エッセイでも小説でもルポでも嘘でもなんでも書きます
無名藝人




 日本語の〈らりるれろ〉のローマ字表記はRではなくてLを使うべきだという投書を新聞で読んだ。たしかに〈淫乱〉は、INRAN よりも INLAN の方が日本語の発音にずっと近い。俺は、あまりにも納得したので、その感動を表現するために、新聞をばりばりと八つ裂きにしてやった。
「わーまだ読んでないのにー!」
 妻の咆哮を背に、俺は裸足で玄関先に飛び出した。しかし飛び出したものの、別段行くあてもなかったので、また部屋に戻った。
 居間に入ると、食卓の上で妻が、ずたずたになった新聞を、ジグソーパズルのように、つなぎあわせながら読んでいた。
「どうだ、お前もそう思うだろ!」
「何がよ」
 妻は新聞に目を落としたまま、投げ遣りに応えた。
「ローマ字の R は L にしなきゃだめだ。でないと、日本語はいつまでたっても、外国人にとって学ぶのが難しい言語のままだ」
「あ、そう」
「つまりだな……」
 そのとき、畳の上に落ちていた折り込み広告に載っている、西武デパートの SEIBU というロゴが目に入った。
「U だ! U もそうだ!」
 欧米人に SEIBU を発音させると、最後の母音に力を入れて〈セイブウ〉のように発音する。しかし日本人は、欧米人ほど U に力を入れないから、SEIB の方が日本語本来の発音に近い。
「ユーレカ〈われ、見出せり〉!」
 俺は叫んで、発見の喜びを神に感謝するために台所に行くと、コンロの火でその広告を燃やした。そして、また裸足で表に飛び出ると、国道まで全力で走って行って、信号待ちをしていたが、さてこの発見をどこで発表したらいいのか判らず、家に戻った。居間に入ると、妻が羊羹を食べていた。
「ただいま」
「おかえり」
 俺はこの発見を、まずは妻に誇ろうと思った。
「いいか、例えばだな、〈没落〉という言葉があるけど、これを現行のローマ字表記にすると、BOTSURAKU になるだろ」
 と、手近にあった封筒にボールペンで書いた。
「あっ、それ今からポストに出しに行くんだから、書いちゃダメよ!」
「でも、実際、われわれ日本人が共通語で発音する場合、TSU と KU はほとんど無声音化するから、BOTSLAK でいいんだよ」
「だからその封筒に書いちゃだめだって言ってんのに、ばかー!」
 俺はすっかり頭を抱え込んでしまった。
「おい、日本語のローマ字表記は問題だらけだぞ。何とかしなければ」
 妻は、この深刻な問題にまったく関心を示さず、修正液で私の書いた字を消すのに懸命だった。
「しかし、お前はいつも俺のやることに冷淡だな。今俺は大変な使命を負っているのだ」
 妻は、今週になって初めて、まともに俺の話に応じた。
「だったら、ついでに SEIBU の SEI もなんとかしてよ。律儀に〈セイブ〉なんて発音する日本人はいないわよ。〈セーブ〉が正しい発音よ」
 なるほど、そういえば俺も「セーブ」と言っている。「御礼、刑事、丁寧」なんかも「オレー、ケージ、テーネー」だ。しかし、これはどうやってローマ字で表記するのだ。「丁寧」を TENE と書くと「テネ」と発音されてしまう。小学校で習った、E の上に ^ みたいな記号をつけて「エー」と発音させる方法は世界的には通じない。長音はどうすればいいのだ。しかし、俺はあることを思い出した。日本野球が世界に誇る王貞治だ。彼のユニフォームの背中にあった OH というローマ字。長音には H を使えばいいのだ。
「なんだ、H をつければいいじゃないか。〈セーブ〉だったら……」
 俺がボールペンを手に取ると、妻はとっさに封筒を隠した。紙がなかったので、自分の手の平に書きながら説明した。
「SEHB とかけばいい。どうだ」
「ふふん」
 妻は鼻で笑った。
「だったら〈平方根〉は? これは〈ヘイホウコン〉じゃなくて〈ヘーホーコン〉よ。これ、どうやってローマ字にするのよ、ねえ」
よりによって、日常はぜんぜん使わない言葉を持ち出した。何か企みがあるに決まっている。俺は、妻の腹の中を探りながら、手の平に書いた。
「長音だから H を使って HEHHOHKON でいいじゃないか」
「あはは。思った通りだわ。だめよ、そんなの。それだと〈ヘッホーコン〉って読まれちゃうでしょ」
 なんという陰険な女だろう。
「じゃあ〈栄耀栄華〉は?」
「〈エーヨーエーガ〉なら、EHYOHEHGA だろう」
「それだと〈エヒョヘーガ〉じゃない。あなた、あたしの思った通りのことしてくれるわね。その馬鹿正直なところ、もう大好きよ」
 もはや悪魔の知恵だ。しかし、頭のいい女ではある。結婚してよかった。

 ともかく、日本語のローマ字表記を根本的に変えなくてはならない。俺は仕事を辞めて、ローマ字表記を改革する旅に出た。南北に長い日本列島なら、先ずは北から変えて行こうということで、北海道の千歳空港に降り立ったが、どこでそれを訴えたらいいのか判らず、俺は家に帰った。妻が消えていた。

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 産婦人科の入院室。女児を出産した母親は、夫に付き添われてベッドに横たわっていた。その胸の上では、検査を終えたばかりのわが子が腕に抱かれて眠っている。しかし夫婦の表情に喜びの色はまだなかった。検査の結果は順次伝えられ、いずれも問題はなかったのだが、ただひとつ、子供の名前だけが、いまだ判明しないまま、1時間以上、待たされていたのだ。
 検査結果を伝えるのは看護師の役目だが、担当医が直接、入院室まで知らせにきた。医師は、細胞組織を検査した結果、子供の名前が「白含枝」(はくがんえ)と判定されたことを伝えた。本来なら「百合枝」(ゆりえ)になるところが、名前を決定する遺伝子に異常があり、「」が「」に、「」が「」に変異しているというのだ。 

……そして3年が過ぎ、白含枝は幼稚園に入園する歳になった。名前が原因で、いじめに遭うことを心配した父親は、同じハンディをもつ子供たちが通う施設に入れるべきだと言うが、母親はあくまで普通の幼稚園で、普通の子供たちと同じような環境の中で育てたいと言う。しかし周囲の説得もあって、結局、施設に通わせることになった。
 施設にいる子供たちの障碍はさまざまだった。本来は「麻由子」になるところが「由」と「子」が入れ替わって「麻子由」になっている子供。姓を作る遺伝子が、名を作る遺伝子と同型のため「山本山本」という姓名になっている子供。また、「良和」になるはずが「義和」になるなど、健常者で通しても問題のないほど軽度の子供もいれば、「砲蟐る雁でい眼」という原形がまったく想像できない重度の子供もいた。
「イワン雄」という男の子もいた。曾祖父母が亡命ロシア人で、ロシア系の名前が遺伝したのだ。両親からいつも、お前はロシア貴族の血を引いているのだと言い聞かされているので、何だかよく判らないまま、ぼくロシア人、といつも自慢していた。必ずしも障碍とはいえない境界例の子供だった。
そんな子供たちが男女あわせて10数人、そのクラスにいたのだった。

 入園したころは、毎日、施設に行くのを泣いていやがった白含枝だったが、同じクラスに友達ができてからは、素直に通うようになった。
 やがて白含枝の友達の輪は広がっていった。白含枝は、人から「はくがんえ」と呼ばれることにすっかり慣れた。事情を知らない人に、お名前は、と聞かれると、俯いて答えなかった子が、今では「はくがんえー!」と大きな声で言えるようになっていた。そして、娘を紹介するときは必ず「障碍があって…」と前置きしていた両親も、健気な娘に逆に励まされて、何のためらいもなく「白含枝です」と言えるようになっていた。

 白含枝をそこまで成長させたのは、いちばん仲の良かった女児だった。その女児には名前がなかった。彼女の染色体には、名前を決定する遺伝子が欠けていたのだ。保母や園児たちは、彼女を呼ぶときには、ねえ、と声をかけたり、肩を叩いたり、指を指したりするしかなかった。両親は、名前に障碍のあることは克服できても、名前のないことを克服するなんてできるものかと、悲観的な思いで彼女を入園させたのだったが、彼女は、両親よりもはるかに楽観的で賢明だった。名前を聞かれると「わたし」と答える智恵をもっていた。
 こんなことがあった。白含枝が“わたし”に「おなまえがなくて、かわいそうね…」と言ったことがある。しかし、この施設では、お互いを「かわいそう」と言ってはいけないことになっていたのだ。なぜなら、どんな名前であろうとも、親から受け継いだものに可哀想なものなどない、という方針で教育していたからだ。白含枝はそれに気づいて、口をつぐんだ。
 “わたし”は、あっけらかんと答えた。
「いつもおうちのベランダにきてるスズメさんたちは、みんなおなまえがないよ。みんな“わたし”よ」
 
 卒園アルバムのなかの、クラスごとに撮った記念写真のページには、全員の名前が載っていた。白含枝の名前の隣には「わたし」があった。


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