エッセイでも小説でもルポでも嘘でもなんでも書きます
無名藝人




創作夢とは、夢を見たときに(正確には、眼を覚ました後に)名状し難い不条理感をもたらすさまざまな要素を用いて創られた物語のことだが、多くは、物語というより、夢の記述のような体裁をとる。



夕陽の当たる縁側で居眠りをしていたら、遠くを走っている、屋根にスピーカーのついた選挙の宣伝カーのような車(車は見ていないのだけど、そんな車だと判った)から「ご飯できたよ」という母親の声が聞こえてきて目が醒めた。床板張りの居間に入ると、折りたたみ式の将棋盤が床に広げてあり、その上におかずが並んでいた。居間はとても狭くて、ひとり掛けのソファひとつと将棋盤だけで一杯だった。

将棋盤のマス目には、立方体に切られたハムやキュウリやジャガイモ、味噌などが整然と収まっていた。そのなかに、赤紫色の魚の切り身のようなものがあったので、「これ何?」と誰とはなしに訊くと、「曲げ魚だよ」という母親の声が背後から聞こえた。「曲げ魚は、何をつけて食べるの?」と訊くと、「味噌をはらって食べなさい」と言う。「味噌をはらう」という言い方は初めて聞いたが、「味噌をつける」という意味だということを、私は知っていた。

母親は二年前に亡くなっていたが、それを言うと可哀想だと思ったので、私は、死んだことに気づかないふりをするつもりで、母親の方は見ないようにしていた。

硬い立方体の塊になっている味噌を、曲げ魚の切り身の上にのせて口にいれてみたら化学物質のような味がするので、「これビニールみたいだね」と言ったが、返事がない。しかし、すっすっという畳を擦るような足音はするので、足音だけ残して帰っていったのだと思った。

盤上を見ると、おかずがどれも半分溶けたようになって固まって盤に固着している。剥がそうとしても剥がれない。早く食べないから、腐ってしまったのだと思った。
まだ口のなかに残っていた曲げ魚はいくら噛んでも、硬くてとても呑み込めないので吐き出したら、それといっしょに歯の欠片がざらざらと出てきた。鏡で口のなかを見ると、ほとんど歯がなくなっていて、困ったことになったと思った。

いつの間にか母親の足音が聞こえなくなっていた。足音も帰っていってしまったのかと思うと、私はとても悲しくなって「お母さん」と言いながら泣き出した。



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分け入っても分け入っても白い砂

正直なところ、砂漠には失望した。
どういうわけで砂漠には砂しかないのだ。
見渡すかぎり砂しか見えない。歩いても歩いても砂だ。一体どれだけ砂があれば気が済むのだろうか。
この調子なら、砂漠を垂直に掘り続けたとしても砂しか出てこないような気がする。地球の中心まで砂が詰まっているに違いない。

こんなところで、一体われわれに何をしろというのだろう。泣きぬれて蟹と戯れろとでもいうのか。砂漠のどこに蟹がいるのだ。
だいたい、どういうつもりで、こんなにたくさん砂を集めたのか理解できない。砂の養殖でもしているのだろうか。
確かに、これだけ砂があれば、10年や20年は砂に困ることはないだろう。世界中から、砂場業者が砂を買い付けに来ているはずだ。日本からも(株)近畿砂場とかなんとか、そんな名前の業者が買いに来ているにちがいない。

砂漠はなくならないどころか、むしろ徐々に広がっている。ということは砂漠は人類にとって、なくてはならないものなのかもしれない。必要とされないものは、必ず淘汰されるというのが自然の摂理なのだから。

まあ、ここから輸出された砂が、世界中の公園や学校の砂場で子供たちの健全育成に役立っているのなら、それでいい。私がとやかく言うことではない。


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平成の日本人は「正義の怒り」を完全に失った。
公共の場での無法行為などは他人事と、意に介さないのがオシャレライフをエンジョイする秘訣になってしまった。
しかし私は昭和の人間だから筋は通すことにしている。例えば駐輪禁止の場所に自転車を停めようとする人間を見たら、何をおいても、まず腹を立てることにしている。信号無視をする歩行者を見た場合でも、必ず頭に来ることを忘れない。ましてや禁煙区域で喫煙をするような悪党に情けは無用とばかりに、ハラワタが煮えくり返ることにしている。

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此のところ忙しく、ブログを書く時間が全然無い。
さう云ふわけで、今回も旧ブログに載せた記事の使ひ廻しである。そんなことをしてまで更新するのは本末転倒の観も在るが、自分で面白いと思へるのなら、再掲載には別に問題ないやうな気もする。再放送、再上映の類ひだと考へることにする。


ブログを始めた頃、友人の矢野から「君のブログには華と云ふものが無い。文字ばかりで、写真も無ければ絵も入つてゐないぢやないか。電話帳だつて絵くらゐは載つてゐるぞ。君は絵描きだらう? 自分の作品を宣伝し給へ」とメエルで意見してもらつた。意見は有難いが、電話帳と比べられてはかなはない。
しかし「広告も入つてゐないなんて、ブログと云ふものが分かつてをらん」と訳知り顔で講釈してゐるのを読んで、少なくとも、この男も分かつてをらんと云ふことは分かつた。
 
成程、イムパクトの有る視覚的要素がもつと入れば、なほ見場が良く成るであらうことは想像に難くないが、悲しいかなイラストレエシオンや写真等を縦横無尽に配すること未だ適はず。出来ないことをしようとするのは自然の理に刃向う様なものだ。したがつて、僕は今の儘が一等好きだ。
 
例へば小説を思ふ。ギョオテやモオパツサンの小説に気の利いたイラストレエシオンが載つているのを見たことが無い。表紙の外は文字ばかりである。然るに、『若きヱルテルの悩み』には華が無いと云ふ意見は聞いたことが無い。
亦うちは浄土真宗で、父の命日には坊主が経を上げに来るが、その経本を覗き込んでみても、絵も写真もイムパクトのある広告も載つていない。珍紛漢紛な文字の列が並んでゐるだけだ。だからと云つて、此の経には華が無い等と云ふのは見当違ひも甚だしい。

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これは、今は閉鎖されている旧ブログに載せた記事である。未練がましいとは思うが、われながら気に入っているので、このまま葬り去るのも、いとくちをしと思ひて再掲載す。まあ、ずいぶん長いことブログ書いちょらんというのもあるけんどの。


「速読」というものがある。

テレビでデモンストレーションしているところしか見たことがないのだが、とにかく読むのが速い。文庫本を1ページ1秒くらいのペースで読むのだから、もはや無法というしかない。
たしかに、芸術性も神秘性もいぶし銀のような渋みもないDVDレコーダーのマニュアルなら、それだけ速く読めれば時間の節約になって、たいへんケッコーなことだが、 芸術性も神秘性もいぶし銀のような渋みもある文学作品まで1ページ1秒のペースで読まれたら、作者はたまったものではない。

手許に、ドストエフスキー作『未成年』(新潮文庫)があるが、上下巻あわせると1000ページを超える。上のペースだと速読者たちはこれを約17分間で読んでしまうことになるわけだ。ドストエフスキーはすでに死んでいるが、これを聞いたら、絶望のあまり、もっと死んでしまうかもしれない。
『未成年』は大作だ。半年やそこらで書いたとは思えない。手間をかけて取材もしただろう。編集者と火花をちらす論争をしたかもしれない。執筆に熱中するあまり夫婦生活をなおざりにして、妻から「この役立たず!」と罵られたかもしれないのだ。
そんな思いをして書き上げた労作を、わずか17分間で読んでしまうのは、あまりに無慈悲とは言えまいか。速読者にも人並みに温かい血が流れているのなら、作者の立場に立って、せめて1週間はかけて読んでやってほしいものだ。

お客様に喜んでもらおうと、なかなか手に入らない食材を脚を棒にして集め、何日もコトコト煮込んで作ったカレーを、とっておきの高級皿に盛って出したところ、それを10秒で丸呑みにされてしまったとしたら、作った人はどんな気持ちがするだろう。
構想5年、製作期間3年、しかも自主制作でスポンサーがつかないから、ローンが残っている家を担保にして借りた資金をもとに作った映画のビデオを速送りで観られたら、作者はどんな気持ちがするだろう。かりに1分間観ただけで忍耐の限界に達してしまうような退屈きわまる作品でも、速送りせずに最後まで観るのが礼儀というものではないだろうか。

速読者にはハンディをつけるべきだ。速読者用の本は、文字を極端に小さくして虫眼鏡で読ませる、あるいは、印刷をひどく滲ませて、何と書いてあるのかよく解らなくする。ページの順序をばらばらにして、次のページがどこにあるのか苦労して探させるなどが考えられるが、そういった特別仕様の印刷だとコストがかかるのなら、速読者が本を買うのを妨害する、速読者が買う場合は極度に高額にするといった方法も可能である。

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