産婦人科の入院室。女児を出産した母親は、夫に付き添われてベッドに横たわっていた。その胸の上では、検査を終えたばかりのわが子が腕に抱かれて眠っている。しかし夫婦の表情に喜びの色はまだなかった。検査の結果は順次伝えられ、いずれも問題はなかったのだが、ただひとつ、子供の名前だけが、いまだ判明しないまま、1時間以上、待たされていたのだ。
検査結果を伝えるのは看護師の役目だが、担当医が直接、入院室まで知らせにきた。医師は、細胞組織を検査した結果、子供の名前が「白含枝」(はくがんえ)と判定されたことを伝えた。本来なら「百合枝」(ゆりえ)になるところが、名前を決定する遺伝子に異常があり、「百」が「白」に、「合」が「含」に変異しているというのだ。
……そして3年が過ぎ、白含枝は幼稚園に入園する歳になった。名前が原因で、いじめに遭うことを心配した父親は、同じハンディをもつ子供たちが通う施設に入れるべきだと言うが、母親はあくまで普通の幼稚園で、普通の子供たちと同じような環境の中で育てたいと言う。しかし周囲の説得もあって、結局、施設に通わせることになった。
施設にいる子供たちの障碍はさまざまだった。本来は「麻由子」になるところが「由」と「子」が入れ替わって「麻子由」になっている子供。姓を作る遺伝子が、名を作る遺伝子と同型のため「山本山本」という姓名になっている子供。また、「良和」になるはずが「義和」になるなど、健常者で通しても問題のないほど軽度の子供もいれば、「砲蟐る雁でい眼」という原形がまったく想像できない重度の子供もいた。
「イワン雄」という男の子もいた。曾祖父母が亡命ロシア人で、ロシア系の名前が遺伝したのだ。両親からいつも、お前はロシア貴族の血を引いているのだと言い聞かされているので、何だかよく判らないまま、ぼくロシア人、といつも自慢していた。必ずしも障碍とはいえない境界例の子供だった。
そんな子供たちが男女あわせて10数人、そのクラスにいたのだった。
入園したころは、毎日、施設に行くのを泣いていやがった白含枝だったが、同じクラスに友達ができてからは、素直に通うようになった。
やがて白含枝の友達の輪は広がっていった。白含枝は、人から「はくがんえ」と呼ばれることにすっかり慣れた。事情を知らない人に、お名前は、と聞かれると、俯いて答えなかった子が、今では「はくがんえー!」と大きな声で言えるようになっていた。そして、娘を紹介するときは必ず「障碍があって…」と前置きしていた両親も、健気な娘に逆に励まされて、何のためらいもなく「白含枝です」と言えるようになっていた。
白含枝をそこまで成長させたのは、いちばん仲の良かった女児だった。その女児には名前がなかった。彼女の染色体には、名前を決定する遺伝子が欠けていたのだ。保母や園児たちは、彼女を呼ぶときには、ねえ、と声をかけたり、肩を叩いたり、指を指したりするしかなかった。両親は、名前に障碍のあることは克服できても、名前のないことを克服するなんてできるものかと、悲観的な思いで彼女を入園させたのだったが、彼女は、両親よりもはるかに楽観的で賢明だった。名前を聞かれると「わたし」と答える智恵をもっていた。
こんなことがあった。白含枝が“わたし”に「おなまえがなくて、かわいそうね…」と言ったことがある。しかし、この施設では、お互いを「かわいそう」と言ってはいけないことになっていたのだ。なぜなら、どんな名前であろうとも、親から受け継いだものに可哀想なものなどない、という方針で教育していたからだ。白含枝はそれに気づいて、口をつぐんだ。
“わたし”は、あっけらかんと答えた。
「いつもおうちのベランダにきてるスズメさんたちは、みんなおなまえがないよ。みんな“わたし”よ」
卒園アルバムのなかの、クラスごとに撮った記念写真のページには、全員の名前が載っていた。白含枝の名前の隣には「わたし」があった。
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