エッセイでも小説でもルポでも嘘でもなんでも書きます
無名藝人




 未来の日本史の教科書がどうなっているのか、ぼくは知りたくて知りたくてしかたがないんですよ。いつも死にたいとか言ってますけど、未来の日本史の教科書が見られるのなら、あと百年くらいは生きてもいいんじゃないかって思ったりなんかしてるくらいなんです。

 みなさんご存知の通り、鎌倉時代とか室町時代とか江戸時代とか、時代の名称は基本的に、幕府がおかれた都市の名称と一致します。でも明治維新以降は単に明治、大正、昭和、平成と、元号で呼ばれるだけで、これらを一括して「◯◯時代」とは呼ばれていません。
 政府がおかれる都市が同じとはいえ「江戸」から「東京」という名に変ったのだから、将来の教科書では「東京時代」と呼ばれるかもしれませんね。でも、ぜんぜん芸のないネーミングですよね。ま、時代の名前で芸を見せてもしかたないんですけど。「この時代の名前、ごっついおもろいがな」って未来人を楽しませてもしょうがないんですけど。

 明治維新からもう140年以上経ちましたよね。あの室町時代だって、だいたい100年間でしたから、そろそろ、時代が変ってもいいんじゃないかと思うんです。このところ、中国企業の日本買いが絶好調なのを考えると、近い将来、中国が日本を併合してくれるでしょうから、日本が中国の領土だと国連で承認してもらえるまでを区切りとして、維新以降の時代の呼称を決めればいいと思うんですけど、どうでしょうか。まあ最終的には中国が決めることですから、日本人が悩む必要はありませんけどね。

 ところで、時代の呼称ってどこのどいつが考えてるんでしょうね。これも知りたくて知りたくてしかたがないんですよ。例えば「江戸時代」と命名した人、あるいはその呼称を公式なものとして承認した人が必ずいたはずなんです。名前が勝手に湧いてくるわけないんですから。
 それは調べれば判ることなんでしょうけど、面倒くさいから調べたくないんですよ。かかりつけの占い師に占ってもらうと、命名した人の名前は「せ」で始まるということなので、「せ」でググってみたら、106,000,000件もヒットしちゃって、ぼくはもう完全にいやんなっちゃってるところなんです。ぼくは怠惰の権化のような人間なんですから、誰か教えてくださいよ。知っている人が知らない人に教えるのは、人としての義務なんですからね。
 ちなみに、余計なお世話かもしれませんけど、たとえば1,000年後の学校の生徒たちは憶えなきゃならないことが多くて大変でしょうね。特に歴史の教科書なんか、厚さが30cmくらいになってるかもしれません。昭和に生まれてほんとによかったと、胸をなで下ろしているところです。



 ところで昔の人間は、自分たちの時代を何と呼んでいたのだろうか。私はもうそれが知りたくて知りたくてしかたがないのだ。例えば、奈良時代から平安時代にかけて生きた人間が「いやあ、あたしゃ奈良時代の人間だから、平安の人の考えにはついていけなくてね、はは」なんて笑っていたのだろうか。縄文時代の人間が「嗚呼、縄文の世に生まれて僕は幸せだ」なんて人生を賛美していたのだろうか。
 Wikipediaの「日本の歴史」の項目では、飛鳥時代以前は、遡って、古墳時代、弥生時代、縄文時代、旧石器時代、以上四つの時代しかない。ということは、飛鳥時代の歴史学では、この四つの時代をカヴァーすればいいのだから、当時の学者はそりゃ楽だったろう。ましてや、いちばん古い旧石器時代の学者は、過去に学ぶものがないのだから、何を研究したらいいのか判らなくて右往左往したに違いない。

旧石器時代より前の日本。時代とは呼ばれない時代の日本。つまりまだ時間が始まらない世界。そのころの日本は、モヤがかかったように茫洋としていて、エネルギーだけが国土を満たしていたと考えられる。そして何かをきっかけとしてエネルギーが物質に変換された瞬間に旧石器時代が始まり、それと同時に、日本人がポンと発生したのだ。そう考えないと、何もないところにどうやって旧石器時代と日本人が出現したのか説明がつかないのである。

「おお、これはどうしたことだ。突然、私が現れたぞ!」
「私も現れた。なるほど、これが旧石器時代か。この時代に生きるのだな」
「今日は旧石器時代元年の1月1日だから、われわれが最初の日本人だな」
「……しかし、今日の記事は何が言いたかったんだろうねぇ」
「まあ、いつだって何が言いたいのか解らんこと書いとるから」
「どうやら、時代をテーマに、ひねくったこと書こうとして失敗したようだな」
「どう見ても、そうとしか考えられんじゃないか」
「まあいい。ところで、“明治時代”“大正時代”とは言うが、“昭和時代”というのは、あまり聞かんようだな」
「“時代”という尊称を得るためにはだね、君、それ相応の時間が必要なんだ。昭和はまだ評価も定まっておらんし、それに、近すぎて客観的に見ることができんのだ。軽々に“時代”と呼んではいかんのだよ」
「ほう。しかし君は、細君の話をするときに“新婚時代は”などとよく言うじゃないか。あれを軽々と言わずして何と言うんだい?」
「失敬な男だな、君も。妻を侮辱するのはやめたまえ」

発表によると、この後、ふたりの間で激しい口論となり、男はかばんの中に隠し持っていた刃渡り20cmの文化包丁で田村さんの腹部を刺したという。田村さんは意識不明の重体。警察では男の行方を追っている。

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 体調が悪いのは年中ですけど、このところ目立って悪いんです。毎年、この時期になると、花粉症ではないのだけれど、とにかく何かのアレルギーで、鼻の奥がしょっちゅうムズムズして、くしゃみを連発するんですよ。そういう時は頭がどんよりして、面白いアイデアも浮かばないし、気の利いた文章も書けません。そのうえ腰痛がまた始まっちゃって、長時間パソコンの前で座っていることができないんですよ。
 にもかかわらず、ブログを書こうと思ったのには理由があるんです。前の日、大阪の桃谷にある料理店「羊頭狗肉」でパーティがあって、ジェントルマン的な紳士たちや、レディ的なご婦人たちと、夢のような素敵な一夜を過ごしたので、今日はもうすっかり二日酔いに苦しんじゃってるからなんです。
 わたしが何を言っているのかよく分らないでしょう。すいません。つまり、いろんな肉体的苦痛のなかで、二日酔いほど創作意欲をそぐものはないんじゃないかということなんですよ。頭痛とか歯痛みたいな痛みは局所的だけど、二日酔いは頭痛とか胃のもたれとか吐き気とかだるさといった全身にわたる苦痛をともなうからなんです。
 まだ、わたしが何を言っているのかよく分らないでしょう。つまり、鼻水と腰痛と二日酔いという三重苦を背負って記事を書くことができるということを証明したいんです。どんな状況下でも、一定のレベルを維持することができるかどうかが、プロフェシオナールとアマチュールの違いだと思うんですよ。
 もちろんわたしは、これでご飯を食べてるわけじゃないので、アマチュールなわけですけど、わたしとしては自らを「潜在的プロフェシオナール」と呼んでいるんです。しかし、こんな才能のある人間をいつまでもプロフェシオナールにしてくれない世間を俺は呪い、社会秩序を破壊してやろうと思った。



 俺は手始めに、通っていた小学校の用務員で、校庭にホースで水をまいているとき、たまたま近くを歩いている生徒に、わざと水をかけるなんて陰湿なことをしていた奴を成敗してやろうと、近鉄電車で名古屋まで行った。そして学校の敷地内に侵入すると、まっすぐに自動販売機のところまで行った。小銭がないので、千円札を投入口に差し込んで商品を選ぼうとしたら、それが牛乳パックの自販機だということに気がついた。俺はタバコを買うつもりだったのだ。タバコを吸うことは、世界に対する反抗の第一段階だ。
 しかたなく俺は牛乳を飲みながら、用務員の詰め所に向かった。詰め所の前では、あの恨み骨髄のデブ用務員が、棒切れを振り回して、野良犬の集団を追い払っていた。昔からこの学校には野良犬がよく入り込んで、用務員の弁当を食べたり、校長室のソファを食い破ったり、保健室で交尾をしたり、生徒を噛み砕いたりして手を焼いていたのだ。

「おい。久しぶりだな、デブ。俺だ。憶えてるか」
「貴様か。何しに……」
 用務員が俺に気を取られたスキに、野良犬の一頭が背後から飛びかかって、脳天に噛みついたので、奴はうつ伏せにどうと倒れた。そこに他の犬たちが駆け寄ってきて、用務員の脚といわず尻といわず腕といわず食らいついて引きちぎろうとするので、奴は起き上がることもできずに、げふげふ言いながらもがくしかなかった。
「おい。助けてくれ。誰か呼んできてくれ」
「助けてやってもいいが、その前に訊きたいことがある。お前は、俺のことをアマチュールだと思っているか?」
「なんなんだ、それは? そんなことより早く助けてくれ!」
「答えろ。俺をアマチュールだと思っているのか? どうなんだ」
「わかった。認める。あんたはアマチュールだ。だから早く!」
「ばかやろう! おれは潜在的プロフェシオナールだ!」
 そう言って、俺は学校を去った。用務員の奴も、生きていれば反省していることだろう。帰途、近鉄電車の線路沿いに広がる屈斜路湖の照り返しに目を細めながら発泡酒を飲んだ。



 うーむ。座って執筆しているのがますます辛くなってきました。腰痛だけじゃありません。胃もたれと全身のだるさが、わたしを畳の上に引き倒そうとします。それに、鼻の通りが悪くて何も考えられないのですが、そんな時でも、いやそんな時だからこそ、プロフェシオナールはより鋭い筆鋒を見せつけなきゃいけないんですよ。
 過去の怨恨にいつまでも拘泥しているわけにはいかない。ましてや過去に報復することに何の意味があるだろう。俺たちは生きている限り、死ぬ直前まで将来について語る権利を持っているのだ。どんなに短い人生でも将来はある。だから俺は近鉄電車が大阪に着いても降りず、そのまま終点の群馬駅まで行った。
 俺は将来、群馬か熊本か鳥取か鹿児島で暮らすのだ。どの県にも動物の名前が含まれているからだ。そこで先手を打つために、群馬駅を出たところにある郵便ポストの横に立って、目を閉じて夢想を始めた。俺が群馬に住んで、一生を終えるまでの夢想だ。
 まずは、住む所を見つけなきゃいけないわけだが、俺が不動産屋を見つけて、その前で物件の張り紙を見ているところまで夢想したとき、ちょっとちょっと、と誰かが声をかけてきた。最初、俺は夢想のなかの不動産屋が声をかけたのかと思ったが、目を開けると、変な色の口紅をつけた若い女が、俺の前にいた。

「群馬はあなたが夢想できるほど簡単な国じゃないわよ。お帰んなさい」
「どういうこと?」
と聞き返すと、その女は、今度は口を閉じたまましゃべった。
「群馬はつねに夢想を裏切る国なのよ」
 変だと思ったら、その女の後ろから、もうひとりの女が出てきた。体格も服装も髪型もまったく同じなので、重なって立っていると、ひとりに見えるのだ。
「君らはソーセージなのかい?」
と聞くと、ふたりの女は、ひとつながりの文章のようにして答えた。
「ちがうわ。ほら、顔立ちがまるっきりちがうでしょ?」
「おわかりかしら? あなたの夢想なんて、モグラの見る夢と変らないのよ」
 たしかに、前に立っていた方の女は、目鼻口が顔の中心に凝集していて、後ろにいた方は拡散している。
「もしかして君たちは、プロフェシオナール?」
「そう、プロフェシオナール。名前は、肺魚シスターズ姉妹よ」
「どうして肺魚なの?」
「とくに意味はないわ」

 俺は熊本へと向かった。


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