エッセイでも小説でもルポでも嘘でもなんでも書きます
無名藝人




週末の夜、道雄は、最近婚約したばかりの則子と横浜のカフェバーにいた。
ライトアップされたベイブリッジが遠くに浮かび上がっているのが見える大きな窓のそばのテーブルに並んで、椅子をくっつけ合って寄り添い、この女性が僕の妻になるのか、この男性がわたしの夫になるのね、と何だか不思議な気持で互いの横顔を盗み見ながら、二人はカクテルを傾けて会話を楽しんでいた。
新居の場所や子供の育て方まで、話題は尽きなかった。

そして、新婚旅行はどこにしようかという話になった。道雄がまず、スイスにスキーしに行くというのはどうだい、と切り出すと、則子は困った顔で答えた。
「うーん、寒いところには行きたくないな。だって、9月からアラスカに住むんだもん」
「…え?」
「大学時代につき合ってた人がアラスカに住んでて、仕事手伝ってくれないかって。それで一緒に住まないかって」
話が飲み込めない道雄だったが、どうやら放っておける話でもなさそうなので、問いただした。
「どういうこと? まさかその人と結婚するなんて言うんじゃないよね?」
「するのよ」
「…するのよって、じゃ僕との結婚はどうなるの?」
道雄はどんな表情をしたらいいのか判らず、困り笑いをしながら尋ねた。
則子は首をかしげた。
「何言ってんのよ? わたしたちの結婚と何の関係があるの?」
「関係ない?…よね、そうだよね。いや、ひょっとして婚約を解消するって言われるのかと思っちゃってさ」
「どうしてそんな風に思ったの?」
「だってアラスカがどうのこうの…まあいいや…」

アラスカの話は一体何だったんだろう。道雄は気になっていたが、せっかくのいい雰囲気をこれ以上乱したくなかったので蒸し返さずにいた。きっと彼女の友達の話をしたのだろう、女の会話って、突然、関係のない話題に飛ぶことがあるからな、ということで納得した。
そして、結婚式の日取りに話が及んだ。

「式は、お互いの仕事の都合を考えると、10月あたりがいいんじゃないか?」
「10月はだめよ。9月に入る前がいいな」
「どうして?」
「だから、9月にアラスカで結婚するって言ったじゃない。道雄との式はその前に挙げておきたいのよ」
「うん、それは聞いたけどさ、アラスカで結婚って、則子の友達かなんかの話だろ?」
「ううん、私のことよ」

椅子の背に深くもたれかかって、道雄はしばらく黙って天井を眺めた。そして体を起こして則子の方に向け、彼女の眼を見つめながら冷静に尋ねた。
「僕と結婚する気はあるの?」
「また変なこと言う。当たり前でしょ? だからさっきからその話をしてるんじゃない。なぜ今頃になってそんなこと聞くの? ねえ」
彼女は道雄の不可解な態度にすっかり困惑した様子で、しきりに瞬きをくり返した。
「ひょっとしたら僕の聞き違いかもしれないけど、さっき、則子が・アラスカに移住して・現地で・学生時代の恋人と結婚する、というようなことを言ったように聞こえたんだよ」
「そう言ったわよ」
「な、な、だろ。 言っただろ。じゃ、僕はほとんど則子とは会えなくなるわけだよな、そうだろ」
道雄の声のボリュームが上がり始めた。
「ほとんどというより、二度と会えないかも…永住するつもりだから」
「いや、だからさ、それは僕と別れるということじゃないか。僕と結婚はできないということじゃないか!」
突っかかってくる道雄に、則子も少し反抗的な口調になった。
「どうしたのよ? どうしてわたしがアラスカで結婚したら、道雄と別れなきゃいけないの? それを何かの口実にしてるの? わたしと婚約したこと後悔してるの? そうなの?」
「ちがうちがう、全然ちがうよ!」
なんと言えばいいのか判らなくなって、質問を変えた。
「そのアラスカの彼氏と僕と、どっちを愛してるの?」
「アラスカの彼氏よ」
引導を渡されたと感じた道雄は投げやりに言った。
「ああそうかい、やっぱりな。じゃ、なんだってオレと結婚するんだよ?」
いい雰囲気を乱したくないという気持はすでに跡形もなくなっていた。むしろこの苛立ちを彼女にぶつけてやりたかった。
粗野な言葉遣いに則子は萎縮し、眼から涙が溢れそうになっていた。
「どうして結婚するのかって、なんで今さらそんなこと聞くの? わたしたちがつき合って来たのは、そのためじゃなかったの?」
則子は左手の五指をいっぱいに広げて甲の側を道雄の顔の前に突き出しながら、涙声で言った。
「ほら婚約指輪…道雄が指にはめてくれた時から一度もはずしてないのよ…」
そして両手で顔を覆って、すすり泣きを始めた。
「あ、いや…悪かった」
道雄は、なにがなんだかさっぱり判らなかったが、則子が可哀想になってきたので、とにかく謝ってその場を収めた。

しかし突然、なにやら異世界に迷い込んだような恐怖感に襲われて、道男は気分が悪くなってきた。動悸が早くなり目眩がしてきた。早くこの場から離れないと、とんでもない状態に陥りそうな予感がしたので、すぐに店を出て徒歩で桜木町駅に向かった。則子もその後を追うようにして出た。
ふたりは駅まで来た。則子は道雄の様子がおかしいのを心配して、自分の家が近いから泊まって行くように言ったが、道雄はタクシーで帰るからと断って別れた。とにかく則子から離れたかったのだ。

その10分後、道雄は死んだ。


則子の告白

あんなことになるとは思ってもみませんでした。
道雄さんに、少し意地悪をしたかっただけなのです。
あの頃、彼の異常なまでの嫉妬心を煩わしく思っていた私は、その嫉妬心を利用して彼をきちがいにしてやろうと思ったのです。

たとえば彼は、私の携帯に連絡が入るたびに、誰からだとか、どういう関係だとか、いちいち真顔で聞くのです。会社の同僚と飲みに行って、そのなかに男性がいたことをうっかりにでも口にしたら大変です。年齢から名前から容貌から性格から、もう根掘り葉掘り聞いた挙げ句、膨れっ面して口を利こうともしないのですから。

そんな彼のことだから、もし自分の婚約者が他の男性と、しかも遠い外国で結婚することになれば、嫉妬のあまり、きちがいになるかもしれない、そうなったらいい気味だと思ったのです。だから私はアラスカにいた、かつての恋人の水口秀秋さんと結婚することを決心しました。道雄さんには、水口さんが私を誘ったように言いましたが、実は私が水口さんに国際電話でプロポーズしたのです。

でもあと一歩で道雄さんをきちがいにすることができるというときに、家に帰るなどと言い出すものだから、なにやら無性に腹が立って、タクシー乗り場まで送って行くのが悔しいから、駅前で別れたのです。送って行っていれば彼も死なずにすんだかもしれません。

木村「なるほど、それで桜木町で別れる際に、うちで泊まるようにと道雄さんに言ったときの則子さんの態度が妙に白々しかったんですね?」

則子「それもあります。でもそれより、彼に冷たくされたのが辛かったんです。店を出てから桜木町まで歩いている間、いつもなら必ず腕を組んでくれるのに、あのときは、彼が黙ってさっさと先を歩いて行くんです。婚約者になって最初のデートだというのに、こんな気持にさせられるなんてと思うと、それが惨めで…」

木村「則子さんのご両親とお話になっているときの道雄さんは、とても爽やかで、そんなに扱いにくい人には見えませんでしたけど」

則子「外面がいい、って言うんでしょうか…」

木村「道雄さんの死は事故だったのか自殺だったのか、今でもはっきりしていません。実際私も、それが何かに気を取られての過った行動だったようにも見えたし、ある意志をもっての行動だったようにも見えました。則子さんはどちらだとお考えですか?」

則子「今ではどうでもいいことです。もし彼が生きていたら、私はきっとその執拗な猜疑心に縛り上げられて、牢獄のような結婚生活を送っていたでしょう。そう考えると事故でも自殺でも、とにかく死んでくれてよかったんだと、肯定的に考えられるようになりましたから」

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手違いで、クワガタムシを採用してしまった。

新入社員の初出社の時に初めて判ったのだ。
人事担当の私が、他の入社希望者の履歴書と取り違えて、採用通知を送ってしまったらしい。

面接会場にクワガタムシが現れたときは困惑したが、後で差別だなんだと言われるのも厄介だからと、その時にはっきり「クワガタムシは採用しません」と答えておかなかったことを後悔した。

うちは住宅の販売をしている会社で、クワガタムシに営業回りは無理なのだが、いまさら、間違っていましたと採用を取り消すのも、また面倒なことになりそうだし、どうしましょうかと上司に相談したが、君のミスで採用してしまったのだから、自分でなんとかしろよ、と突っぱねられてしまった。

ヘタに重要な仕事を任せて失敗されては困るので、雑用をさせようかと考えたが、来客に出すお茶を、クワガタムシに持って行かせるのも相手に失礼だし、社員の昼食の弁当を買いにやらせても、店がクワガタムシの言うことを真に受けて作ってくれるかどうか不安だ。肩揉みをさせるにしても、やはり五本の指がないとできないだろう。

そこで、いっそ何も仕事を与えず、居辛くなって辞めるのを待つという陰湿な手段をとることにした。
そんなわけで皆と示し合わせて、朝、クワガタムシが出勤してきても、何も指示を与えず、話しかけることすらしないという日がひと月以上続いた。

しかしクワガタムシは、その間も無遅刻無欠勤で、自分の席についたら、ときどき、アクビでもするかのように例の大顎を動かすだけで、後は死んだようにじっとしていて、退勤時刻になったら帰って行くという行動を毎日毎日、虫のようにくり返した。

ところがある日、退勤時刻の5時を1時間近く過ぎてもイスの上でじっとしているクワガタムシを見て、私がすこし意地悪っぽく「もうすぐ6時ですよ」と声をかけたのだが、反応がない。
居眠りをしているのかと思って、イスを強く揺らすと、その振動で、クワガタムシはイスから滑り落ちた。

クワガタムシは、ひっくり返っても、腹を見せたまま触角一本、脚一本動かさないでじっとしている。
こんな状態でいるのは、死んだということなのだ。

クワガタムシは、われわれの仕打ちに、涙をこらえて耐えていたのだろうか、あるいは、何もしなくていいから楽な職場だと喜んでいたのだろうか、それとも、何も考えていなかったのだろうか。

今となっては判らない。

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あるサイズの恒星がエネルギーを消費し尽くして活動を停止すると、その大きさを維持できなくなり、自らの重力で潰れて収縮し、高密度に圧縮され、最後には小さいが非常に大きな重力をもった天体、つまりブラックホールになるといわれている。

特に女性の場合、ホルモンの関係で高齢になるにしたがって骨が脆くなり、自分の体重で骨を潰してしまうのである。
だから70歳を過ぎた女性はみな、自分の体重を支えきれなくなって収縮し、骨も筋肉も臓器も区別のつかない、ソフトボール大の球体となり、死期が訪れるのを待っているのである。

とはいっても、所詮は非力な年寄りである。ブラックホールになれるはずもなかろう。
とくに日本の高齢女性がブラックホールになる確率は、その質量から判断してゼロと言わざるをえない。


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きのう、南海高野線の中百舌鳥駅で豪商を見た。
やはり豪商は、どこへ行っても周囲には人だかりができる。私も、みっともないと思いながら、皆に混じって豪商を眺めていた。
まあ、囲んで眺めているだけなら罪はないと思うのだが、中にはカネをせびるタチの悪い奴らもいる。
その日も、そんな連中がいて、図々しくも豪商の袖をつかんで放そうとしないのだ。困惑している豪商を見ていて気の毒になった。
幸い、カネをせびっていたのが中学生らしい小柄な少女ふたりで、もし殴り合いになっても対等か、それ以上に闘える見込みがあったので、しばらく迷ってから、思いきって話しかけた。
「お前ら中学生やろ。なにしてんねん、この時間に。学校はどないしたんや」
「なんやあんた。関係ないやん」
「北中の生徒やな」
学校を言い当てられて、通報されてはまずいと思ったのか、人だかりから抜け出して、離れたところから様子を見ていた。また、後でたかるつもりだったのだろう。
私は、これも何かの縁だと、ボディガードのつもりで、目的の駅まで豪商を送っていった。
豪商は「ありがとうございます」と軽くお辞儀をして改札を出ていった。

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ぼくはどうしても、テレビの電波というものが理解できない。
東京タワーのてっぺんにあるアンテナから発せられた電波が全国の家庭のテレビに飛込んで、ブラウン管のなかで画像や音になるということは知っている。
また、電波というものが、ヘビのようにくねくねと前進する線だということも知っている。
解らないのは、その、くねくねした線が、どういうカラクリで、見事に各家庭のテレビを探し当てて、そこに入り込むのかということだ。

その日は寒かったが、僕は自宅で愛する女性とタラ鍋をつつきながら熱燗を飲んで、身も心もカッカとしていたので、窓を思いきり大きく開けると、電波がこちらに向ってくねくねと飛びながら、すぐそばまで来ているのが見えた。
あわてて窓を締めたのだが、電波の先端部はすでに部屋のなかに入り込んでしまっていたので、締めた窓に切断されて先端部は内側に残った。

短く切れた電波は、しばらく窓の前でくねくねしていたが、テレビを見つけると、その裏側に回りこんだ。
すると、それまで見ていたNHKの『地球・ふしぎ大自然』が『水戸黄門』に変ってしまった。TBSの電波だったのだ。
彼女とふたりっきりで過ごせる、月に一度のひとときを、きれいな自然の映像を眺めて、自然って不思議だね、なんて言いながら過そうと思っていたのに、爺さんが活躍する番組なんか見せられては迷惑だなあ、とぶつぶつ言いながら二人で見ていたら、10分ほどして、助さん格さんが黒幕の悪大名を追い詰めて「この印篭が目に入ら」と言ったところで、また『地球・ふしぎ大自然』にもどった。

「電波が短かかったのね。よかったわ」
「でもぼくは、悪大名がひれ伏すところも、ちょっと見たかったかも」
彼女はぼくの微妙な心理を理解してくれたと思っている。

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