エッセイでも小説でもルポでも嘘でもなんでも書きます
無名藝人




 フェイスブックを始めてからやがて2年になる。いまだに用途不明の機能がいくつもあり、しかもそのカラクリに知らず知らず振り回されていて腹が立つこともあるが、ツイッターよりも芸人性をアピールしやすいエスエヌエスであり、芸を見せる以外には何の取り柄もない私は重宝している。



 6月1日より「永吉流」が正式に発足し、私が初代家元に就任することが決定した折、フェイスブックに、挨拶文とともに永吉流宗家の看板の写真を掲載したら、12名もの方々から《いいね!》をいただき、この機運に乗じ、幾星霜を経て育て上げてきた我が流派の芸を御披露目しようと考えたのである。
 市川宗家の歌舞伎十八番にも匹敵する、永吉家の家宝ともいうべき芸を収録するために、アイマックで、アイムービー、アイフォト、アイチューンズなどを駆使して36回にも及ぶ撮り直しの後、やっと満足できるテイクができたので、ユーチューブにアップしてフェイスブックで共有した。

 永吉流の芸の神髄は、ひと口で言えば「無為自然」にある。天の摂理を、それがわれわれの目にどれほど無慈悲なものに映ろうとも、あるがままに受け入れ、呼吸し、己の血肉として生きることにある。
 それを十全に表現するためには、素晴らしいビニールが不可欠だったが、幸い「ビニールくん」という愛称で呼ばれていたビニールが手に入った。それは私の芸風への親和性が高く、また多面的かつ綜合的に用いることができ、おかげで永吉流の真骨頂が遺憾なく発揮された。

 そんなわけで満を持して公開に踏み切ったのである。しかし、あにはからんや、アップしてから10秒ごとにフェイスブックを開いて反応を窺っていたが、いつまで経ってもコメントどころか《いいね!》も付かない。焦燥感で頭を掻きむしりながら2分間様子を見ていたが、何の反応も見られないので、私はたまらずに投稿を削除した。
 ユーチューブのサイトを見ると私の動画は「1回再生」となっていた。ということは私以外は誰も見ていないということになる。要するに見なくてもわかるほどの駄芸(造語)だったということなのだ。なんたる屈辱。まったく観客とは非情なものだ。いかに心血を注いだ労作でも、面白くなければお世辞の《いいね!》すら恵んでもらえないのだから。

 芸人にとって無視されるのが酷評されるより辛いことは、もしあなたが同じ芸人なら理解してもらえると思う。家元としてはあまりにも厳しい船出となってしまったのであった。

 どこに問題があるのかわからない。ビニールという素材の選択を誤ったのか、ゴムにすべきだったのか、牛皮にすべきだったのかいろいろ考えたが、やはりビニール以外になく、早くも永吉流の終焉を予感する有様だった。



「恥さらし家元」の汚名がすでに広まっているはずだと思うとフェイスブックを開くのが怖くて、2、3日はパソコンの電源を切ったまま鬱々と天井のシミばかり数えていたが、ふと海が見たくなって神戸に出かけた。

 神戸港ではちょうど、遠洋漁業に出ている船団がイカ釣り漁をしているところだった。イカ漁では網は使わず、海中に垂らした何本もの釣り糸を機械で巻き上げるのだ。ポートタワーの展望台からそれを見ていると、《いいね!》が付いたの付かなかったのと一喜一憂することもない漁師が羨ましくなってきて「漁師は気楽でいいね!」と思わずつぶやいた。
 すると、甲板で機械を操作していた初老の船員が私を睨みつけた。

「気楽やて? なに抜かしとんねん。わしらは先月漁に出てからもう1か月も陸(おか)に上がっとらんのやど。まあ、わしはええ。そこの若い奴なんか、祝言の翌日から漁やったんやど。女房にしてみたら、新妻がいきなり後家になったようなもんやねんど。
 それだけやないど。こいつの女房が淋しがっとるのにつけこんで間男した奴がおってな、孕ましといて逃げやがったんやど。女房は亭主に知られるのが怖くて誰にも相談できんまま父(てて)なし子を産みよったんやど。その子も大きゅうなって来年はもう高校生やねんど。でもな、父親は遠洋漁業に出とると教えられとるねんど。そら父親が間男とは言えんわ。なあ、健次」

 健次と呼ばれた若い船員は、こちらに背を向けてイカを選り分けていたが、急に肩が震え出し、振り向くと、チクショウ! と涙声で叫んで、持っていたヤリイカを私に向かって投げつけた。
 そのヤリイカが、うまい具合に私の口のなかに飛び込んできたので、それをもぐもぐ食べながら帰りの阪急電車のなかでアレコレ考えていると、永吉流の芸が受け入れられない原因は、芸にではなくて、それを見たユーザーの傾向にあるのではないかという推測がふと頭に浮かんだのであった。



 その傾向を突き止めるべく、帰宅するとすぐにフェイスブックを開いて、私と友達関係にある54名の「基本データ」を片っ端から調べていった。そこには《宗教・信仰》《政治観》《好きな言葉》《美空ひばり》《沼》といったような項目があって、それぞれ思い思いのことを書いているのだが、ある項目では全員がまるっきり同じ回答を載せていた。
《パセリは好きか嫌いか》というのがそれで、なんと54名全員が「嫌い」と答えている。パセリは料理の飾りという認識が定着しているためか、数種のビタミン、そしてカルシウム、鉄分などを含む非常に栄養価の高い野菜であるにもかかわらず、食べない人が多い。もったいない話である。

 なるほどね。そりゃ私の芸が受け入れられないはずだ。パセリが嫌いじゃどうしようもないよな。カボチャの嫌いな人にベートーベンを聴かせるようなものだからね。
 客を家に呼んで御馳走する時は、まずその客がうどん派かソバ派かを知ることが肝要だという先人の教えを今回の騒動で思い出しましたとさ。

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