エッセイでも小説でもルポでも嘘でもなんでも書きます
無名藝人




【おしらせ】

 はてなブログで連載中の『徒労捜査官』更新しました。

 第11話《闇組織の策謀》悪の組織 vs 辻斬り犯

 週2回(火・金)の掲載でスタートしたこの連載ですが、そのペースだと年を越してしまうということを発見したので、週3回(月・水・金)にしました。

 以上。




「音楽や詩も自分が作ったものが一番好きです。他の作品にはあまり興味を持っておりません」

 これは、水玉模様で毎度みなさまお馴染みのアルティスト、草間彌生が、新聞のインテルヴューで「好きなお食事や音楽は」と聞かれて、ぶっ放したコメントである。

 記事のソース


 私が20代の頃だから、地球~木星の距離ほど遠い昔のこと。
 日本列島の東部、太平洋を臨む地方自治体のひとつに東京という都市があるが、そのなかの狛江市という、電車の駅がふたつしかない、こぢんまりとした市に住んでいた頃、草間彌生が動いているところを実際に見たことがある。

 といっても、狛江市の和泉多摩川商店街で草間彌生が高菜漬けを買っているのを見たというのではなくて、私が狛江に住んでいた頃に、都内の美術館で草間彌生を見たという意味である。

 東京には23の区に分けられた特別区が設けられている。ちなみに大阪市は24区ある。1区勝ちだが、私は堺市の住人だから、そんなことはどうでもいい。

 そのなかに渋谷区という、映画にもなった「忠犬ハチ公」の像が駅前に立っている区がある。で、そこにある松濤美術館に行ったとき、たまたま草間彌生の講演があり、その傲慢とも思える発言に圧倒されたのを憶えている。

 50~60年代。ニューヨークで当時の先鋭的な現代美術家たちがくんずほぐれつしながら制作していたのに混じって彼女が発表した作品が、なかでも先鋭的であったということを主張すべく、吼えた言葉が、

「あたしはジャクソン・ポロックをぶっ飛ばしたのよ」

 である。私もまだ若くて記憶の確かな頃だったから、30年以上も経ったいまでも鮮明に思い出せる。あのジャクソン・ポロックをぶっ飛ばしたとは、そこまで言って委員会と、他人事ながら心配したものだ。

「去るものは日々に鬱陶しい」という諺がある。しかしジャクソン・ポロックの死後、ほぼ60年経つが、いまだに回顧展などが開催されるほどのレジェンダリーな芸術家である。

 すでに国際的名声が確立されている故人をぶっ飛ばすのは勇気がいる。松濤美術館での講演の時点で、すでに死後30年近く経過していたはずのポロックをぶっ飛ばしたと公言して憚らないのだから、この人の自画自賛レベルも手前味噌レベルも並はずれている。

 てなわけで冒頭のコメントであるが、私はこれを読んで、やっぱりアルティストとはそういうものなんだなと、サウイフモノニワタシハナリタイと、というか、そういや僕もそうだなと、斯く再認識したのであった。


 私が俳優モドキをしていた頃、自分が出演した映画やドラマがテレビで放映されると、2秒くらいしか映らないエキストラでも必ず録画し、自分が映っている場面以外はすべてカットしてできた超短編ドラマを繰り返し見て、陶酔していたものであった。

「手ずから焼いた目玉焼きは極上のキャビアに勝る」(F. ウッズワース)

 ……という格言はいま私がでっち上げたものだし、F. ウッズワースなる人物も捏造だが、私が自分が出演している映像に陶酔するのも、草間彌生の「音楽や詩も自分が作ったものが一番好きです」も結局、手ずから焼いた目玉焼きなのである。考えてみれば実に単純かつ一般的な感情なのだ。

 眉目麗しき他人の餓鬼よりも、不細工でもてめえの血を引いたご子息の方が可愛いというわけだ。そういう人類普遍の自己愛をついたウッズワースの格言はこれからも生き続けるであろう。


 実は私も「他の作品にはあまり興味を持っておりません」の部類に属する人間なのである。
 以前は、これはと思う展覧会があると東京にでも観に行っていたものだが、近年は、近所の美術館にすらめったに足を運ばなくなった。

 もちろん他の作品から学ぶことを疎かにしてきた罰は受けている。それは、審美眼が曇ったまま磨かれずにいまに至ってしまったということだ。

 たまぁーに京都あたりまで美術展を観に行っても、高い交通費使ってわざわざ来るほどでもなかったな、でもまあ気晴らしにはなったしFacebookに投稿するネタくらいにはなるかな程度の収穫で帰ってくる。多くのものを学び損なっているはずだ。

 草間彌生をぶっ飛ばすつもりはないが、彼女の作品を見てもほとんど興味が湧かない。試みは面白いと思うのだが、それが感動を生むまでには到らない。それとも、感動できないのは私の審美眼が曇っているからなのか?

 私は自分の作品を見ている方が好きだ。小説だって、ドストエフスキーよりも、自分の小説の方が興味深く読める。何度読んでも飽きない。よくこんなものが書けるもんだといつも感心する。1度でいいから作者に会ってみたい。どんな人なんだろう。案外、平凡な人だったりして。

 音楽でも、MacのGarageBandで作曲した曲やみずらから演奏したギター曲を何度かYouTubeにアップしてFacebookで共有したりしていたが、いずれも視聴回数が屈辱的なまでに少なかったので、いまでは非公開にしている。

 しかし曲自体は非常に優れているのだ。だから削除はしていない。曲は、いずれ私の真価が認められたときに、ドヤ顔で再公開される日を待っている。


 YouTubeでこんな映像を見つけた。

「草間彌生~わたし大好き~」(2008年)ドキュメンタリー映画(予告編)
< https://www.youtube.com/watch?v=w_pdiVKOXiE >

 このなかで「自分のやったこと全部ステキ」とまで言っているが、アルティストはこうでなきゃいかん。

 だいたい、自分の作品を第三者の視点から冷静に見るなんてアクロバティックなことはできない。それは、目覚めていながら幽体離脱して自分の行動を観察するようなものだからだ。
 
 そんなことをしとったら、アルティストなんかやってられまへんで、正味の話が。自分に対して親バカになれるよって、こんなこと続けられるんや。

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 咳がとまらないので、耳鼻咽喉科に行って、気管支炎の可能性があるかと医者に聞いたら、専門じゃないからわからん、と言われて、咳止めの薬を処方をしただけで追い返された。 

 だから、こんどは内科に行った。
 すると、検査室に案内され、20分間なかでじっとしているように、検査機器が作動するのでいろんなことが起きるけれどじっとしているように、と指示された。
 部屋は1畳ほどしかく、窓は開いていて、窓のそばにはコンロがありタコ焼き器が載っていた。

 部屋のドアが閉まってからすぐに機械音が聞こえて照明が消えた。

 しばらくすると、女が小さな子供を連れてやってきてタコ焼きを注文したが、医者にじっとしているようにと言われているので黙っていたら、苛立ったように女が言った。
「なにしてんの? はよ焼いてえな」

 それでも黙っていると、女の声が大きくなった。
「ちょっとー、あんた聞こえてんの?」
 こんどは子供が騒ぎ出す。
「おっちゃん、タコ焼きタコ焼き」

 いつの間にか、列ができていて、そちらも騒がしい。
「どないなってんねん、この店。店員おらんのか」
「あいつやろ。腕組んで座ってる奴が店員やろ」
「なに無視しとんねん。腹立つわぁ!」
「日本語わからんのちゃうか? ヘイ、ビジネスビジネス!」

 列の最後尾にやってきた若い女が僕を見るなり目を丸くして指差した。
「あー! あの人やわ。さっき駅の階段で、女の人のスカートのなかを撮ってるとこ見たわ」

 人違いもいいところだ。駅は僕の家からはまったく反対の方角なんだよ、具合が悪くて病院に行く人間がわざわざ遠回りして盗撮なんかするもんか。
 そう怒鳴りつけてやりたかったが、医者の言いつけ通り黙ってじっとしていた。

「撮った写真をエロサイトに投稿する気やで、あいつ」
 列に並んでいた男が、振り向いて若い女に言った。
「そや! あの人の写真撮って、これが盗撮犯人ですゆうてネットで晒しもんにしたろ。盗撮された女の気持ちをわからせたるんよ!」
 女がそう言って、ケータイを取り出すと、列にいた他の客までが、ケータイを取り出して僕を写し始めた。

 このままでは破廉恥漢として日本中に顔が知れ渡ってしまう。さすがに危機感を覚えて僕は口を開いた。
「ちがうちがう。人違いですよ。写真はやめてください!」
 僕が昂奮すればするほど、客たちはサディスティックに何度もシャッターを押した。
「やめろよ、おい。名誉毀損で訴えるぞ!」
「お前は盗撮で訴えられるぞ」
「盗撮は現行犯じゃないと逮捕できないんだよ」
「ほーら尻尾出しよったで」
 その言葉に激怒した僕は、窓から身を乗り出してその男に掴みかかろうとした。

「検査終了しました」
 天井のスピーカーから看護師の声が聞こえて、ドアが開いた。

 ドアのまえでは、医者が失望の表情を浮かべて立っていた。
「まったくあなたにはガッカリさせられましたよ。まさか盗撮をするような人だったとはね。じゃ、これで」

 そう言って背を向けようとするので、検査の結果はどうだったのかと聞くと、医者はにやにやしながら答えた。
「ひょっとしたら、ヘルフェン・マイヤー症候群かもしれませんよ」
 それを聞いた看護師たちが、いっせいに笑い出した。

 聞いたこともない病名に戸惑った僕は、医者の背中に向かって、それはどんな病気なのかと訊ねたが、医者は振り向きもせずに言った。
「さあね。私の専門じゃないからわかりませんな」
 
 内科でも専門じゃないと言われて、僕は次に眼科に向かった。




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 Twitterで「“ステマ”ってなんなのか教えてちゃぶ台」というツイートをしたら、それに対して知らない人から「ggrks」という返信があったが、その意味が分からない。
 orz みたいなものかと思って眼が血走るほど ggrks を見つめるも何のイメージも浮かばない。そこで「ggrks ってなに?」と聞き返すと、また、「ggrks」が返ってきた。
 ははぁそうか。「ちゃぶ台」を巧みに用いた、エスプリの香り馥郁たる私のツイートにマジレスなんかして野暮な奴だと思われないよう、私を上回る高度なエスプリで対抗しようとしてるのだなと判断した私は、然らばお相手つかまつると、さらに馥郁たるツイートで返した。

「なるほど。略語だったんですね。ス・テ・マの頭文字を並べるとggrks。気がつかなかったなあ」

 私の盤石のツイートには歯が立たないと恐れをなしたのか、それに対する返信はなかった。結局「ステマ」が何なのか分からなかったので、仕方がないからググってみると、「ステルスマーケティング」の略だということが分かって一段落したが、ステルスマーケティングがどういうものなのかまでは、面倒なので調べなかった。
 ついでに「ggrks」もググってみたら、「ググれカス」の略語だということだった。つまり知りたいことがあるのなら人に聞く前にGoogleで検索して調べろ、このカス! という意味だったのだ。私は嬉しくなって、ggrks と書き込んでくれた人に「やっと意味が分かりました。つまり私はカスだっ……」と書いたところで猛烈に腹が立った。

 私がカスだと! この私が。守銭奴で好色漢、地位や財産のある人間にはへつらい自分より弱い者に対しては尊大にふるまう、他人の成功を妬み失敗を願う、そんな私がカス呼ばわりされるのは……しかたがないかもしれない。

 しかし、いくらなんでも「ググれカス」などという吐き捨てるような言い方はないだろう。もう少し丁寧に、
……ggtmtkdsks(ググってみてくださいカス)とか、

できれば励ましの口調で、
……ggrssrbantnsgsmtmirmngmtkrhzdsosrrktharmsnsggrmsks
(ググりさえすればあなたの探し求めているものが見つかるはずです、恐れることはありません、さあググりましょうカス)とか。

そのくらいの言い方をしてくれれば、私だって、
……ggtmmststrsmktngnktdtndsnargtgzmsornrswtmdogrstkdsks
(ググってみました。ステルスマーケティングのことだったんですね。ありがとうございます。お礼に来週、和民で奢らせてくださいカス)

といった、ウィッティな返信ができるというものだ。



 Facebookに、神戸市にある「五色塚古墳」という前方後円墳の後円にあたる部分の頂上から撮った写真をアップした。
 遠方には海が広がっていて、大きな島が浮かんでいる。その説明として「先週、五色塚古墳を見に神戸市垂水区まで行きました。遠くに写っている島は淡路島でしょうか?」と書いてアップしたら、その2秒後に ggrks が返ってきた。質問するつもりはなくて何気なく書いただけなのに、間、髪を容れずに食らいついてくる。

 どうやら、何かを問うような投稿をすると、ggrks の標的になるらしいということは分かった。
 試しにTwitterとFacebookで、「明日は雨かな?」「ミナミあたりで飲みませんか?」といった他愛ない問いかけをしてみたが、よほど神経を尖らせているのか、それともヒマなのか、ここでも ggrks がコメント欄に現れた。

 これは面白い。なんだか興が乗ったので、昔の歌謡曲の質問形式の歌詞を、記憶力の著しく衰えた脳みそで必死に思い出して投稿してやった。

 ♪神戸 泣いてどうなるのか~(「そして神戸」内山田洋とクールファイブ)
 ♪泣いた女がバカなのか だました男が悪いのか~(「東京ブルース」西田佐知子)
 ♪口紅もつけないままか~(「木綿のハンカチーフ」太田裕美)

 ついでに、「わたしは誰? ここはどこ?」「生きるべきか死すべきか?」など、世上によく知られた言葉も投稿したが、やはりすべての投稿に ggrks が出現した。

 ここで気がついたのは、ggrksのターゲットにされているのは、どうも私ひとりらしいということだった。他の人のタイムラインを見ても、ggrks は見当たらない。

 TwitterやFacebookのなかに「永吉監視センター」というのがあって、オペレーターが延べ10,000人、24時間私のタイムラインを監視していて、質問と思しき投稿を見つけると、ただちに ggrks を送信しているのではないだろうかと本気で考えてしまった。

 そこで、いつも ggrks を飛ばしてくるアカウントを見てみると、ディスプレイの中央で黄金バットのように、不敵な笑い声を発しながら仁王立ちでマントをなびかせている人物がいた。
 黄金バットと違うのは、坊主頭で肥っていて、全身がウロコで被われ、ハイヒールを履き、腰に花柄のエプロンを巻いているというところだけだった。

 何か言うのかと待っていたら、そのまま飛び去ろうとするので、私は慌ててそのマントをひっ掴んで尋ねた。

「あんた誰なんだ?」
「ググれカス」
「あんたが独りでggrksを送信してたのか?」
「ググれカス」
「なんで僕ばかりを狙うんだ?」
「ググれカス」
 
 質問形式で話をしようとすると「ググれカス」で逃げられてしまうので、聞き方を変えてみた。

「あんたがどういう人間なのか、僕に説明する義務がある」
「あたしの名前は仲嶺まど美。36歳。まだ独身だけど結婚を前提にして交際している男性がいるのよ。彼の名前はテロル大黒。どさ回りのプロレスラー」
「ggrks を送るのをやめてもらいたい」
「残念ね。結婚資金が溜まるまではやめるわけにはいかないのよ」
「だったら、僕以外の誰かをターゲットにすればいい」
「それなら可能。でも、ターゲットから逃れるには呪文を唱えないと」
「それは、どんな呪文なんだ?」
「ははは。ググれカス!」

 仲嶺まど美は飛び去って行った。私が質問をしてしまうように巧みに誘導されていたのだったが、ともかく「仲嶺まど美 呪文 テロル大黒 結婚資金」でググって呪文を見つけて唱えたら、それきり ggrks は来なくなったので、どういうわけで私がターゲットになったのか、そんなことはもうどうでもいい。


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 フェイスブックを始めてからやがて2年になる。いまだに用途不明の機能がいくつもあり、しかもそのカラクリに知らず知らず振り回されていて腹が立つこともあるが、ツイッターよりも芸人性をアピールしやすいエスエヌエスであり、芸を見せる以外には何の取り柄もない私は重宝している。



 6月1日より「永吉流」が正式に発足し、私が初代家元に就任することが決定した折、フェイスブックに、挨拶文とともに永吉流宗家の看板の写真を掲載したら、12名もの方々から《いいね!》をいただき、この機運に乗じ、幾星霜を経て育て上げてきた我が流派の芸を御披露目しようと考えたのである。
 市川宗家の歌舞伎十八番にも匹敵する、永吉家の家宝ともいうべき芸を収録するために、アイマックで、アイムービー、アイフォト、アイチューンズなどを駆使して36回にも及ぶ撮り直しの後、やっと満足できるテイクができたので、ユーチューブにアップしてフェイスブックで共有した。

 永吉流の芸の神髄は、ひと口で言えば「無為自然」にある。天の摂理を、それがわれわれの目にどれほど無慈悲なものに映ろうとも、あるがままに受け入れ、呼吸し、己の血肉として生きることにある。
 それを十全に表現するためには、素晴らしいビニールが不可欠だったが、幸い「ビニールくん」という愛称で呼ばれていたビニールが手に入った。それは私の芸風への親和性が高く、また多面的かつ綜合的に用いることができ、おかげで永吉流の真骨頂が遺憾なく発揮された。

 そんなわけで満を持して公開に踏み切ったのである。しかし、あにはからんや、アップしてから10秒ごとにフェイスブックを開いて反応を窺っていたが、いつまで経ってもコメントどころか《いいね!》も付かない。焦燥感で頭を掻きむしりながら2分間様子を見ていたが、何の反応も見られないので、私はたまらずに投稿を削除した。
 ユーチューブのサイトを見ると私の動画は「1回再生」となっていた。ということは私以外は誰も見ていないということになる。要するに見なくてもわかるほどの駄芸(造語)だったということなのだ。なんたる屈辱。まったく観客とは非情なものだ。いかに心血を注いだ労作でも、面白くなければお世辞の《いいね!》すら恵んでもらえないのだから。

 芸人にとって無視されるのが酷評されるより辛いことは、もしあなたが同じ芸人なら理解してもらえると思う。家元としてはあまりにも厳しい船出となってしまったのであった。

 どこに問題があるのかわからない。ビニールという素材の選択を誤ったのか、ゴムにすべきだったのか、牛皮にすべきだったのかいろいろ考えたが、やはりビニール以外になく、早くも永吉流の終焉を予感する有様だった。



「恥さらし家元」の汚名がすでに広まっているはずだと思うとフェイスブックを開くのが怖くて、2、3日はパソコンの電源を切ったまま鬱々と天井のシミばかり数えていたが、ふと海が見たくなって神戸に出かけた。

 神戸港ではちょうど、遠洋漁業に出ている船団がイカ釣り漁をしているところだった。イカ漁では網は使わず、海中に垂らした何本もの釣り糸を機械で巻き上げるのだ。ポートタワーの展望台からそれを見ていると、《いいね!》が付いたの付かなかったのと一喜一憂することもない漁師が羨ましくなってきて「漁師は気楽でいいね!」と思わずつぶやいた。
 すると、甲板で機械を操作していた初老の船員が私を睨みつけた。

「気楽やて? なに抜かしとんねん。わしらは先月漁に出てからもう1か月も陸(おか)に上がっとらんのやど。まあ、わしはええ。そこの若い奴なんか、祝言の翌日から漁やったんやど。女房にしてみたら、新妻がいきなり後家になったようなもんやねんど。
 それだけやないど。こいつの女房が淋しがっとるのにつけこんで間男した奴がおってな、孕ましといて逃げやがったんやど。女房は亭主に知られるのが怖くて誰にも相談できんまま父(てて)なし子を産みよったんやど。その子も大きゅうなって来年はもう高校生やねんど。でもな、父親は遠洋漁業に出とると教えられとるねんど。そら父親が間男とは言えんわ。なあ、健次」

 健次と呼ばれた若い船員は、こちらに背を向けてイカを選り分けていたが、急に肩が震え出し、振り向くと、チクショウ! と涙声で叫んで、持っていたヤリイカを私に向かって投げつけた。
 そのヤリイカが、うまい具合に私の口のなかに飛び込んできたので、それをもぐもぐ食べながら帰りの阪急電車のなかでアレコレ考えていると、永吉流の芸が受け入れられない原因は、芸にではなくて、それを見たユーザーの傾向にあるのではないかという推測がふと頭に浮かんだのであった。



 その傾向を突き止めるべく、帰宅するとすぐにフェイスブックを開いて、私と友達関係にある54名の「基本データ」を片っ端から調べていった。そこには《宗教・信仰》《政治観》《好きな言葉》《美空ひばり》《沼》といったような項目があって、それぞれ思い思いのことを書いているのだが、ある項目では全員がまるっきり同じ回答を載せていた。
《パセリは好きか嫌いか》というのがそれで、なんと54名全員が「嫌い」と答えている。パセリは料理の飾りという認識が定着しているためか、数種のビタミン、そしてカルシウム、鉄分などを含む非常に栄養価の高い野菜であるにもかかわらず、食べない人が多い。もったいない話である。

 なるほどね。そりゃ私の芸が受け入れられないはずだ。パセリが嫌いじゃどうしようもないよな。カボチャの嫌いな人にベートーベンを聴かせるようなものだからね。
 客を家に呼んで御馳走する時は、まずその客がうどん派かソバ派かを知ることが肝要だという先人の教えを今回の騒動で思い出しましたとさ。

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 先月、仕事の打ち合わせがあってヨコハマに行った。
 ヨコハマに足を踏み入れたのは何年ぶりだろう。五木ひろしの『よこはま・たそがれ』がヒットしたのが1971年だから41年ぶりだ。いや待てよ、いしだあゆみの『ブルーライト・ヨコハマ』が1968年だから、44年ぶりか。
 44年前のヨコハマはまだずっと、私の住んでいる大阪に近く、横浜駅までは特急で1時間ほどだった。神戸と海の玄関口を競うようになるのはかなり後のこと。その頃のヨコハマは伊勢湾に面した漁師町といった風情で、そのため住民といえば、カニだのイカだのといった魚介類ばかりだった。

 飲屋街の店が入り口の引き戸を全開にして、客が店から店へと気楽に渡り歩く夏場、ギターを担いでヨコハマに出稼ぎに行ったことがある。客のリクエストに応えて歌う、あるいは客のヘタくそな歌の伴奏をする、いわゆる「流し」をするのが目的だったが、しょせん相手は下等な魚介類なのだから曲の良し悪しがわかるはずもなく、いい加減に弾いてカネを巻き上げようと考えていたのだ。
「お客はん、一曲どないでっか?」
 日本の魚介類のくせに日本語がわからないらしく、こっちが何を聞いてもピチピチ跳ねたりブクブク泡を吹いているだけで、何の曲をリクエストしているのか皆目わからない。そもそもリクエストをしているのかどうかすらわからない。
 しかしそれでは商売にならないので、菊池章子『岸壁の母』や津村謙『上海帰りのリル』など、海のある街に相応しい曲をいくつか歌ってみたが、相変わらずピチピチブクブクしているだけで、歌が気に入ったのかどうかもわからない。
 新旧和洋取り交ぜて10曲ほど歌っても一向に反応がない。私もさすがに頭にきて帰ろうと思ったが、手ぶらで引き下がるのも業腹なので、店にいた客のうち、カニを2、3匹掴んで宿に戻り鍋にして食べたらこれがまた旨かった。身がいっぱい詰まっていて歯ごたえも充分。
 翌日、車で大阪に帰る途上、道を歩いていたタラバガニやらズワイガニやらを片っ端から捕まえて、その足で道頓堀の「かに道楽」に持ち込んだら、店のオーナーが驚いて尋ねた。
「こらまた、えらい上物でんなぁ。どこで仕入れなはった?」
 もちろん、ヨコハマの住民をとっ捕まえて来たとは言えないので、仕入れ先は答えなかったが、なにしろ卸値をべらぼうに安くしたので、訝りながらもオーナーは取り引きに応じた。その後私は、カニからエビ、イカ、イワシなどにも手を拡げ、ヨコハマの住民が絶滅するまでこの商売は続いた。



 そんなヨコハマに人が住むようになったのは、東に向かって移動し始めてからだ。ヨコハマが現在の房総半島南端に落ち着くまでに、その通り道となった地方の文化や習慣、言語、風土病などを吸収して、史上まれに見る独特な文明を築き上げたのであった。

 ヨコハマでは、居酒屋で一席設けてもらった。
 ご同席の3名のうち、Be氏は先祖代々、白亜紀からのハマっ子。T氏は埼玉県、Br氏は神奈川県だが、どちらも近県だからヨコハマ文明に対して耐性を獲得しているようだった。しかし私は300マイル以上離れた河内の國の人間なので、最後には錯乱状態に陥ってしまった。

 佇まいは普通の和風居酒屋なのだが、何か硬い物がコンコン当たる音がするので何だろうと思ったら、奥の畳の間がバッティングセンターになっていて酔客が気違いのように打棒をぶん回している。ネットが張られていないので、ときどきボールやスっぽ抜けた打棒が客席に飛んで来て食器を粉砕したり、客を直撃したりするのだが、鷹揚なヨコハマの人たちは蚊がとまったほども気にしない。
 メニューを見ると「飲み放題プラス・バッティング20球で1名様2500円」というセットがあった。ヨコハマではこういうサーヴィスは当たり前らしく、槍投げやハンマー投げをセットにしている店もあるとのこと。たまに客が死ぬこともあるらしいのだが、板子一枚下は地獄という、壮絶な漁師の世界で生き残って来たヨコハマの人たちには世間話のネタにもならないのだそうだ。

 日帰りするつもりでいたので、ビールだけで軽く済ませようと思って、注文を取りに来た店員に「ビー……」と言ったところで、隣にいたBe氏が慌てて私の口を手で塞ぐと耳元でささやいた。
「ヨコハマで居酒屋に入ったらなぁ、最初はヘイケガニの鍋を喰うのがしきたりぞん。ビールなんて注文してみら、もう、べらこいことになっちまうがん」
 向かいに坐っていたおふたりも、青い顔をして「そうそう」と眼で私をたしなめた。店内を見回すと、あちこちに鍋が置いてあったが、やはりヘイケガニを食べていたのだろう。
 ヨコハマ弁はよくわからないのだが、とにかく最初にビールを注文すると大変なことになるらしいので、しきたり通りヘイケガニを注文したら、これがまた不味くて喉を通らない。ヘイケガニは食べられないから網にかかってもすぐに捨てると聞いたことがある。
「こいつはいくらなんでも……」と独りごとを言ったら、またBe氏が私の口を塞いだ。そして店員の眼を気にしながら小声で言った。
「非常識だな。残したら、おめ、どうなっても知らねぞん!」
 私は半泣きで、何度も戻しそうになりながら何とかヘイケガニを胃に収めた。
「食べたから、もうビール注文してもいいですよね?」
「うんじゃ。次はガソリンを飲むでらい」
 ガソリンとは強い酒の銘柄かと思ったら、本当のガソリンがグラスに入って出てきた。

 44年前のカニのたたりだ……

 そんな言葉がひとりでに口から漏れた。
 その後のことはよく覚えていないが、私が制止を振り切って店を飛び出すと、店員たちが「ぐえっぐえっ」とか「ちょわー」とか「ぴぎゃー」とか叫びながら追いかけて来た。それを見た歩行者もいっしょになって追いかけて来る。四つ脚で走って来る者もいれば、空中を飛んで来る者もいる。

 私は逃げながら、桜田淳子の『追いかけてヨコハマ』(作詞作曲・中島みゆき)を口ずさんでいた。

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