エッセイでも小説でもルポでも嘘でもなんでも書きます
無名藝人




 31歳から1年間、オーストラリア(シドニー)で過ごした。他に、短期旅行として、ニュージーランド、タイ、アメリカ(ニューヨーク)にも行ったが、好き好んでそれらの国に行ったわけではない。

 いまわの際、「ああ、若い時に海外生活を経験しておけばよかった。俺はもっと視野の広い、コスモポリタンな人間になっていたかもしれなじゃないか。そして、《コスモポリたん》というキャラをヒットさせて、大儲けしていたかもしれないじゃないか……」

 と、未練を残したまま死んで成仏しきれず魂魄この世にとどまりて……を未然に防ぐために行ったのであるが、結局、コスモポリタンにもポリタンクにもならず、仕事を辞めてまで行く必要はなかったというのが結論である。


 国際感覚を身につけることのできる人は、観光旅行しても身につくだろうし、できない人は外国で一生暮らしても身につかないような気がする。

 明らかに、私は後者に属する人間である。そもそも外国には関心がなかった。十代の頃だったか、父親が「金は出してやるから、外国旅行してこい」と言ってくれたのを、なんだか面倒くさくて、断ったことがある。

 今でも、外国旅行するならどこに行きたい? と聞かれるのが煩わしくて、台湾とか韓国とか、近場でいいんじゃない、安いし、なんて飲み屋でも物色するような調子ではぐらかしている。

 こんな男が外国に行ったところで、貴重な何かを学んでくるとは思えない。


 人間の行動や志向を、ざっくりと、遠心的なタイプと求心的なタイプに分けてみる。

 外洋に向かって足を踏み出し、めっちゃ見聞を広め、外国人の友達をめっちゃ作って、外国語がめっちゃ巧くなって、めっちゃ帰国して、めっちゃめちゃにする、といったような行動は、遠心的な人びとのものであって、求心的な人びとには向いていないから真似をすべきではない。時間と金の浪費である。

 求心性を保ったまま外国に行っても得られるものは何ひとつない。それは、豪華客船クイーンエリザベスで世界中の港を巡りながら、船からは一歩も出ず、日がな一日カジノで遊んでいるようなものだからだ。

「ほらほら永吉はん、ウランバートル港に着きましたえ。たまには船降りて、観光してきやはったらどないどす?」

 カジノでルーレットを回していた祇園の芸妓、まめ里が、体当たりしてきて私を船外に撥ね飛ばしたので、私はタラップをごろごろと転げ落ち、顔面をしたたか打って鼻血をだらだら流しながら周囲を見渡した。

 海のない国、蒙古の首都ウランバートルには港もないので、沖仲仕も、船員相手の曖昧宿も見当たらない。

「これのどこが港なんだ……いや待てよ。これこそが真の港の姿なのかもしれない」

 そういえば、沖仲仕も曖昧宿も、まだこの目で見たことはなかった。それらはすべて、書物から得た知識に基づいた私の思い込みかもしれないという疑念が生じ、私は事実を確かめるために、港周辺を歩き回った。

 すると、貨物船のそばで、沖仲仕たちが一塊になって地面に坐り込んで一服しているのが見えたので、近づいて尋ねた。

「一体全体、ここに沖仲仕はいるのでしょうか?」

 それを聞いたひとりが吹き出すと、みなが蒙古語で笑い出した。

「いないよ。港でもないところで沖仲仕になんの用があるってんだい?」

 頭領らしい男がそう言うと、沖仲仕たち全員が立ち上がって貨物船に戻り、荷運びを始めた。

「曖昧宿なんてのもないんだよ、この、タコ!」

 背後で蒙古語の罵声が聞こえたので振り返ると、厚化粧が逆に年齢を露呈させていることに気づいていない、六十くらいのミニスカートの女が、なまめかしい笑顔で怒っていた。

「曖昧宿じゃないとするなら、あなたの後ろの、軒に赤いランプが灯っている家は何なんですか?」
「港でもないのに、船員相手の曖昧宿なんかあるわけないじゃないか、この、うすら馬鹿!」
「で、あなたは何なんですか?」
「そんなに曖昧宿が好きなのかい、この、ヒヒ親爺!」

《タコ、馬、鹿、ヒヒ》と、動物で統一したセンスには舌を巻いたが、この女と話をしてもムダだと思ったので、さっさとクイーンエリザベスに戻ってカジノで遊ぼうと踵を返した時、ふと、この光景をかつて見たような気がした。

 その瞬間、何十年間も意識下で眠っていた記憶が、昨日のことのように鮮やかに甦ったのだった。


 小学生の頃、火星が最接近するというので、それを観察したくて両親にねだって、子供向きの顕微鏡を買ってもらったことがある。

 最接近の夜は幸い晴れで、アパートのベランダから空を仰ぐと、小さな、しかし明らかに火星とわかる赤い星が浮かんでいるのが見えた。私はさっそく顕微鏡を三脚に固定し、火星の方向に向けてレンズを覗き込んだ。

 視度調整リングを回してピントを合わせると、火星の表面がくっきりと見えた。倍率を上げると、火星の素材であるポリ塩化ビニルの分子が姿を現した。

「父さん、火星の分子が見えたよ!」
「そうだろう。もっと倍率を上げてごらん」

 父に言われずとも、昂奮していた私はダイナミックに倍率を上げて、塩素原子のなかに入っていった。

「いま、何が見えてる?」
「あ!」

 原子の中心に原子核はなく、そのかわり、貨物船のそばで荷物の積み降ろしをしている男たちと、軒に赤いランプを灯した家の前に立っているけばけばしい装いの女たちが、自然界の四つの力(重力、電磁気力、強い力、弱い力)で結びついていた。

「それ、何だかわかるかい? 沖仲仕と曖昧宿だよ」
「オキナカシ、アイマイヤド……なにそれ?」
「はは。大人になったらわかるさ」

 そして父は、私の頭を撫でながら、こう言った。

「お前が、望遠鏡じゃなくて顕微鏡をねだった時、ひょっとしてこれはと思ったんだけど、やっぱりそうだった。お前は立派な求心的人間だ」

 私の家族は両親も弟も妹も、そろって求心的人間だったので、家族みずからの重力によって収縮し、一両日中に家ごと白色矮星となる運命にあることを、皆すでに知っていたはずなのだが、誰もそれを口にしなかった。それが求心的家族の宿命だと本能的に知っていたからかもしれない。南無阿弥陀仏。

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 最近新聞で、女性が意味ありげな眼差しでこちらを見つめている製薬会社の広告をよく眼にする。《家内も驚く、男の活力、きた》というコピーからして、見つめている相手は夫という設定だろう。

 小学校と中学校の子供たちをいま送り出したところ。出勤前の夫も朝食をすませ、新聞を読みながら食後のコーヒーを飲んでいる。ふと視線を感じて顔を上げると、自分を見ている妻の眼があった。

 妻は、前夜のベッドでの夫の振る舞いを思い出していた。どうしちゃったんだろうこの人、急にあんなにスゴくなっちゃって、だったら今夜も、あんなとことやこんなこと……ああ夜が待ち遠しい、ぐへへへ、と、処女のような恥じらいに頬を赤く染めている。ま、そんな趣のある広告である。

 この広告をウェブサイトで見つけて、女性の画像を「イメージを新規タブで開く」で開いたら、でかい写真が現れた。う、うれしい。

 この女性にこの表情で見つめられたら、不如意をかこっている夫はみな、広告の内容もろくに読まずに、新婚時代よふたたび、と《購入はこちら 送料無料》をポチるはずだ。

 私の妻の伸枝(私は独身なので妻はいない)は、今年75になるが、それでもこんな眼で見られたら、当然私もポチって……6,000円(初回限定)か……しばらく考えてみたい。

 ところでこの女性、朝の忙しい時、ガキと亭主にエサ喰わせなきゃならんのに眉毛描いたりブラッシングしたりやってられるか、てな感じの大雑把な身仕舞が生活感を漂わせている。

 しかしこの飾らない生活感こそが、巧まざるセクシュアリティの源泉となるのである。

 アイシャドウ、アイブロウ、アイボール(※)といったツールを用いればセクシュアリティを演出できるのは、当たり前っちゃ当たり前だ。しかし、長年連れ添ってきて異性として見なくなっていた妻、すっぴんで髪を後ろで束ねているだけの妻が、ふと見せる女性性。これほど堅固なセクシュアリティはない。

※アイボール(eyeball)は目玉を意味する英語であって、化粧品ではない。たんに語呂合わせがしたかっただけだ。

 このブログを書きながら、私はいますぐにでも、長年私といっしょに暮らしてきたために、異性として見られなくなってしまっている女性を見つけ出して結婚したくなった。


 私がなぜ女性の色気について書いたのかというと、ガンは切った方がいいのか切らない方がいいのかはっきりしてほしいからだ。冗談で言っているのではない。両親ともガンだった。私も100%ガンになるのだ。

『がん放置療法のすすめ』(近藤誠著)のように、ガンは切るな、放置しろ、医者を信じるなと主張する一連の本がある。それに対して、『医療否定本の嘘』(勝俣憲之著)など、そんな話は信じるな、手術をして寿命を伸ばした人たちもたくさんいる、と警告する本もある。

 私はこれらの本を一冊どころか一行も読んだことがないが、いずれも著者はれっきとした医学者である。われわれは専門家の言うことを信じるしかない。その専門家の間で正反対のことを言われたら、素人はどうすればいいのか。

 政治も同じだな、と思う。野党の言うように、アベノミクスはすでに破綻しているのか、それとも安倍首相の言うように、まだ「道半ば」であって、長い目で見るべきなのか。政治経済の専門家たちの百家争鳴に、われわれ素人は右往左往するしかない。

 自分の生活がアベノミクスの恩恵を受けているという実感がまったくないと思う一方、すぐに結果が出ないから失敗だと決めつけていては、長期的視野に立った政策はいつまでたっても実行できない、とも思う。結局わからない。

 最終的には自分自身の判断を信じるしかない。そしてその判断の根拠は「美」であるべきだ。立候補者の公約だけでなく、その話し方、表情、趣味、年齢、学歴職歴、血圧などから得られる綜合的な美しさに基づいて、誰に清き一票を投じるかを決めるのが最も賢明な方法である。


 そんなわけで、ガンの対処の仕方として最も適切なのは、放置することだと気づいたのであった。なぜなら放置は美しいからだ。放置することから生まれる美しさ、それは「放置美」と呼ばれる。冒頭で述べた広告の女性の性的魅力も放置することで得られた放置美なのである。

 いま住んでいる堺市から、ガン検診や健康診断などの案内がときどき届く。たいして費用がかからないので受診しようかどうしようか、いつも迷っていたが、これからはゴミ箱に直行させることにした。

 ガンが見つかってもどうせ放置するのだから、受診しに行くだけ時間とお金のムダだ。それに、ガンに冒されているとわかって放置するよりも、知らないで放置している方が美しいし、放置しておけばいつの間にか治っているかもしれない。

 パソコンの不具合だって、放置していたら自然に直っていたなんてこともある。人間が治らないはずがない。


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● なすがまま

 新聞の写真やニュース番組の映像で、大規模な自然災害の被害状況を見るたびに、浮かぶ言葉だ。

 東北の深傷もまだ癒えないというのに、それに飽き足らず、今度は九州に深傷を負わせる。地震だけではない。津波、台風、豪雨、火山の噴火など、まさに自然のやりたい放題。

人間「こんなに建て込んだところで地震を起こされると、大災害になります」
自然「どこで起こそうが、わしの自由だ。指図は受けん」

人間「高齢者や子供や障碍者もいるんですよ」
自然「知らん。わしはわしのしたいようにする」

人間「原発があるんですけど」
自然「それはそっちの都合だ」

人間「家も財産も失くした人たちはどうやって生きて行けばいいんですか?」
自然「そんなこた自分らで考えろ」

 頑迷固陋な老人と変わらないが、ひとつだけ違うのが、自然には悪意も善意もないということだ。

● A bull in a china shop

 周囲の迷惑を顧みない乱暴者を意味する英語の諺である。直訳すると、「瀬戸物店にいる雄牛」。

 壊れやすい陶磁器がびっしりと並んでいる店に、牛さんが巨体を揺らしながら入って来たら、店員は気が気ではないはずだ。人語は通じない。追い出す力もない。頼むから、おとなしく寝ていてくれと祈るしかない。

 しかし、牛さんには牛さんの都合があって、寝てばかりいるわけにはいかないから、店の中をのたりのたり歩き回ることもあるだろう。たまたま角の先が陶磁器に触れて、陳列棚から二、三枚落として割ることもあれば、胴体が当たって、棚を倒してしまうこともあるだろう。

 無論、牛さんに悪意はない(と思う。動物に悪意や善意はないと証明することができない限り、この結論は留保すべきだが、そんなこと言ってたら先に進めないので、こういう問題は無視する)。

 牛さんにしてみれば、高価な陶磁器が並べられている棚も、牧場の柵も変わりがないのだ。ちなみに私は、Amazonで買った、千円足らずの腕時計を使っているが何の不都合も感じない。腕時計ごときに何十万もつぎ込む人の神経が理解できない。多分、私の実体は牛なのだろう。

● 自分地震

 人間にとって最も身近な自然といえば、自分自身である。人間と自然を相対するもののように考えがちだが、人間も自然から生まれたのだから、自然の一部である。脳髄も含めて人間の体は大地であり、魂はその上に住む、名もない何かである。

 好き好んでガンになったり心筋梗塞を起こしたりする人はいない。するしないの選択が許されないのだから、疾病も自然災害である。

 われわれは、いわゆる自然災害だけでなく、《自分災害》にも備えなければならない。しかし備えるといっても、自分自身のなかに震源を持つ《自分地震》は避難する場所がない。

 もう三十年ほど前のことだが、下腹部が、マグニチュード7.6の自分地震に見舞われたことがある。腸捻転かと思って、正露丸(旧称・征露丸)をたらふく喰ったが、まったく効果がない。ちなみに、腸捻転に正露丸は効かない。

 下っ腹をあちこち圧してみると、どうも盲腸あたりに震源がありそうなので、ひょっとしたらと外科で診てもらったら、やはり虫垂炎で、翌日ぶった切った。

「ほらこれ」と、膿盆に載った自分の虫垂を執刀医に見せられたが、三十年も連れ添ってきたのに初対面という奇妙な関係にある相手にどういう言葉をかければいいのかわからず、われわれは気まずい雰囲気のなかで言葉も交わさずに別れた。

 もうひとつの自分地震は朝にやってきた。目覚めると、左側の腰に違和感があるので、起き上がって左脚をさすると、長時間正座した後のように、皮膚感覚が鈍麻している。そこで立ち上がろうとすると、経験した者しか解らないだろう痛みが左脚を爪先まで貫いた。

 いわゆる座骨神経痛で、二週間ほど、ほぼ寝たきりになったが、そのタイミングを狙ったかのように、身内の金銭トラブルに巻き込まれて、激痛に唸りながら、パソコンで必要書類を作ったのを思い出す。

 それから七~八年経った今でも、たまに余震に見舞われる。左側の腰に少しでも違和感を覚えると、右側に体重をあずけるような体勢をとって、だましだまししながらなんとか仕事をしている。

 まったく、自然の「なすがまま」。

人間「ソバなんかでアレルギー反応起こして死ぬ人がいるんだよ」
自然「アレルギーとは、体内に入ってきた抗原と闘う免疫反応なのです。死のうが生きようが、生体を護るために断乎闘う覚悟であります!」

人間「列車の脱線転覆事故で心身ともに傷ついてるのに、そんな体験をフラッシュバックで甦らせるって、ムゴいと思わない?」
自然「同じ被害に遭わないようにすべく、不快な体験ほど記憶に残りやすくし、警戒しております!」

人間「すでに子も孫もいるから、もう生殖行為をする必要はないし、それに高齢で男の器官が機能しなくなってるのに、なんでこういつまでも性欲につきまとわれなきゃならないんだ、おい」
自然「退役してからも、種を絶やさないために予備役として性欲は常に装備しておかなければなりません! 個体は種に奉仕しなければなりません!」

 融通の利かない軍人のようだ。

● 天災バガボン

 自然物であるところの人間が作ったものであれば、エアコンであれ自動車であれ核兵器であれAdobe Photoshopであれ、みな自然物である。「人工物」「人災」などというのは便宜上の言葉でしかない。

 政治の世界も同様。トランプ現象も自然現象。大金持ちの素人政治家が、アメリカという絶大な国際的影響力を持つ国家の最高指導者になって自国を破滅させようと目論んでいるが、それが実現してアメリカが破滅し、日本も道連れになったとしても、それは自然災害、あるいは神仏の意志なのだから、もうそれでいいのだ。

 これでいいのだ~これでいいのだ~
 梵梵薄伽梵薄伽梵梵
 天災一家だ~薄~伽梵梵!

 ――「天災バガボン」オープニングより(薄伽梵=バガボンは仏の称号)

 私は裸で母の胎から出てきた。
 また裸で私はかしこに帰ろう。
 主は与え、主は取られる。
 主の御名はほむべきかな。

 ――旧約聖書ヨブ記一章二十一節より

 あらゆる物事はみな最善である。

 ――ゴットフリート・ライプニッツ

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 60歳を迎える誕生日までにはまだ10日ほどあるが、60歳になっていないと、今回の内容がすべて作り話になってしまうので、とうに誕生日を過ぎていることにする。


 最近、「還暦」という言葉が鼻につくようになった。年齢を尋ねられて「もう60ですよ」と答えると、決まって「おや還暦ですか」と返されるのはもううんざりだ。生きているのがイヤになる。死んでしまいたい。死んだら火葬にせず、モグラ君や微生物君たちの餌、土壌君たちの養分にしてもらえるように身ぐるみ剥いで土中に埋めてほしい。

 3月といえば還暦のシーズン。還暦ビジネスも書き入れ時。近所の商店街にある還暦ショップが特売をしていた。赤い頭巾とちゃんちゃんこ、それに扇子を束ねて「還暦セット」として、¥150。

 人生で一度(120歳まで生きれば二度)っきりしか使わないのに、強烈な安さに目が眩んで心神耗弱状態に陥り、気がついたら50セットも買っていた。

 誕生日の朝。独り住まいの自宅で頭巾を被って、ちゃんちゃんこを羽織って、扇子を手にして座布団の上に坐ってみた。

 1時間ほどそうしていたが何も起きない。還暦になったら、自動的に祝ってもらえるものと思っていたのだが、いつまでたっても祝ってもらえる様子がない。

 せっかく座布団の上で扇子をもっているので、誰もいない空間に向かって落語など披露したりしながら9時間待ったが、結局なにも起こらなかった。

 失望に続いて憤怒に駆られた私は、頭巾とちゃんちゃんこを引き裂くようにして脱ぐと、便器に叩き込んで水を流した。おかげでトイレが詰まって業者を呼ばなくてはならなくなった。

これが還暦の実態なのだ。


 還暦はどうでもいい。

 時間というのは底意地が悪い。 
 アレもせにゃならんコレもせにゃならん、ああ時間がないと嘆いていると、アレもコレもできないうちに一日を終わらせてしまうくせに、真冬の停留所で、震えながらバスを20分間待つとなると、この腕時計止まってんじゃないのかと腕を振ってしまうほど経つのが遅い。ちなみに、最近の時計はゼンマイ仕掛けじゃないから振っても意味がない。

 しかし、いつの頃からか、炊飯器で飯が炊きあがるのがやけに早く感じるようになっていた。故障したわけではない。食べるとちゃんと炊けている。腹ぺこで炊けるのを待つのは辛いから、時間の経過を速く感じるのは結構なことなのだが、これが炊飯以外のことにも現れてくると、時として脅威となる。

 60を過ぎると、朝日が、動画を見るようにずんずん昇っていくのがわかるほど時間の経過が速く感じられるようになる。しかし、そんな調子で一日が終わり、人生の残り時間もずんずん減っていくのかと思うと、焦りに似た恐れが涌き上ってくる。

 銀行のATMで現金を下ろす時、ディスプレイに残高が表示されるが、私はよそを向いてそれを見ないようにしている。預金が減るのを見るのが怖いからだ。
 それと同じように、時間という、決して増えることのない預金が刻々と自動引き落としされていくのを実感するのは怖いものである。

 残高がゼロになるのが怖いのではい。なんなら今日にでもゼロになってくれればありがたい。まだ手をつけていない確定申告の書類作成も、壊れた冷蔵庫を粗大ごみ置き場まで引きずっていくことも、食べるためにやむなくしている仕事のために早起きをすることも、なにもかも、面倒なことも楽しいことも洗いざらい放擲して、あの世で楽隠居できるのだから。

 怖いと感じるのは、自分はこの歳になるまで何をしていたのだ、という後悔と自責の念が、残高ゼロに近づくに従って苛烈の度を増すからなのである。

 先日、食事中に妻(独身なので妻はいない)にこの話をしてみた。

私「ああ、俺、いままで何しとったんやろ」
妻「またその愚痴かいな。はよ食べてぇな。片付かへんやろ」
私「いろんなもんに手ぇ出しすぎて、結局どれもこれも中途半端や。このまま中途半端な余生送って、中途半端に死ぬんやろか」
妻「中途半端な死に方て、どんなんやねん」

私「まだ胸中にくすぶってる希望の火は消して、《生きるために生きる》に徹するのも悪ないなぁと最近思うようになってきたんや」
妻「もう食べへんねんな? ほな片付けるで」

私「だいたい、生きてるだけでも大変やのに、それを60年も続けるて、ちょっとした偉業とちゃうか? そや、例えばボクシングの世界戦でやな、チャンピオン相手に12ラウンド、一歩も退かんと全力で闘ったら、そんだけで充分に偉業やろ。たとえ負けても悔いは残らんと思うんやけど、どや?」
妻「あんたは一歩も退かんと全力で闘ってきたんかいな。はい、お茶」
私「それ言われると辛いな。もう少しで自己正当化できるとこやったのに……」

妻「人生に満足するためには、《偉業》が必要やねんな? あんたには」
私「お前は満足してんのか?」
妻「してへん。けど、不満もないわ。人生には一本道しかないやん。同時に二本の道は歩かれへん」

私「ほう。君は運命論者なんだね。でなきゃ決定論者?」
妻「好きなように呼べばいいわ。あなたはどうなの?」
私「僕は違う。だからこそ自分を責めてるんじゃないか。変えることができたはずの運命を変える努力をしなかった、ってね」
妻「愚かね。因果律、つまり世界は原因と結果の連鎖から成っているの。だから意志の自由なんてないのよ」

私「……そうか。そない考えといたら、自分を責めんでも済むわけやな」
妻「そやろ。どや?」
私「なんかしんどいわ、この会話」

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 万物を存在せしめている究極の物質、それはゼニ。原子核を構成する素粒子は陽子と中性子。さらにそれらを構成しているのが、つまりゼニだ。

 物々交換の時代、素粒子を構成していたのは、魚や野菜だったが、人類が貨幣経済を採用するようになり、買う、という行為がゼニなしには成り立たなくなって以来、究極の物質はゼニに統一されている(統一場理論)。

 ゼニが潤沢にあれば何でも買える。豚肉もタマネギも洗濯バサミもメンソレータムも。何であろうが三千世界に買えないものはひとつとしてない。

 反対に、ゼニがなければ、シャネルの財布もランボルギーニ・カウンタックも買えない。ビバリーヒルズにも住めない。フリーメイソンにも入会できない。

 ゼニがあるかないかで、桃源郷に遊ぶか、苦海を果てしなく漂うかが決まってしまうのである。
 その事実を目の当たりにすると、究極の物質がゼニであるという結論が必然的に導き出されたことは何人たりとも認めざるを得ないだろう。


 ところが、あちこちで、闘魂を注入するためと言っては無辜の民を張り倒しているアントニオ猪木が所属する政治団体「日本を元気にする会」のなかにおいては、究極の物質は「元気があれば何でもできる!」なのである。
 その一方で、アントニオ猪木を会長とする、IGFプロレスリングのなかでは、究極の物質は「イノキボンバイエ」ということになっている。

 究極の物質がゼニだったり、元気があれば何でもできる!だったり、イノキボンバイエだったり、いろいろあっていい。究極の物質の自由は大宝律令(701年制定)で保障されている。

「みんなちがって、みんないい」(金子みすゞ)


 論理的には、「最強」が複数存在することは不可能である。しかし現実世界では共存している。
 たとえば最強であるはずのプロボクシングの世界チャンピオンが、フライ級では、現在のところ四人もいる。これは、世界王座認定団体が四つ(WBA, WBC, IBF, WBO)もあるからだ。

 最強、つまり一番なのだから、チャンピオンはひとりでなくてはならないところだ。
 しかし、四人の《一番》を核融合させると、《一一一一番番番番》という素粒子構成による原子核をもった物質が発生し、四人の一番の共存を可能にしているのである。

 それと同じ状態で、共存し得ないはずの、たとえばキリスト教やイスラム教といった一神教がのうのうと共存している。
 論理は人間の脳味噌のなかでこねくり回したものだが、現実は峻厳な自然の法則によって、製造から出荷まで一元的に管理されているのだ。

 宇宙を構成する究極の物質が、人や団体によって異なっていても、それら相矛盾する《真理》を包容するだけの広大無辺な器をもった自然の摂理に最終的判断を委ねるのが賢明というものであるが、これは本論とはまったく関係がないので、すっかり忘れていただいて結構である。


 Money Makes The World Go Round

 これはメリケンだかエゲレスだかの諺で、直訳すると、カネが世界を回す。日本の諺でこれに相当するのは「地獄のサタンも金次第」ということになろうか。

 サタン。しかも巷で見かける、ちょいと小粋系のサタンではなく、地獄に棲んでいる系のサタンとあれば、その無慈悲なること極まりなし。そんなサタンでもゼニには心を動かし、亡者への責め苦にも手心を加えるというのだから、原子物理学の観点からは、やはりゼニが究極の物質であるとしか考えようがない。


 ザ・ビートルズ Money(邦題「ゼニ」)
 ピンクフロイド Money(邦題「ゼニ」)
 アバ Money, Money, Money(邦題「ゼニゼニゼニ」)
 リトル・リチャード Jenny, Jenny(邦題「ジェニジェニ」)


「金儲けは悪いことなのですか?」

 正確な文言は忘れたが(だったらググれよ)、村上ファンドの創設者である村上世彰が、かつて記者会見でそう言って記者に問い返した。

 ゼニのおかげで生きていられるくせに、1円でも多くゼニを欲しがる人間を浅ましいと思うのは、生殖行為によって生を授かっておきがら、セックスの話をする人を軽蔑するようなものである。

 個人的に貸した金を、返してくれ、とはどこか言いにくい。さっさと返せよコノヤローと呪いつつ、他人の耳のないところでも小声で、

「この間、ご用立てした分ですが、あれはどうなってますでしょうか?」

 と、申し訳なさそうに尋ねる。

 なんで、金を貸してやった、いわば助けてやった方が下手に出なきゃならんのか? 
 それは、日本的な奥床しさと、ゼニは卑しいものという観念との核融合によって生じた物質が、返済を求める意思表示に必要な物質を中和してしまうからなのである。

 お金が欲しい(惜しい)と思う気持ちは健全な物質である。明日までにゼニ返せなんだら、あんたの娘にウチの店で働いてもらうで! と笑顔で恫喝できる社会。それこそが、凋落の一途にある日本経済を再生させるために、なくてはならない物質なのだ。


 そんな社会を実現させるためには、まず、お金にまつわるネガティブな慣用語を、ポジティブで建設的な意味を持った言葉に誤変換することから始めなければならない。

・守銭奴 → 腫鮮度……悪性腫瘍の鮮度を保つこと。

・金権政治 → 近県政治……近県の政治のこと。 

・拝金主義 → 背筋主義……男性の胸筋よりも背筋に惹かれる女性のこと。

・金の切れ目が縁の切れ目 → 金の切れ目が円の切れ目……日本では、金がなくなれば円もなくなるという自明の理を再認識させてくれる警句。

・銭ゲバ → 銭ゲイバー……ゼニを出さなければ飲み食いすらもさせない悪質なゲイバーのこと。

・金に目が眩む → 金に目がクラムチャウダー(意味は適当に考えてください)


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