エッセイでも小説でもルポでも嘘でもなんでも書きます
無名藝人




永:くそ暑い夏が終わっても涼しかったんは一瞬ですぐに寒なってしもた おかげで風邪ひいたがな 2週間ほどずっと微熱が退かん
永:ぼくも風邪引いて2週間ほど微熱が退かん
永:せっかく熱燗の季節になったゆうのに内臓が弱ってるせいか酒がまずい
永:ぼくも内臓があかんねん 酒の匂いかいだだけでウッとなるわ
永:医者にかかった方がええんやろうけど 検査してガンとか脳血栓とかいらん病気でも見つかったら面倒やしなあ
永:ぼくもそれがイヤで医者に行かへんねん
永:なんや君ぼくとよう似とんなあ
永:そら同一人物やからな
永:……
永:……
永&永:あかんがな!
永:やらせチャットやいうのがバレてまう
永:今回のタイトルですでにバレてるし
永:別人格で話さんと話題が発展せえへんやんか
永:ちゃんと人物造形して仕切り直そか
永:そやけどなんでこんな自家受精みたいなチャットせんならんねん
永:……友達おらへんねんもん



永:して此度の用向きはなんじゃ
永:え? あっしにネタをふるんですかい 旦那もお人が悪いねぇ
永:士農工商芸人じゃ
永:さいですか よござんす じゃあの話題っすね このチャットを読者が読む頃はどういう展開になってるか お天道様もご存知ねえでしょうがね なんせ光より速ぇ物質が見つかったってんで科学者が目ん玉でんぐり返して驚いたってんですよ
永:ひかりより速いのはのぞみであろう
永:この(武家を侮辱する発言を不適切と判断し削除)!
永:はは 戯れ言戯れ言 されど泉下のアインシュタイン翁にしてみれば戯れ言では済まされぬ一大事よのう
永:そんなヤボなこたぁどーだっていいんですよ ニュートリノだかニワトリだか知らねえが それを ジェノバだかジジババだか知らねえが そこからグランサッソだか浅間山荘だか知らねえが732kmも離れたところにぶん投げたら これが光より速く着いてちまったってんでさぁ
永:732kmと申すと何里じゃ? 1里がおよそ4キロとして……
永:そんなケチなこたぁどーだっていいんですよ それよりどうにも合点がいかねえんすがね このニュートリノってぇ粒子をぶん投げるったって 地球すら貫通しちまうような物質をどこに溜めとくんですかね
永:ニュートリノなるものはそもそも何処より湧いてくるのじゃ
永:そんな余計なこたぁどーだっていいんですよ もし特殊相対性理論が破綻したら アインシュタインは舌を出しただけの一介の物理学者になっちまう それでもいいんですかい旦那!
永:うむ しかし野次馬としては 一度破綻してニュートンから全部やり直しというのもいとをかし
永:そんな下らねえこたぁどーだっていいんですよ あっしゃ光速がどうだとかアインシュタインがどうだとか何の興味もないんすから
永:……
永:旦那 どうなすったんで 
永:斬る 貴様を斬る 先刻より聞いておれば好き放題ぬかしおって あまつさえ某(それがし)の言い分をないがしろにしたる段赦し難し そこへ直れ せめてもの情けじゃ 寸毫も痛みを感じぬよう首を刎ねてくれるわ
永:おもしれえ やれるもんならやってもらおうじゃねえか へっ てめえのナマクラ刀に斬られるようなおいらじゃ
永:成仏せい! ザシュ



永:話はかわるけど……
永:話題をかえるときに要らなくなったキャラは殺すにかぎるよね
永:最近は貧乏であることが自慢にならなくなっちゃったな ひと頃は貧乏ネタで時代の寵児と目されたぼくだけど
永:貧乏人が増えたからね
永:貧乏人どうしでどっちが貧しいかを競うのもなんか空しいし 病弱を自慢しても同情されるだけで笑ってはもらえないから これからは低学歴をアピールしようと思うんだ
永:うんいいかも 中卒作家の西村賢太が芥川賞を穫ってから低学歴が俄然脚光を浴びるようになったからね
永:でもそれだけじゃ不満だな 高学歴の人間が自分の学歴を恥じるあまり学歴詐称をしなくちゃ生きて行けなくなるまで 低学歴者の勢力を断固アピールしなきゃ
永:文革時代の中国みたいだね インテリはみな自己批判させられるのか
永:そうだ 高学歴者たちはみな三角帽子を被せられて人民の前に引き出され低学歴者たちから嵐のような糾弾を浴びるのだ くけけ……
永:君が高学歴者に対してルサンチマンを抱いているのは明白だな
永:ぼくがいちばん気に入らないのは 高学歴者が出身校の名前を訊かれるまでは言わないことだ 訊いても「いちおう慶応です」とか「いちおう京大です」とか「いちおう」を枕詞にする なんだこの「いちおう」というのは その心底が見え見えじゃないか 私はあなたなんか比較にならないほど高学歴だけど劣等感を持つ必要はありませんよ 顔といっしょで頭の出来も生まれつきなんだからしょうがないじゃないですか 高学歴と低学歴 しょせん対等にはつき合えない間柄だけど表面上は仲良くしましょうよ ということを言外に匂わせているのだ
永:よほど強烈なルサンチマンを持っていないとそこまでいじけた発想は生まれないだろうな
永:「おれは東大卒だ どけどけ道を空けろ」と言う奴の方がよほど潔くて好きだ ぼくは高学歴者のご尊顔を拝する栄誉に涙しながら道の脇で土下座をしてやる
永:成仏しろ! ザシュ



永:会話が行き詰まると相手を殺して終わらせるという画期的な手法のおかげで ずぅぃぶん原稿を書く……じぁあなくてぇチャットをするぬぉが楽にぬぁっちゃったぅゎぁん
永:なんかやけにヌメヌメした女性キャラですね もうチャットなんかどうでもいいとか思ってません?
永:んまたぁ 本当のこと言うとあぬぁたも成仏さすぇるぅわよぅぉん
永:で話題は何にしましょうか?
永:んそうぬぇぇ いま日本が抱えてる問題はもぉぅみぃんぬゎ語り尽くしちゅゎったしねぇん ん何か話題あぁるかすぃら?
永:ないっすね
永:ん成仏してぬぇん! ザシュ


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 私が、大阪にある美術館のなかでもっとも気に入っていたサントリーミュージアム天保山が、入館者数の減少などから、来年閉館することになったと聞いて、やっぱりね、やーっぱり大阪では美術は育たんわ、と再認識した。
 といいながら、私自身もこの数年、美術というものからすっかり遠ざかってしまって、制作はおろか、美術鑑賞に出かけることすらご無沙汰している。つまり私も、微力ながら、サントリーミュージアムの閉館に貢献していたわけである。



 先日のこと。アルバイトに向かう途中、大阪市内にある、JR相笠駅構内の掲示板に「玉垣由奘(たまがきゆじょう)と天満橋派」なる展覧会のポスターがたまたま眼に入った。ポスターといっても、タイトルと会場と開催期間と開場時間を書いただけのもので、作品の写真が載っておらず、主催者のやる気を疑いたくなるような告知ではあったが、どうやら美術展らしいことは判った。
 会場は相笠の駅ビルの地下にある「アートスペースまほろば」。展示用の照明設備もない、10坪ほどの単なる「部屋」だった。入場無料だし、美術への愛情を再燃させるためのリハビリになるかもしれないと思い、仕事の帰りに寄ってみたが、入り口のドアに「玉垣由奘開催中。お気軽にお入りください」と、マジックインクで書いた紙をセロテープで貼ってあるのを見て、腹立たしいような可哀想なような複雑な気分になった。

 心配した通り、私以外に来場者はいなかった。また、展示会場では普通、入り口の受付に、たいてい誰かが手持ち無沙汰そうに座っていて、来場者に、ご記帳お願いしますとかなんとか言うものだが、場内は無人で、記名帳すらないのだ。どう見ても、美術の素人が運営しているとしか思えなかった。
 しかし不幸中の幸いというべきか、作品は見るべきものが揃っていた。すべて水墨画。由奘以下、天満橋派の画家11人、28点の絵はいずれも、江戸時代に描かれたとはとても思えないような、極度に先鋭的な作品で、イタリア未来派の画家が水墨画という技法を用いて描いたらこんな絵になるにちがいないと思わせるようなものばかりだった。しかし、それゆえに当時は認められず、現代になって再評価され始めたのだろう。
 1枚のB5用紙に両面コピーされた目録によると、由奘は、1726年生まれで1791年歿。与謝蕪村と同時代人だ。その時代に、20世紀のヨーロッパで興った未来派の芸術思想を先取りするような発想で制作していたのだ。『椴松杜鵑鳴山水図』では、イタリア未来派の画家ボッチョーニの彫刻『空間における連続性の唯一の形態』を彷彿させる、人物の連続する動作をひとつの画面に描くという試みすら、すでに行なっているのである。
 特筆すべきは、天満橋派という呼称からも察せられるように、彼らのほとんどが大阪在住であったことだ。由奘は堺の商家の出身らしい。私は、美術に長いこと関わってきて、もうほとんど見尽くしたようなつもりでいたが、大阪にこんな埋蔵金があるとは知らなかった。



 気に入った絵はたくさんあったが、この日は、由奘の『椴松杜鵑鳴山水図』を持って帰った。大きさはB1ほどあって、帰りの混んだ電車の中で肩身の狭い思いをしたが、それに懲りず、翌日は函伊暮骨(はこいぼこつ)の『阿頼耶富士桜図』という、これまた大判の作品を持って帰った。
 3日目に会場を訪れた時のことだった。相変わらず来場者の姿はなかった。その日は、ブンダメン・オハリンドゥ(ぶんだめん・おはりんどぅ)の『涅槃寂静比翼初花図』をもらって帰ろうと思っていたのだが、すでに誰かが持ち去っていて、絵を吊るしていたワイヤーだけが残っていた。
 しばらく茫然と白い壁を眺めているうちに腹が立ってきた。これはいったいどういうことなのか、会場の管理責任者に説明してもらおうと、部屋の奥の、いつも閉まっているアコーディオンカーテンを開けたら、その向こうはいきなり全面ガラスのドアになっていて「ビューティーサロンまほろば」という字を切り抜いたカラーシートが貼ってあった。店内は満員で、順番待ちの客たちがソファで鈴生りになっていた。
 この美容室のなかの誰が責任者なのか判らなかったが、とにかく中に入り、ドアの近くのシャンプーチェアで客の洗髪をしていた若い女性の美容師に尋ねた。
「『涅槃寂静比翼初花図』がないんですけど、どういうことですか?」
「え? ありませんか……。じゃ、ちょっと待ってくださいね」
 その美容師は、客を仰向けに放置したまま洗髪台の下にもぐりこんで、そこにあった段ボール箱の中をしばらく掻き回すと、ありましたありましたと言いながらそこから出てきて、写真立てに入った『涅槃寂静比翼初花図』のミニチュア複製画を私に差し出した。洗髪していた手で持っていたので、写真立ては泡だらけになっていた。
「1,500円です」
 ミニチュアの複製画では、オリジナルのダイナミズムが伝わらないが、ないよりはましだと諦めて、それを買って、おとなしく帰った。



 今回の展覧会には、多分、たくさんの来場者があったのだろう。にもかかわらず、いつも閑古鳥が鳴いていたのは、来場者が、みなビューティーサロンまほろばに吸収されてしまっていたからにちがいない。つまり、ビューティーサロンまほろばが、客を吸収するための装置として、アートスペースまほろばを開設し「玉垣由奘と天満橋派」展を開催したのだ。
 私も、もう少しで吸収されるところだった。展示会場を満たしていた、女性的な芳しい香り(ビューティーサロンまほろばから漏れ出していたのだろう)に鼻をくすぐられながら、天満橋派絵師たちのダイナミックな絵を観ているうちに、なぜか無性に襟足のあたりをカットしてもらいたくなったのだ。そうしなかったのは、私が貧乏だったからにほかならない。
 では、なぜ消極的な宣伝しかできなかったのか、その理由も推測できる。それは、ビューティーサロンまほろばに客を吸収したいという願望と、玉垣由奘という大阪の至宝をエサにしているという後ろめたさの間で折り合いをつけようとした結果なのである。実利と倫理のジレンマに悩む経営者の姿が眼に浮かぶようだ。しかし、この一件で、大阪人も心のどこかでは美術に敬意を払っていることが判った。皮肉な話である。


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このところ、若手の映画作家の間で注目されている「あらすじ映画」とは、あらすじを完成作品と見なす映画のことである。あらすじまでは書いたものの、なんだかやる気がなくなって映像化するのをやめてしまった、その遺物としてのあらすじではない。あらすじを書くことが最終目的なのである。したがって完成した映画は、文章の形をとるが、一定のルールはなく、いわゆる箱書きのような図式的なスタイルから、ほとんど脚本といってもいいようなスタイルまでさまざまである。

たとえば劇作家にとって脚本は、それ自体で独立した作品であって、上演されようがされまいが、その価値に変わりはないと考えられる。また、作曲も同じで、楽譜そのものが、実際の演奏とはかかわりなく作品価値をもつと考えられる。たしかに、ヘタな役者や演奏家のせいで、脚本や曲そのものまでが駄作にされては、作者もたまらないだろう。

しかし、同様の発想をあらすじにあてはめるのは難しい。なぜなら、脚本や楽譜とちがい、あらすじは「粗筋」というだけあって、作品の設計図とはなり得ないからである。そんな曖昧なポジションにあるだけに、あらすじ映画が今後どう展開していくのか予想がつかないが、すでに多くの優れた映画が生まれているのは事実である。

そのなかで私が注目した一作が、伊呉隆史(いごたかふみ)監督の『善悪のお彼岸』である。監督はまだ25歳ながら、すでに8本ものあらすじ映画を撮っている。本作は最新作で、あらすじ映画専門誌「Alas!」での上映を終えたばかり。斬新な映像で、人間の実存に迫る作品を撮り続けている。

以下は映画のあらすじであるが、あらすじ自体が作品であり、著作権の保護下にあるため、原文に一切、手を加えないことを条件に、一部を上映する許諾を得た。

■あらすじ映画『善悪のお彼岸』
2009年/16mmカラー/1時間14分

【スタッフ】

監督:伊呉隆史
あらすじ:伊呉隆史
あらすじ清書:伊呉かなえ

【キャスト】

永吉克之[求職中の中年男性]……宮崎あおい
鹿海洋平[パチンコ店の店長]……長澤まさみ
洪建明[謎の中国人]……相武紗季
玄武博士[イヌからアヒルを作る研究をしている科学者]
……新垣結衣
セルゲイ "ヒットマン" ヴォルゾフ[ロシアの格闘家]
……蒼井優
ネブカドネザル2世[新バビロニアの国王]……堀北真希

【あらすじ】

49歳のときに正職を失って以来4年間、臨時雇いや、mixiで知り合った知人から回してもらった仕事などで、細々と生きてきた永吉だったが、前年のリーマンブラザーズの経営破綻を発端とした世界的経済危機のあおりで、ただでさえ難しかった中高年の就業がいちだんと厳しさを増し、彼も人生最大の苦境に立たされていた。

すでに20か所で採用を断られ、仕事を探す気力まで失っていた。かといって、このまま即身仏になるわけにもいかず、21枚目の履歴書を書きながら「いったい何回、同じこと書かせりゃ気が済むんだ、おい」と虚空に向かって憤懣を漏らした瞬間、永吉はある思想に目覚めた。それは「どうしても仕事の見つからない中高年は、生活を守るために履歴書に虚偽の記載をし、面接で虚偽の返答をする権利がある」という一種の超人思想だった。

これまでは道徳観から、面接では何でも正直に答えていた。健康状態を尋ねられれば、腰が悪いことや目が悪いことや顔が悪いことなどを明かした。しかしそんな不利なことまで正直に言うのは、わざわざ自分の商品価値を落とす愚行にすぎない。就職面接とは存亡を賭けた駆け引きなのだ。能のない鷹は、虚偽のツメを誇示しなければならない。弱者が強者を縛るために作られた道徳を超克することができなければ、このまま川下へと流されて、澱みのなかで腐っていくしかない。

毎週月曜は仕事情報誌「大阪しごとマガジン city aidem」(無料)の発行日だった。駅前のフリーペーパーのスタンドにそれが並ぶや、永吉が手に取って開くと、すぐにパチンコ店の求人が目に止まった。「オープンにつき、ホールスタッフ急募!」。パチンコといえば、18歳になった時の通過儀礼として1回やったことがあるだけで、スロットとの違いも分らない。しかしそんなものは超克しなければならない。なにしろ時給1300円・交通費別途支給・制服貸与・皆勤手当あり・委細面談という破格の待遇なのだから、超克しない奴はバカだと腹を決めて、電話で面接のアポを取った。

そして永吉は履歴の偽装に着手した。まず、最大の障壁になっていた年齢を引き下げた。53歳のところを24歳と書いた。また経験者優遇とあったので、職歴には、高校を卒業してからすぐに「パラダイスホールOSAKA」という、いかにもな名前のパチンコ店に入社し、6年間勤めたことにしておいた。

最近は、店の雰囲気を明るくするため、女性を優先的に雇用している店が多いと聞いて、性別は女、名前はイザベラと書き、顔写真はネットで見つけた、誰だか知らないがハーフっぽい妙齢の美女の画像を使った。また住んでいる所も勤務地に近い方が有利と考えて、そのパチンコ店と同じ住所にしておいた。

面接の当日。永吉は自信を持って履歴書を差し出した。店長は、その顔写真に魅入られて「ほう!」と感嘆の声を上げると、採用を即決した。ちょうど店側も若い女性を入れたいと思っていたところだったと言う。しかもこれだけの美女なら客を呼べるし、それに同じ住所に住んでいれば、交通費も要らないし遅刻することもない。おまけにこの業界でのキャリアは申し分ない。願ってもない人材だと言う。

イザベラが働き始めて1年ほど経った。常連客も彼女を「ベラちゃん」と呼ぶほどの看板娘なっていた。客の多くは、イザベラが目当てで店に足を運んでいた。中には、店に来るたびにプレゼントをする客もいた。遊郭でもあるまいに、身請けを申し出る客までいた。ストーカーまがいの行動をする客もいたが、他の客たちが袋だたきにしてくれた。

そんな恵まれた職場にいたイザベラだったが、いつしか良心の痛みを感じるようになっていた。皆に愛されていると感じるほど良心が痛んだ。履歴を偽装したまま働き続けることに耐えられなくなっていたのだ。もう何もかも暴露してしまいたい。あの履歴はでっち上げだ、ほんとうは俺は50男なんだと、あらいざらいぶちまけたかった。それで自分はどうなってもいい。しかし店にまで累が及ぶのは間違いない。へたをすると店を潰すことにもなりかねない。

このジレンマを一気に解決するために、イザベラは悩んだ末に思い切った手段に出たのだった。ある出勤日の朝、彼女は虫メガネと発泡スチロールを持って現れ、店長に言った。「私は、ゆ



上映が許諾されているのは、ここまでであるが、主人公の実存的苦悩が余すところなく伝わってくる。曖昧な情報に踊らされて、真実の人間の姿を見ることができないでいる、われわれ人間の愚かさの寓意であろうか。

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出演

富樫准次郎/是沢敬/葛葉チエ/園村哲也/津島亮/トニー吉見/長峰鏡子/幸田べん助/和田徳江/濱健太/今根慎司/竹西ひろむ/江戸川ハツ子

解説

私は昨年、リバイバル上映で観た。今でいうインディーズ系の作品で、公開当時はほとんど話題にならなかったらしいが、この作品が近森監督のデビュー作であり遺作(2作目の脚本を執筆中に交通事故死)であるというジャーナリスティックな要素も手伝って、一部の崇拝者たちの間で生き延びてきたようだ。

SFといえばSFかもしれない。
最初のシーンで、宇宙空間を航行している大型宇宙船がいきなりスクリーンに大写しになる。CGなんかない時代だから、こういう撮影では、ピアノ線のような、なるべく目立たない素材で宇宙船の模型を吊るすのが定石だったが、この映画では、錆ついた太い鉄の鎖で吊るされていた。鎖は船首と船尾に何重にも巻きつけてあり、それによって、重力のない宇宙空間で船の重量感を暗示しようという、監督の工夫が見て取れた。

船内のシーン。自動操縦に切り替えてひと休みしようと船長の古賀賢三(富樫准次郎)が操縦室にいるふたりの操縦士(是沢敬、葛葉チエ)を伴って階下へ降りていくと、そこは120畳敷きの大広間になっている。普段着に着替えた4人の乗組員が、新聞を読んだり、腕立て伏せをしたり、魚拓を自慢したり、油絵を描いたり、麻雀をしたりしている。このシーンによって、これが日本の宇宙船であることを暗示しようという、監督の工夫が見て取れた。

船長は三和土でブーツを脱いで畳に上がると、その足で右手に進み、部屋の奥まで立ち並んでいる障子の一枚を開けた。縁側を隔ててその向こうには石燈籠の立っている和風の小さな庭があり、その鑑賞池の縁にいた3匹の野良猫のうちのボス猫(園村哲也)が、池のフナを1尾、口にくわえているところだった。いきなり障子が開いたので、びっくりした猫たちは、殺されんばかりの慌てようで、竹垣をくぐって表に逃げていったが、フナは離さなかった。

長く単調な船内生活をしていた乗組員たちにとって、垣根の外にいる野良猫にときどき餌を投げてやるのが数少ない楽しみのひとつになっていた。しかしそのうち、人間に慣れた猫たちが庭に入ってくるようになり、船長が大切に育てている池のフナを襲うようになったのだ。地球を発ったときには5尾いたものが2尾になっていた。船長は溜め息まじりに言った。

「また、やられたか……」

気まずい空気が大広間を満たした。乗組員はみな、こうなったのは自分たちが野良猫に甘くしたのが原因だとわかっていたからだ。船長が自分たちの気持を慮って、咎めだてをしないことに、つい甘えていたのだ。

そのとき、庭の上に広がる黒い空に、黒い飛行物体が現れたことに誰も気がつかなかった。闇の中のカラス、雪の上の白ウサギ、赤道の出血、これらは人類にとって永遠のテーマである。そして、そのカラスの先端で青い光が仄めいたとき、それに気がついた私(津島亮)は「みんな伏せろ!」と叫んだが、やはり遅かった。船長は眉間を朱に染めて、縁側から砂地の庭にゆっくりと落ちていった。

私は伏せたまま急いで障子を閉め、努めて冷静を装いながら、全員に言った。
「船長が撃たれた。撃ったのは北朝鮮の船(トニー吉見)に違いない。船体に国旗もつけずにいるのがその証拠だ。あの青い光に気づいたか? あれは空対空ミサイルだ。船長はそれにやられたんだ」

船長が庭に落ちたときに、左腕を肘まで池の水のなかに突っ込んだ。2尾の夫婦のフナ(長峰鏡子・幸田べん助)は、突然のことに眼を丸くして、しばらくはヒレをひらひら、エラをぱくぱくさせながら手を眺めていた。

「脅かすぢやない。私、また猫かと思つたわ」
「此れ人間の手だな。誰だらう?」
「莫迦ね。いつも餌をくれる船長さんの手ぢやないの」
「そんなの、何処で判るんだ?」
「結婚指輪のデザインよ」
「お前、良く見てるなあ。矢つ張り女と男は違ふ生き物だ」

しかし、船長の手が少しも動かないことに不安を覚えた雄フナは、手首の動脈に尾ヒレで触れてみた。

「おい、死んでるぞ」
「そんなの、何処で判るの?」
「脈拍が無いからだよ」
「貴方、良く考へ付いたわね。矢つ張り男と女は違ふ生き物だわ」

女性が感覚的で、男性が論理的であるという、世間一般の認識に追従せよというのではない。夫婦は相互補完的であるのが理想だということだ。アンドロギュヌスの神話を知らなくても、人間は本能的にそういう関係に居心地のよさを覚える生き物なのである。

その後フナの夫婦は、こんな落ち着かない池にはいられないと言う雄フナと、落ち着かなくても確実に餌がもらえる、船長は死んでも乗組員たちが養ってくれるからここにいたいと言う雌フナがいさかいになり、結局、雄フナが池を飛び出し、竹垣をくぐって表の通りに出たところで、例のボス猫に食べられる。
雌フナは、じっと耐えていれば、いつか変る、いつか良くなるという希望を持つことができた。ヒトラー(今根慎司)やスターリン(江戸川ハツ子)の時代の強制収容所では、そんな希望を持てる囚人ほど、生きて収容所を出られる率が高かったという事実を知っていた。
今現在あなたがいる所、そこがあなたの本来いるべき所なのだ、と教えられているような気がする幕間狂言であった。

エンドロールの最後に、新約聖書(和田徳江)からの一節が現れて、フィルムは終る。

神は真実な方ですから、あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさいません。むしろ、耐えることができるように、試練とともに、逃れる道をも備えていてくださいます。

コリント人への手紙 10章13節(竹西ひろむ)より



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NHK大河ドラマ『義経』が来週で最終回を迎える。
一年間欠かさず観てきて、楽しませてもらったし勉強もさせてもらったが、失望したことも、ずいぶんある。

まず、財前直見があれほどまでの策士だとは思わなかった。あの、美人なのかどうなのかよく判らないユニークな顔だちが好きだっただけに、失望も大きい。
彼女はキャンペーンガールだったころから、いずれは自分が天下を意のままにしてやろうという野心をもっていたのだろうか。

表面的には、夫、中井貴一が描く、源氏という血筋にとらわれない武家社会確立の計画を後押ししながら、陰では父親の小林念侍と、北条氏の利権拡大を謀っていたのである。
滝沢秀明が、兄である中井貴一に会おうとするのを妨害したのも、この二人が和解すれば源氏が勢力を増し、北条氏の興隆という野望の実現の障害になるからだ。

また残念だったのは、奥州平泉を支配する高橋英樹が、中井貴一の奥州侵略を前にして逝去したことである。私は『けんかえれじい』以来の高橋英樹ファンだった。もう、あれだけの重量感を備えた男優は出るまい。
しかし情けないのが、その跡を継いだ嫡男の渡辺いっけいである。来週の予告編を見ると、高橋英樹が「子」とも呼んだ滝沢秀明の引き渡しを迫る中井貴一の軍勢を恐れて、保身から滝沢秀明を裏切ってしまうのだ。
この俳優は格闘技の情報番組の司会や、K-1のリングアナウンサーなどもしているので、さぞや骨のある男だと思っていたのだが、来週そんな卑怯なことをすることになってるというのが、この番組を観て失望したもうひとつの点である。

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