もまた気持ちの良いやりとりができたことを相手に感謝しながら帰路に着く。
これが、自分なりの納得の行くレシーヴだった。