エッセイでも小説でもルポでも嘘でもなんでも書きます
無名藝人




これまで断断乎として認めなかったが、いつまでたっても今の境涯から抜け出せない以上、自分の職業はフリーターであると認めざるを得ない。昨年は、4件のアルバイトで糊口をしのいだ。議論の余地のないフリーターである。

私は数社の人材派遣会社に登録している。ケータイのメールで、ときどき求人情報を送ってくれるのだが、ついこの間来たのが某デパートの催し物の片付け仕事。1日だけの仕事で労働時間が2時間45分。時給は交通費込みの1,100円。それも翌月払い。しかも男性はスーツ着用。少し前ならそんな割りに合わない仕事、誰もしなかったろうと思うのだが、募集をするくらいだから、藁にもすがる思いで応募してくる人もいるのだろう。切ないご時勢だ。

雇用対策法改正により、事業主が労働者募集の際に年齢制限を設けることを禁止した。だから最近の求人広告には「◯歳まで」という項目がない。また、男女雇用機会均等法もあるから「男性募集」とか「女性希望」とかいった要望も謳われていない。しかし、明確に「年齢制限なし」「男女ともに募集」と謳っている広告も少ない。病的に猜疑心の強い私としては、このへんがモヤモヤするところなのだ。法律で性別と年齢を制限するなと言ってるから、対外的にそうしているだけで、実際に誰を雇うかは、雇用者の胸三寸にある。
先方も、始めっから採用する気のない相手と出来レース面接をしている時間が惜しいから、私のような特別なスキルもない前期高齢者男性が、「雇ってもらえるかも!」なんて分不相応な期待をもたないような募集広告を出す。たとえば、職場の写真を載せる。そこには若い女性たちばかりが写っていて、カメラに向かって満面の笑顔でピースサインをしている。私なんかそれだけで尻込みしてしまうのに、さらに致命的なコピーがとどめを刺す。「20~30代の女性が活躍中!」。フリーター諸氏なら、そんな広告をたくさん見ているはずである。

ついこの間の新聞折り込みの求人広告にパソコン入力の仕事があった。職場が家から近いし、時間給もそこそこなので、おおいに食指が動いたのだが、その広告に載っている写真が、これまた若い女だらけで、無意味とは思いながらも写っている女性の人数を数えてみたら15人もいる。端っこに若い男がひとり左半身だけ写っているが、なんの慰めにもならない。
しかし、女だらけ以外は条件がいいので、さんざん逡巡した末に、思い切って電話をかけると、その会社に人材を送っている派遣会社につながった。まずはそこに登録しなければならないわけである。ともかく性別と年齢の制限がないかを尋ねた。先に挙げたような法律があるから、もちろん、オヤジは駄目とは言われなかった。ただ面接の当日、パソコン操作のテストをするらしい。そして、それをパスしても、いつから仕事に入ることになるかは、現状ではまだ決められないとの返事だった。
そーら来た。オヤジを入れないための水際作戦に出たな。テストの結果に難癖つけて、仕事開始までの時間を引き延ばし、こっちが根負けして辞退するのを待とうという魂胆なのだ。猜疑心の塊、人間不信の氷河、自己卑下の白色矮星と化している私は、とっさにそう思った。しかし、ひょっとしたら、応募者が多いので、派遣先の会社との交渉やシフトの段取りなどで手間取るだろうから、あんな返事をするしかなかったのかもと、ちょっとだけ思った。多少は好意的な解釈ができる程度の人間性は残っているらしい。とりあえずは、その派遣会社に面接に行くことにした。

しかしもう、いつまでも待ちの姿勢では、不安でしかたがない。こっちから手を伸ばして掴まなければ。かくなるうえは医者になんとかしてもらうしかないと、私はかかりつけの精神科医に相談した。

「おや、永吉さん、久しぶりですね。どうですか?」
「それが、またチックの症状がひどくなってきて……」
「そうでしょうねえ。もうとっくにお薬がなくなってるはずですから。あの薬は途切れないように飲まないとだめですよ」
「すいません。それは分ってるんですけど、お金がね……。いや、そんなことよりも、なかなかいい仕事が見つからなくて参ってるんです……」
「最近は多いですね、そんな症状を訴える方が」
「治療には時間がかかるんでしょうか」
「まあ、仕事がすぐに欲しいのなら注射がいちばん効果的でしょう。ただしこの注射は保険外になるし、ジェネリック薬品もまだできていないので、少しばかり費用がかかりますけどいいですか?」
平均的な単純作業の日給2日分に相当するくらいの費用になるらしい。
「で、1本射つと、何日くらい効いてるものなんでしょうか?」
「個人差がありますけど、平均して10実働日ほどですね」
10日間で稼いだうちの2日分は投資と考えて、射ってもらった。

医者の言った通り、翌日、登録している派遣会社のひとつから、家電製品の組み立ての仕事が紹介された。3か月の短期採用で、お金もまあまあで仕事にもすぐ慣れたのだが、10日目になって薬の効果が切れるやいなや、メーカーが突然、深刻な経営不振に陥って、派遣社員はみな即日、解雇された。
そして、また薬を射ってもらった。今度は3週間効くという、もっと値の張る薬だった。仕事は病院や学校に給食を供給する会社で、配送の作業をしていたが、薬が切れた日に小学校で食中毒者を出してしまい、会社は営業停止処分を受けて派遣社員全員解雇となった。
そんな具合に、失職するたびに薬を射ってもらっていた。医者も儲かるので、私が来院すると、断りもせずに高価な注射を射つようになった。職には困らなくなったが、薬が切れるたびに、勤め先が不渡りを出して倒産したり、火災を起こして操業ができなくなったり、経営者が会社のカネを根こそぎ持って愛人と失踪し、取引ができなくなったりするのが、申し訳なかった。

薬が切れた日の翌日、いつものように病院に行った。診察室に入るなり、注射器を手に挑みかかってきた医者を制止して、私は言った。
「人に迷惑をかけないような注射ってないんでしょうか」
「甘いなあ。人が人を喰って生きてる時代に何言ってんの」
やけに医者の機嫌が悪い。
「注射が嫌なら、前のように這いつくばって職探しするしかないですな」

診察室の壁にかかっていたカレンダーに、花畑に群れている蝶々の写真が載っているのが眼に入って、私はつい「蝶々はいいですよね。職探しなんかしなくても自然に与えられた仕事があるし、誰にも迷惑かけないし、それに成虫の寿命って数週間なんでしょ? 蝶々になりたいもんです」と言ってしまったのだ。あ、と気づいたときには遅かった。腕を引っ込めるよりも速く、医者の握った注射器の針が、見事に私の腕の関節部の静脈を射止めていた。
「これで、明日にはアゲハチョウの蛹(さなぎ)になってます。2週間ほどの蛹の期間が終ると成虫になって、それから3週間もすれば死にます。これは誰にも迷惑がかかりませんから安心してください。ははは」
医者はすっかり機嫌を直していた。

今朝、私は蛹になっていた。人間としてすでに52年間も生きたから、卵や幼虫の期間は免除されて、いきなり蛹になったのだろう。木の枝に固定されて動けないが、何もしないのが蛹の仕事である。私に相応しい仕事だと思った。
ふと、昨年、川端康成文学賞を受賞した『蛹』(田中慎弥著)という小説を思い出した。主人公である雄カブトムシの幼虫が蛹になるまでの間の、外界での出来事に対する反応や発見や認識の変化などを綴った物語だった。そこで私自身が蛹になった今、もう一度読んでみたくなって「新潮」を本棚から引っ張り出した。

この作品の主役である蛹と永吉蛹の大きな違いは、前者が、いつ成虫になれるのか自分でも分らないということだ。それに成虫になってからも、どのくらい生きられるのか分らない。一方、永吉蛹は、蛹の期間も成虫の寿命も医者から聞いて知っている。
もうひとつの違いは、カブトムシの蛹が、はやく成虫になって、大人のカブトムシらしい働きをしたがっているのに対して、永吉蛹は、できれば蛹のまま半醒半睡のうちに寿命を終えたいと願っていることだ。まあ、薬が効いているので、いやでも成虫にならざるをえないのだが。
どちらの蛹が幸福か私には分らない。生まれて間もないので好奇心旺盛、あれもしたいこれもしたいと希望を漲らせるカブトムシ蛹と、52年間いろんな経験をしてから蛹になった私とでは、幸福のヴィジョンも違う。

私の寿命は、蛹と成虫をあわせて、あと約ひと月と言われたわけだが、これは末期癌で「あとひと月です」と言われるのとはまるで違う。私の場合は「定年まであとひと月ですね」に近い。絶望するどころか、最後にひと頑張りしてみようかな、とすら思っている。将来に希望がもてなくても幸福に生きることはできるのだ。

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墓場のように静かだった。
その喫茶店には客がひとり、店主がひとりいるだけだった。

テーブルでメニューを見ていた男性客が突然、カウンターにいた老店主に向かって怒鳴った。
「すいません、カレーください」
店主が叫んだ。
「味は辛口にしますか?」
客は吠えた。
「ええ、そうですね、辛口にしてください」

ドア鈴の轟音とともに、若い男女のカップルが、店内に突入してきて、カウンター席を蹂躙した。

「お、俊樹、久しぶりじゃないか」
鍋のカレーをかき混ぜながら店主が常連客の俊樹にがなり立てた。
「マスター、ご無沙汰してます。繁忙期だったんでね、なかなかお店に来られなかったけど、やっとヒマになりましたよ」
「そう、よかったね。で、仕事って何だったっけ?」
俊樹は、怒り心頭に発して絶叫した。
「そろそろ覚えてくださいよ。フォトグラファーですよ、写真館の。七五三の記念撮影で忙しかったんですから」

ふたりの怒号が飛び交うのをよそに、メニューに眼を通していた、俊樹の恋人、美紗子が店主に向かってわめきちらした。
「あたしねえ、野菜サンドとホットミルクがいいわ」
「はいよ。で、旦那さんは何にする?」
旦那さん、と嘲弄され、逆上した俊樹は店主に噛みついた。
「やだなあ、マスター、そんなのまだですよ」
「"まだ"っていうことは、いつかはってことだよね?」
蛇のように執拗な穿鑿に業を煮やした俊樹は、ついに雄叫びを上げた。
「……まあ、いずれはね」
それを聞いていた美紗子は驚愕して、俊樹の耳元で呻いた。
「今、俊樹が言ったことほんと? "いずれは"って」
「……ああ。一人前のフォトグラファーになったら必ず」
俊樹は美紗子の眼を睨み据えて咆哮した。
「うれしいわ……」
胴間声を上げて狂喜した美紗子だったが、嬉しさのあまり、テーブルを掻きむしって号泣し始めた。
「ばかだなあ、泣かなくてもいいじゃないか」
俊樹は美紗子を罵倒すると、その肩を抱いてアナコンダのように絞めあげた。

店の片隅でカレーを食べていた客が、この店で自分ひとりが、つんぼ桟敷におかれていることに気づいて絶望し、慟哭しながら、カウンターの3人にすがり寄った。
「ちょっとお邪魔します。なんだか楽しそうですね」
俊樹は、どこの馬の骨か知れないよそ者が近づいてきたので、敵意をむき出しにして唸った。
「あ、いや。つまんない話をお聞かせしてすみません」
「実は、私も写真やってましてね」
客は、大地も裂けよとばかりに名刺をテーブルに叩きつけた。

「いやー、びっくり」
名刺の名前を見た俊樹が悶絶するのを見て、店主と美紗子は凍りついた。美紗子は恐怖に失禁しながら声を絞り出した。
「ねえ、だれだれー?」
「唐神鹿梵仏(とうじんろくぼんぶつ)さんだよ! 有名なフォトグラファー。僕らの世界じゃ、カリスマ的な存在なんだ。すみません、お顔を知らなかったもんで分りませんでした」
「いいんですよ。俳優じゃないんだから顔なんかどうでも」
唐神鹿は、俺様の顔も知らないとは、この下郎がと思いながら吐きすてるように言い、さらに罵詈讒謗を俊樹に浴びせかけた。
「俊樹さん、でしたっけ? どうです、よかったらしばらくうちのスタジオでアシスタントしてみませんか? お話を聞いてると、アウトドアな写真が撮りたいようですね。うちはかなり手広くやってますから、チャンスが回ってくると思いますよ」
「え! でも僕の写真の腕がどの程度のものか……」
唐神鹿は、自分がせっかく誘ってやったのを俊樹が素直に受けようとしなかったことの屈辱で理性を失い、思わず俊樹の胸ぐらを掴んで恫喝した。
「大丈夫。私は人を見る眼には絶対の自信があるんです。あなたならやれますよ!」

美紗子は狂人の眼つきで俊樹に飛びついて、妄言を吐いた。
「よかったわね、旦那様、ふふっ」
「うん、僕はやるよ、奥様、ははは」
抱き合ったふたりは、至福に我を忘れ、カウンターの上で獣のようなセックスを始めた。
店主は、今度は自分がつんぼ桟敷におかれたことに気がついて、まさに怒髪天を衝き、人生を棒に振るのを覚悟で包丁を唐神鹿めがけて振り下ろしながら言い放った。
「俊樹をよろしくお願いします。おっちょこちょいな奴ですけど、わたしには息子みたいに可愛くてね、ははは」
「任してください。お父さん、ははは」

4人はいつまでも、きちがいのように笑い続けた。

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