エッセイでも小説でもルポでも嘘でもなんでも書きます
無名藝人




 ◯◯年に世界が滅びるといった類いの終末論は、ノストラダムスの大予言のように広く知られていたものから、新興宗教の教祖の寝言のようなものまで、これまでに数多くあったがどれも大外れだった。
 直近のものでは、例のマヤ歴だが、これも私は相手にしていなかった。 
 2012年の12月21から23日の間に人類が滅亡するとは聞いていたが、23日の前夜も、明日もこれまで通り幸福でも不幸でもない一日を送るのだろうと、何の心配もせずに床についた。
 それより、年末まで入っていたアルバイトが朝9時からで、しかも職場が遠いので6時には起きなくてはならず、寝坊したときのことの方が心配だったが、翌朝眼を覚ますと人類が滅亡していた。

 とはいえこっちにも生活があるわけで、仕事を休むわけにはいかず、いつもの通りコーンフレークとバナナを食べて家を出たが、人類滅亡の影響で、通勤に利用している南海本線の堺駅が楕円形になっていた。しかし、電車も楕円形になっていて問題なくホームに入ってきたので、つじつまは合っていた。

 それから南海本線の終点、難波で降りて、地下鉄の千日前線に乗り換えるのだが、地下鉄の駅も電車も楕円形だった。だから、今回の人類滅亡の本質は楕円なのかと思っていたら、それだけではなかった。

 千日前線の南巽という駅で降りてから職場まで徒歩13分。途中、いつもコンビニで昼食を買うことにしていた。しかし必ず買う《明太子マヨネーズおにぎり》が早々と売り切れていて、やむなく《たらこバター醤油おにぎり》を買わなければならなかったのが無闇に腹立たしく、レジで支払うときも、小銭ならジャラジャラ持っているのに、わざと五千円札を出してやった。私のこの底意地の悪さも人類滅亡がもたらしたものであることは間違いない。

 職場に着いたら、まず所属している派遣会社の勤怠表に出勤時間を書き込むのだが、これも人類滅亡の影響なのか、備え付けのボールペンがなくなっていたので、人に借りなければならなかった。

 従業員の8割が女性で、冷凍食品を発泡スチロールの箱に詰めてラベルを貼り、残り2割の男性が、コンベアに流れてきた商品を結束機で縛ってトラックに積み込む。ところがその日は女性が9割になっていた。しかし男性は2割のままだったから、全体で11割いたことになる。こんな形でも影響が表れていた。

 午前の仕事が終わって昼休み。作業場の階上にある休憩室で、レジ袋から朝買ったおにぎり2つと《おいしい牛乳》の180mlパックを取り出して食べていたら、真冬だというのに、腹立たしいまでに血色のいい太ったおっさんがテーブルの向かいに座って、同じようにレジ袋から食べ物を取り出した。見ると、その中に、私が買えなかった「明太子マヨネーズおにぎり」が5つもある。
 朝、このデブが買い占めて、店員が補充する直前に私が店に入ったのだろう。このあたりは単にタイミングの問題なのか、人類滅亡が絡んでいるのか、今でもわからないままだ。


 独居の身なので、正月はひとりで福笑いやカルタ取り、双六などをして過ごした。幸い大阪の三が日は晴れ。寒さも和らぎ、のどかな日々だった。窓の外を見れば、あちこちで凧が上がって紙の尻尾をはためかせている。子供たちが道端でコマを回したり餅を食べたりしている。そんな見慣れた正月風景だった。

 三が日が過ぎても仕事がなく、しかも地デジ移行以来テレビが映らなくなっていてすることがないので、ベランダの物干し竿を何時間も眺めていたら人類滅亡から電話が入った。
 その名前を聞いたときは私も構えたが、世界中の、固定電話機を持っているすべての世帯にかけていると言うので、なぜか少し安心して話に耳を傾けてやった。

「ひでえ誤解なんだけどさ、俺たちとしては人類を滅亡させるつもりは全くないんですよ。それをご理解いただきたいと存知まして、電話したんだよ」
タメ口と敬語が交錯する不思議な言語を操る人物だった。

「と申しますのも、私、周囲の方々からは、つとに《じんるいめつ坊》の愛称で親しまれ、変わらぬご愛顧を頂いてるんだぜ。これからもお引き立ての程、よろしゅう頼むけぇの」
 広島弁も使うらしい。

「人類を滅亡させる気がないのなら、どうして人類を滅亡させたんですか?」
「そういう仕様になっておりまして」
「しかも、固定電話のある世帯限定というのがわからない」
「それも仕様なんだって」
「世界中に電話って、あなたたちは何人いるんですか?」
「だけぇ仕様だじゃ、言うとるがい!」
 どこの方言かわからなかった。

《仕様》を盾に取られては言い返すことができない。《仕様》は無敵だ。問答無用だ。論理を超越している。
「この間この店で買った熱帯魚、ただのメダカじゃないの!」
 と客がねじこんできても、微笑みながら、
「そういう仕様です」
 と言えば、それがどんなに厚かましいクレーマーでも引き下がる。

 なんとか責任逃れをしようとする人類滅亡の態度に私は思わず声を荒げた。
「じゃ、滅ぼされた僕らはどこに不満をぶつけたらいいんだよ!」
「そんなもん、マヤ歴に聞いてよ!」
 一方的に電話を切られてしまった。

 言われてみれば確かにそうだ。マヤ歴なんてものがあるから、われわれは滅亡したのだ。だからマヤ歴を作った人間を糾弾すべきなのかもしれないが、すでに人類が滅亡した今となっては責任者を吊るし上げたところで詮無いことだ。


 松の内を過ぎて、楕円形になっていた電車はもとの逆三角形にもどり、茶褐色だった空も黄土色にもどった。
 人類が滅亡してからまだひと月にもならないが、街は殺気を取りもどし、人びとの表情にも、人類滅亡を感じさせないほど狂気が溢れている。

 次回の人類滅亡はいつかわからない。マヤ歴にもとづいた人類滅亡の年は、ほんとうは2015年だという説もある。
 だから、今回人類が滅亡したのは何かの手違いで、2015年に正式に滅亡するとしても、われわれ人類にはこの貴重な経験を生かす智慧があり、同じ轍を踏むことはないだろうと信じる。

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 男は毎日、自宅マンションのバルコニーの手すりから上半身をのり出して、30メートル下を走っている道路のアスファルトを見つめながらあれこれ思案しては、ため息をついていた。男は投身自殺を企てていた。

 自殺を決意してからもうひと月経つ。身辺整理もとうに済んでいる。
 残るは、バルコニーの手すりに立ち、体が地上に落下するように重心を移動するという単純な動作をするだけだ。後は引力という神の法則が責任をもって彼をアスファルト上で叩き潰してくれることになっているのだが、その単純な動作にどうしても踏み切れない。
 特に梅雨入りしてからは、灰色の容器のなかに密閉されているような強迫的な気分に毎日悩まされて、今日こそ何もかもお終いにしてやろうと、実際、手すりの上に立ったことも何度かあるが、いつもそこまでだった。

 その日は大雨だった。しかしふと、あそこなら実行できるかもしれないと思い、車で高速を飛ばして「名所」に行ってみたが、《考え直せもう一度》と書かれた立て札にしがみつきながら、はるか崖下で岩に砕け散る大波を見て足がすくんだ。
 まったく、こんなもの凄いところによく飛び込めるものだと、ここから身を投げた人びとの霊にすがるような気持で訴えかけた。
「僕を、そっちに連れて行ってください」

 翌朝、男は目覚めるとバルコニーに出た。
 爽快な梅雨晴れだった。前日の大雨のおかげで、遠くの山々の襞が数えられるほど大気が澄んでいる。
 あるがままの世界がこんなにも美しく、慈愛に満ちたものだということにこれまで気づかなかった。
「僕はなんて無意味に悩んでいたんだろう」
 男は、L・アームストロングの声色を真似て『この素晴らしき世界』を歌いながら手すりに上り、朝日を背にして立った。そして大草原のクッションの上に倒れ込むような幸福と興奮を感じながら、全身を引力にゆだねた。

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