エッセイでも小説でもルポでも嘘でもなんでも書きます
無名藝人




 今年の夏は記録的だったらしいが、何がどう記録的だったのか。あまりの暑さのために覚えていない。毎年、夏になると何かの記録を更新しているような気がするが、それもやっぱり暑さのせいでそう感じているだけなのだろうか。

 今夏をひと言で表せば、惨夏(造語)だった。七月、八月は屋外での仕事ばかりで、煮えたぎるような大気のなかで、お天道様に照り焼きにされた。暑いというより、熱かった。

 午前10時頃までは気温があまり上がらないから、日差しが強くても耐えられるが、午後のピークに向かって気温がぐんぐん上昇し始める頃から、太陽が山の稜線にかかる頃まで、炙られ続ける。

 その名残は、九月も半ばだというのに、まだ褪めきらない日焼けだ。
 ほら、この通り。前腕のこの先からいきなり黒くなっているのが、おわかり頂けると思う。そして顔。帽子の庇に守られた額はこんなに白いのに、そこから下はこんなに黒くなってしまった。

 もともと色白なので、この日焼けは際立つ。
 惨夏真っ盛りのころは、上半身裸になって鏡の前に立つと、そのなかに変な人間がいた。顔の下半分と肘から先だけが焼けこげた、部分焼死体がいた。

 過酷な肉体労働とは、重い物を持ったり、休みなく動き回ったりすることだけではない。炎天下、木陰すらない場所で長時間立ちっぱなしの仕事も、その過酷さからすれば、他の肉体労働にも引けを取らない。

 ただ、この肉体労働は、いくら続けても体力は向上しない。土木作業員のようなたくましい体躯も耐久力も得られない。日焼けのうえに日焼けを重ねて、炭化するだけだ。

 だからおまえ何の仕事してたんだよ、おい、と毒者諸氏は苛立ったり泡立ったりしていると思うが、暑さのためか、何の仕事だったのかどうしても思い出せない。何度か車に轢かれそうになったような記憶があるが、それは仕事ではなかったと思う。
 

 いま思うと、いくぶん精神もやられていたような気がする。

 客が大勢来るから暑くなる、暑さに苦しめられているのは客が押し寄せてくるからだ、という理屈がいつの間にか同僚の間で通用するようになった。
 抗いようのない自然という憤懣の対象を客に転嫁するという心理メカニズムが働いたということだろうか。

 夏を楽しむレジャー施設だから、暑いほど客足が増える。
 経営者は、エアコンの効いたオフィスのソファに深々と腰かけて、「毎日が快晴で太陽がギンギラギンに照りつけてくれたらいいのに」と願っていたはずなのだが、われわれは違った。

 たまたま曇りで太陽が隠れている日なんかだと、口には出さずとも、同僚の心がみな一つの理想で結ばれているのがわかった。

「このまま一日中空がどんよりして、雨でも降ってくれたらいいのに。できれば、いますぐ台風が来て今日の仕事が中止になればいいのに。できれば、落雷で停電して、施設を稼働することができなくなればいいのに。できれば大雨で地滑りが起きて道路が塞がれて、シーズン中の復旧が絶望的になればいいのに」

 てなことになったら、こっちもオマンマの喰い上げになるわけだが、暑さのせいでそんな認識は失われていた。

 客が施設に侵入するのを阻止する方法を同僚たちと考えた。
 季節柄、いちばん客が集まる施設はプールである。だからそこに人喰いザメを五、六頭、密かに放流するという案を出した者がいた。

 最初はみな、こぞって賛成していたが、あることに気づいた者がいた。
「ちょっと待てよ。プールは淡水だから、海に棲んでいる人喰いザメは浸透圧の関係で生きていられない。すぐに死ぬぞ」
「シントウアツって何なのか知らんが、どうして死ぬんだ?」
「つまり、海水とは濃度が違う淡水に海水魚を入れると、ブワーっとなるからなんだよ」
「そうか。それはひどいな!」
「大海を自由に泳ぎ回っている無垢な人喰いザメ。そんな彼らを淡水の、しかも狭いプールに閉じ込めるなんて、そりゃ虐殺に等しい」
「なぜ、シーシェパードは黙っているんだ!」

 僕らは涙を流して人喰いザメを哀れんだ。その慟哭は三日三晩、山間にこだましたと云ふ。

「じゃ、コイってのはどうだ。淡水魚だし、なんだか優雅じゃないか」
「おいおい、メダカを放流するのとは訳が違うんだからな。コイの成魚は10kgはするんだぜ。優雅に見せるなら50匹は要るから500kg。どうやって運ぶんだよ、そんなもの」
 
 みな黙ってしまったが、ひとりが、まだ実験段階なんだけどな、と言いながらズボンの革ベルトを抜き取ると、ベルトの内側に、ぶよぶよしたものが鈴生りになって張りついているのが見えた。

「これ、グミなんだけどコイなんだよ」

 そういって彼は、ベルトからグミをひとつ剥がすと、僕の口に押し込んだ。たしかにフルーツグミの味がしたが、噛んでいるうちに味が変わってきた。

「なんだかサンショウウオみたいな味がする」
「当たり前だ。コイの稚魚はサンショウウオなんだからな」
「そうだったのか。でも、こいつをどうやって……」
「まあ見てろ」
 
 そう言って、彼はもうひとつグミを剥がして、灼けついたアスファルトの上に放り出すと、すぐにペットボトルの水をその上から注いだ。すると、グミはたちまち成魚のコイになった。

「こいつは凄い! 話題になるぞ。マスコミが誇大に、ときに虚偽を交えて報道するだろうから、日本中から物見高い客が押し寄せて来ることは間違いない! 万歳!」

 と、僕が昂奮して喚いているのをよそに、彼はコイの状態の変化に気を取られていた。
 ついさっきまで路上でピチピチ跳ねていたコイが徐々に生気を失い、ついに動かなくなってしまった。口だけかろうじて開け閉めしている。苦しそうだ。彼は舌打ちをして言った。

「なんてこったい。このペットボトルの水は水道水だ」
「というと?」
「水道水には、消毒のために塩素、つまりカルキが含まれているんだ。コイはそれにやられたんだ」
「じゃ、この《鉄管の水》ってラベルが貼ってあるボトルの中身は、ただの水道水なのか? 汚い商売しやがって!」

 僕らは拳を衝き上げて、Twitterに怒りのツイートを投稿した。
 そのつぶやきは風に乗り、当時、東京の本郷で貧苦に喘いでいた石川啄木の耳に届いた。その怒りに共鳴した啄木が詠った歌が――

 東海の 小島の磯の白砂に われ泣き濡れ手で粟

 ――である。


 これだけ暑いと、太陽が地球のすぐそばにあるように思ってしまうが、実は、八千万海里以上も離れているのである。
 地球をピンポン球くらいの大きさだと仮定すると、太陽の位置は、あそこに立っている杉山さんのいるあたりになる。それほど離れているのに、こんなに暑い。

 つまり、太陽を中心とした半径八千万海里以内の宇宙空間は、夏の間はどこもかしこも暑いのだ。
 だからこの時期に有人衛星を打ち上げるのには反対である。あんな物々しい宇宙服を着て、真夏の宇宙空間で船外活動なんかしていたら、変な精神をもった人間になってしまう。
 せめて夏が終わり、太陽の活動が沈静化し始める時期を選んでほしいものだ。


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 今回のコラムを読んでいただくにあたって伺いたい。読者諸賢は《モンティ・ホール問題》という言葉を耳にされたことがおありだろうか? 確率論の問題らしいのだが、今回の内容とは何の接点もないので、興味のある方だけ、調べるなり調べないなり好きなようにしていただければ結構である。


 いやしかし驚いた。
 
 昨日のことだが、仕事の帰り、南海本線の電車に乗ると、座席がひとり分だけ空いているのが眼に入ったので、ヘッドスライディングをして席を確保。やれやれ今日もしんどかったなと溜め息をつきながら腰掛け、おもむろに顔をもたげると、向かいの座席にいる7人全員がスマホを見ているではないか。

 スマファー(造語)が七人も一列に並ぶなんて! 

 惑星直列を目撃したような驚愕を覚えて顎の関節がはずれた。
 私は何かというとすぐに顎がはずれるのだ。今年のプロ野球日本シリーズ第5戦で、阪神タイガースの打者が走塁妨害の判定でアウトになって優勝を逸した時も顎がはずれた。自販機でコーヒー1本分の硬貨を入れたのに、2本出てきた時もはずれた。

 顎がはずれると顔の長さが倍になる。それを見た7人の乗客たちはみな眉をひそめて、一斉に言った。

「あんたなあ、今どきこんなん普通やで。みんながガラケー見とったら、そっちの方がびっくりするやろ」

 やや問題のすり替えがあるように思えたが、なにしろ顎がはずれているので、何も言えず、「あーあー」と言いながら頷くことしかできなかった。

 堺駅で降りてからも、このみっともない顔のまま、溢れた涎がだらだらと流れ落ちるにまかせて家に帰ったものだから、涎に含まれるオゾンに反応して、無数の業者が自宅までついてきた。

 それに気がついたのは、マンションの18階にある自宅の玄関ドアを閉めた後で、すでに業者の群が家のなかに入り込んでしまっていた。そして冷蔵庫から発泡酒を出して飲んだり、掃除をしたり、畳をむしったり、洗濯物を取り込んだり、好き放題をし始めた。


《ほう、新刊が一冊もありませんね!》

 本棚を隅々まで眺めていた業者が言った。彼らはみなテレパシーで話しかけてくる。だから私の考えも読み取ってくれるので、顎がはずれたままでも会話ができるのだ。

 たしかに私の蔵書といえば、ほとんどが古本屋で買ったもので、著者もすでに歴史の人となっているものが多い。
 私が古典の鑑賞を愛するのは、あまねく知られているものでありながら、まだ自分自身は見たことのないものをその眼で確認した時に似た感慨がそこにあるからである。

《ほう、古典を紐解くことの価値を普遍的な概念で説明するわけですね!》

 私がパリで、ヴェルサイユ宮殿を初めて見た時(フランスには行ったことがない)、嗚呼これがベルばらか、嗚呼あれがオスカルか、と胸が打ち震えた、あのときの感慨に似ている(ベルばらは読んだことがない)。

 また、中国で北京観光をした時(中国にも行ったことがない)、天安門広場を見て、民主化を要求する若者たちの希望と肉体が戦車によって圧し潰された現場はここか、と当時のニュース映像が脳裏をよぎった時の感慨に似ている。

《ほう、グローバルな視点ですね!》

 また時には、この本を若い頃に読んでいれば、いまの自分はもう少し違っていたはずだと、過ぎ去った時間を取り戻そうとするかのようにして読むのである。

《ほう、死んだ子の年を数えるようなものですね!》

 その時、台所のガスコンロの上で天ぷらを揚げていた業者が、ゴキブリを殺そうとスタンガンで放電したため、煮えたぎる油に引火させてしまい、炎が天井まで吹き上がって、たちまち台所が火の海になり、爆発音とともに私のいる居間にまで一気に燃え広がってきた。


 昨年、私は、メルマガ『日刊デジタルクリエイターズ』編集部のご厚意で、電子書籍を出版することができたわけだが、これが永吉の遺作ということになったら、あまりにも私が可哀想なので、焼け死ぬ前に、今度は書き下ろしで出版しようと思った。

 そこで、無料の EBUP 編集ツールである Sigil (シギル? シジル?)をダウンロードして、自家薬籠中のツールとすべく習得に励んだのだが、バージョン 0.7.2 を使っていたら、0.7.4 が出たのでバージョンアップして起動しようとしたら《予期しない理由で終了しました》というメッセージが出た。火がそこまで迫っているというのに、なってこった。

 ちなみに、私の Mac の OS は 10.7.5 だが、このバージョンだとエラーになるのだろうか。Sigil の次のバージョンが出るのを待つか(というか、出るのだろうか?)、Calibre など他のツールを試してみるしかない。

 しかし、起動してもいないのに《終了しました》とは横柄なソフトである。交際してもいない女に、「別れましょう」と言われたような気分だ。

 とりあえずは、旧バージョンを使うことにして、Sigilの練習を再開したが、どうも腹の虫が治まらない。

「貴男とはもうやつていけないわ。別れませう」……旧制高校時代、女工のタツヱにそう言われた時のことを苦々しく思い出していた。

「勘違ひするなよ。1度セクスをしただけぢやないか。それを、ステデイな関係になつたんだと君が勝手に思ひ込んでゐるんだらう」
「わからないの? 私達の愛はサドンデスなのよ!」

 意味がわからない。


 家中のものを燃やし尽して火は消えた。出版は間に合わなかった。業者たちはすでに炭になって、あちこちに転がっていた。
 私も炭になって転がっていたところ、炭になった電話機が鳴った。マンションの管理事務所からだった。

 顎がはずれているので、「もしもし」の代わりに「あー」としか言えなかったが、苛立った様子の管理人はお構いなしにしゃべり始めた。

「永吉さん。居住者台帳の提出、期限すぎてまっせ。……こない言うたらなんやけど、管理組合の総会の出欠の返事にしても、工事の承諾書にしてもなんにしても、提出期限が過ぎて、いつもこっちから催促せんと提出してもらわれへんの、どないかしてもらえまへんやろか」
「あ、あーあ」

 私はあわてて、炭になった公共料金や固定資産税などの督促状の下から、炭になった居住者台帳を探し出して、炭になったボールペンで記入して、1階にある管理事務所に持って行った。

「わははは。こらまた永吉さん、えらい炭化しはって。前も後ろもわかりまへんがな。この時期になると、業者が家に入り込んで好き勝手しよりまっさかいな。とくに天ぷら揚げる業者には気ぃつけなはれや。絶対にスタンガン使わせたらあきまへんで」
「あーあ、ああ。あーあ」

 電話では怒っていた管理人だったが、私が炭化しているのを見て気持ちが和んだ様子だった。こういう感情の移り変わりの早い人は、どこか微笑ましく、決して嫌いではない。

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 今回のブログは、いつもに比べてまともなことが書いてあるので、ナンセンスもサスペンスもエッセンスもありません。


 先月58歳になった。57歳までは憚っていたが、これで吾輩はアラ還であると公言してもいいだろう。

 50歳になった時、「50歳マニュアル」というコラムを「日刊デジタルクリエイターズ」というメルマガに載せたが、それからもう8年にもなるのか。早い。早過ぎる。50過ぎてからは、8年も1年もあまり変わらないな。

 ところでウナギという、にょろにょろした魚をご存知だろうか? 
 日本人ならみな土用の丑の日にはウナギを食べているはずだから、蒲焼きを思い浮かべれば、ウナギとはどのような魚なのか、あるていど想像がつくはずだ。

 蒲焼きはどうでもいいのだが、ウナギは生殖がすんだらお役御免。あとはくたばるだけ。種のお役に立てなくなれば、従容として海の養分となり、水棲生物の仲間たちに恩返しをする。潔いではないか。

 ところが人間はド厚かましいから、生殖能力がなくなっても、労働ができなくなっても、周囲の負担になってもノウノウと生きている。しかも、死んだあとも骸は棺に、遺骨は骨壷に収められて墓に入り、大地の養分になるのを拒否する。どこまで因業な生き物なのだろう。



 加齢による精神的および肉体的な衰えといえば、自分にもいろいろと思い当たる点があるが、最近とみに感じられるようになったのは気力の衰えだ。こいつに身を任してしまうと、ただでさえ怠慢な私は、メルマガに月1で連載している記事すら書けなくなってしまうだろう。

 かつては毎週記事を連載していた。しかも週に3~4日の非常勤講師の仕事をこなし、自身の作品を制作そして発表しながらの連載だった。同じ自分とは思えない。
 当時は気力なんて意識していなかった。書いているのが楽しかったから書いていた。気力とは、それが衰えてきたときに初めて意識できるようになるものなのだろう。

 スポーツ選手が引退会見で、気力の低下を引退の動機に挙げるのを何度も見ている。いわく「粘れなくなった」「負けても悔しいと思わなくなった」「優勝することへの執着がなくなった」など。

 私も、かつて書いていたものと現在書いているものを比べると、粘性がなくなってきたような気がする。低カロリーで塩分控えめ、歯に負担のかからない、消化しやすい内容になっておりますので、ご高齢の方にも安心してお召し上がりいただけます。



 無名の作家が創作活動を続けるにはたいへんな気力が要る。なにしろ売れるかどうかわからないもののために膨大な時間と労力を費やすのだから。
「継続は力なり」に希望の囁きを聴き取れるのは、せいぜい40代まで。60近い無名の貧乏作家にとって、それは溺れるものが掴む藁でしかない。

 気力が衰えたというのと、やる気を失ったというのは違う。
 やる気はきっかけしだいで回復することができる。しかし気力の衰えは、体力の衰えに加えて本来の性向、人生観、生活環境などが作用しあって起こるものだから、冷水摩擦をしながら、精神一到何事か成らざらん! と唱えれば回復、というわけにゃいかんのだ。

 だいたい、精神一到うんぬんは私の芸風にそぐわない。同世代人びとの心を希望の光で満たすようなことを書いて、読者を失望させるつもりは毛頭ない。



『死にたくないが、生きたくもない。』(小浜逸郎著・幻冬舎新書)を読んだ。タイトルが気に入ったので買った。この本の著者も出版当時、アラ還(59歳)だった。

 この本のタイトルはアラ還男性の心を共振させるような響きをもっているのかもしれない。
 私の心境にもっと近い表現をするなら、「死ぬのは怖いが、生きているのも面倒だ」といったあたりになるだろうか。

 還暦を迎えると、60通りある干支のなかで、自分が生まれた年の干支(私は丙申=ひのえさる)と同じ干支に「還る」ことになる。
 だからまた赤ちゃんに還りまちょうね、というわけで、赤いちゃんちゃんこなんか着ちゃったりして祝っちゃったりするのだ。

 しかし、60歳というのは、店をたたむ準備をするには早過ぎるが、店の拡張を計画するのもいささか億劫な年齢だ。
 そんな中途半端な年齢の前後にいるということが、アラ還世代を「死にたくないが、生きたくもない」心境にさせるのかもしれない。

 この本の著者が推奨する、老いに逆らわない「枯れるよう」な死に方はまさに理想だが、やはり理想は理想だ。たとえ枯れていても生きている限りはお金が要るわけだから、私のように蓄えがなく身寄りもない人間は死ぬまで働くしかない。まだ箱の底にこびりついている気力の残滓をかきあつめるしかない。

 だからといって、体力に頼る仕事はそろそろ限界。となると結局アレしかない。アレで食べていこうなんて無謀極まりないが、体力労働ができなくなったボンビーアラ還の私に残っているのはアレしかないことは、読者諸氏にもおわかりいただけるはずだ。

 案外、アレがうまく行きそうだと思ったとたんに「もうしばらく死にたくない、できたら長生きしたい」に変わるかもしれない。

 来年か再来年、アレが納得できる結果を出したら吹聴してまわるつもりだが、もしも失敗に終わった場合、それなりの覚悟はできている。そのときは……また皿洗いを始める所存である。

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 私は海鼠紅一也(なまこべに・かずや)と申します。今回の記事は永吉さんに代って私が書かせていただくことになりました。よろしくお願いします。

 さて、ことの次第ですが、永吉さんのお友達が経営する「ゾガヴェグズ」というパブが大阪市の谷町にあって、私はそこの客でした。元気だった頃の永吉さんは毎日のように店に通っては鯨飲していたようなのですが、病を得てからは、月に一度か二度顔を出す程度になり、私と親交をもつようになった時分には、ほとんど飲めなくなっていました。

 永吉さんがゾガヴェグズに現れなくなってから三か月ほどしたあるとき、私がカウンター席でひとりで飲んでいると、背後でジャリジャリという音が聞こえてきました。この店の床には玉砂利が敷きつめてあって、それを踏む音で、客が来たことを知らせる工夫になっていたので、私はとくに気にしなかったのですが、アルバイトの女の子の「何してはるんですか?」という声で振り向くと、永吉さんが玉砂利のうえを這いながら店の中に入ってくるところだったのです。
 永吉さんが、私を見据えたままオオトカゲのように這い寄って来るので、気味が悪くなって立ち上がろうとすると、彼は話がある、と言いました。
「ひとつ頼みたいことがあってなあ、聴いてくれへんか?」
「そら、聴きますけど……家からずっとここまで這って来はったんですか?」
「そや。わしは世捨て人になろうと思てるんや。人の行き来するところに出て行くときは、なるべく目立たんようにせんならん」
「普通に歩くより、よっぽど目立つと思いますけど……まあ、ともかく起きてくださいな。話しにくうてしゃあない」



 自分には子供がいないから、自分が存在した証を残すことができない、それに何の功績も上げていなので、死んだらたちまち忘れられてしまうのが寂しい、遺伝子も功績も後世に伝えられないのなら、せめて名前だけでも残したい、そんなわけで海鼠紅くんに「永吉克之」を襲名してほしい……それが永吉さんの言いたかったことなのです。

「襲名すると何かせんならんのですか? 戸籍とかどないなるんです?」
「いやいや、改名するんとちゃうねん。十二代目市川団十郎かて、堀越夏雄っちゅう本名があるやろが。ゆうたら、芸名を継ぐみたいなもんやな」
「ほんなら日常生活では、本名の海鼠紅一也でええっちゅうことですか?」
「もちろんやがな。いっこも難しいことあらへん」
 そんなわけで、私は二代目永吉克之となることを承諾し、先代の永吉さんは、後で連絡すると言って、また地面を這いながら帰っていっていったのでした。



 その後、先代はまったく、ゾガヴェグズに顔を見せなくなりました。後で連絡するなんて言っておいて電話一本よこしません。こちらから連絡をしようにも、隠れ家だからという理由で、二代目の私にすら居場所も電話番号も教えてくれません。メールアドレスは知っているのですが、家の住所とメールアドレスは磁石のN極同士どうしのように反発しあって、爆発する危険性があるから決して送ってはならない、と訳のわからないことを言うのです。
 とはいえ、日常生活では、二代目の名前を使うと混乱を来すので、ずっと海鼠紅一也で通していました。それに芸能人じゃないから襲名披露をすることもないので、名前を継いだ後も、それ以前と何ら変わりのない生活をしていましたが、あまりに何も変らないので却って不安になりました。

 家族四人で夕食のテーブルを囲んでいるときでした。小学生の子供がふたりいるのですが、兄弟が口をそろえて噛みついてきたのです。
「おとうちゃん、永吉とかいうおっさんの名前を継いだて言うてたけど、永吉みたいな変な前になんの、ボクいややで」
「そや、いじめられるからボクもいやや! おとうちゃんきらいや、わー!」
「泣かんでもええがな。お前らは関係ないねん。海鼠紅害吉、海鼠紅狂仁のままでええねん。心配すな。おとうちゃんかて、普通の生活では本名のままや」
「へぇえ。ほんなら二代目永吉克之はどこで使うん? 普通の生活やないとこてどこのこと?」
 誰に似たのか、長男の小賢しい口振りを、さすがはわたしの子だと言わんばかりの惚れ惚れした眼つきで眺めていた妻が口をはさんできました。
「ほんまそうやわ。日常生活以外の生活て、どこにあんの。なあ」
 私は返答に窮したまま、無言で食べ終わると。さっさと食卓を離れました。背後で、長男がケケケ笑う声が聞こえました。



 二代目の名前を使う機会がないまま一年が過ぎたころ、先代から通天閣の写真が載った絵ハガキが届きました。隠遁者が通天閣に行くはずがないから、たまたま家にあった絵ハガキを使ったにちがいありません。宛名は本名の海鼠紅一也になっていました。でないと届かないからでしょう。それと、差出人は名前だけで、相変わらず住所は伏せてありました。

「引き継いだ名前をどこで使えばいいか分らなくて困っているのではないかと思います。私のブログに記事を一本書かせてあげますから、そこで名前を使ってください」

 内容はそれだけで、何をどう書けばいいのか説明がないのです。まったく不親切な人だなーとブツブツ言いながら、検索して、先代のブログを見つけ出し、それを参考に手探りで書いたのが、今回の記事です。なんとか先代の名を貶めないようなものにしようと工夫しましたが、結局、ここに到るまでの経緯を書いただけになってしまいました。どうかご容赦くださいますよう、読者の皆様にお願いします。〈二代目 永吉克之〉



 ところで、今回の記事は本日4月22日(木曜)に投稿されました。したがってそれ以降の出来事はすべて未来形でお話しなければなりません。

 投稿した翌々日、先代からまた絵ハガキが届きます。今度は、道頓堀の夜景が載っていますが、写真の側にまで殴り書きしてあって、ひどく興奮しているのがひと目で分るでしょう。そこにはこんなことが書いてあるはずです。

「海鼠紅おまえに書かせても下らんもんしかできんのは分ってたけどせっかく二代目の名前を使うチャンスをくれてやったのにその名前に泥を塗るような真似しやがってどーゆつもりじゃこの恩知らずが飼い犬に手を噛まれるとはこのことでおいぜんぶめちゃくちゃになってしもたからでそれは曇りのいゆだだてそそかえらひらだふ……(以下、解読不能でしょう)」

 その便りを読んだ私は、はたして自分がまだ二代目と認められているだろうかと気になるでしょう。ブログの方はその後も、先代が隠遁者でありながら投稿し続けているでしょう。そして、先代のイメージをすっかり傷つけてしまってたことで、まったく申し訳のないことをしたものだと、私は慚愧の念に苛まれていることでしょう。
 ところがしばらくして、実は先代が、1年余り前、最後にゾガヴェグズで私と会った次の日に、自宅で脳卒中で倒れ、発見されたときにはすでに白骨化していたことを知って驚くと同時に、それではいったい誰がブログを投稿したり、私を罵ったりしていたのかという謎が生まれるでしょう。しかも、依然として先代のブログには、記事が投稿され続けているでしょう。
 誰がどうやって投稿しているのか、さまざまな憶測が飛び交うなか、先代がペットとして飼っていた九官鳥が記事を書いているという噂が広まり、九官鳥は二代目永吉克之と呼ばれ、全国に知れ渡るでしょう。しかし本来の二代目である私が書いているのではないかなどとは誰も思わないでしょう。私は何のために二代目を継がされたのか、さっぱり分らなくなるでしょう。

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霊体験のない人は生涯に1度も体験しないが、ある人は何度も体験するらしい。それが、霊体験とはそういう傾向をもった脳が見せる幻影だとする根拠を脳科学者たちに与えることになる。
実を言うと私も霊体験と言えるものがあるのだ。しかし20代のころに1度あるだけ。だから「そういう傾向をもった脳」をもっているとは考えにくい。それに、あまりにもリアルで、あれが幻影なら、私の人生は全て幻影だったと言わなくてはならない。



まだ30歳前だった。東京に住んでいる頃で、当時なら、名前を聞けばたいていの若い人は、ああ、あの学校ねと、すぐ思いついて自然と微笑んでしまうほど有名な専門学校で美術の講師をしていた。
生徒のほとんどは高校を出てからすぐに入学してくるのだが、M子は4年制大学を出て、しばらく百貨店でOLを経験してから、25歳で入って来た。受講態度から言葉遣いから身のこなしまで、まだ子供の生臭さを漂わせている他の生徒とは明らかに違っているので、私はかねてからM子に関心をもっていた。
しかし、それだけに教室を支配する年齢層が作り出す雰囲気に、彼女はなかなか溶け込めず、孤立しがちで、休憩時間になって生徒たちが談笑している間も、休んでいる時間が惜しいかのように、今習ったところのおさらいを黙々としているような生徒であった。

当時は個人情報が、現在のように厳しく管理されることがなく、私のような非常勤講師でも、生徒の親の職業まで簡単に知ることができた。だから彼女と私の年齢が近いことや、同じ保谷市(現在の西東京市)の住人であること、趣味も似ていることなど、共通部分が多いことを知って、個人的に話をしてみたいと思っていたら、ある日の授業の中休み、他の生徒たちがみな休憩室に行ってしまった後、教室に彼女とふたりきりになったことがあった。
彼女の周辺のことをいろいろ知っているのを不審に思われてもいけないと思い、ふたりして黙り込んでいるのもアレだから、というような口調で「どこに住んでるの?」と聞いてみた。当然「保谷です」と答える。「え、保谷? へえ、僕も保谷。で保谷のどの辺?」としらじらしく驚いて見せたのをきっかけに、彼女は積極的に自分のことを話し始めた。
寡黙だと思っていたM子だったが、本性は話し好きだった。世代の違う他の生徒たちの話題について行けなかったのだ。それに仕事で接客を経験しているだけに、会話の受け答えにもそつがなく、むしろ彼女の方が私に関心をもっているかのような態度で話すのだった。
私は彼女の容貌には関心がなかった。実際、容貌は並か、並以下かもしれない。しかし自分が受け持っているクラスの生徒というのは、一部のふざけたサル以外はだいたい可愛いもので、学ぶことに熱心で、慕ってくる生徒は特に可愛い。しかもそれが女性だったりすると、教え子としての可愛さと異性としての愛おしさの境界があいまいになってくることがあるのだ。



秘密裏の交際が始まって1年近く経った。
M子は両親と住んでいたので、こちらから電話をするのは難しかった。だから逢う約束をするには彼女からの電話を待つか、週に1度、私の授業のある日にこっそりメモを交わすしかなかったのだ。ケータイなんて便利なものがない時代だった。

ある日、私のアパートでのことだった。M子と諍いになることは、めったになかったのだが、その日は激しい口論になった。自分の行動に私がいちいち干渉するのが厭だと彼女が言ったのがきっかけだった。
2~3日連絡をしないと、何をしていたのかと問い詰められる、映画を観に行った話をすると、どうして僕に黙って観に行ったのか、誰かと一緒だったのかなどと執拗に聞かれる。それが厭だと言う。
口論がエスカレートして、彼女は別れると言い出した。誕生日にプレゼントしたネックレスをはずして私に投げつけると、待ってくれと懇願するのも聞かず、部屋を出て行こうとしたのでM子は死んだ。

彼女は顔面を紫色に鬱血させて、仰向けでベッドに横たわっていた。
私は、半開きになった彼女のまぶたを閉じてやり、突き出している舌を押し戻して口を閉じてやった。むくんだ顔が見るに耐えなかったので、頭を反対側へ転がして顔を向こうの壁に向けさせた。

私は、M子との口論の一部始終を思い出しながら何時間も坐り込んでいた。
ときどき彼女の胸に耳を当てて、心臓が動き出していないか確かめた。しかし瞳孔を確かめる気にはならなかった。恐怖と苦しみにのたうち回っている間の彼女の、あの狂った眼つきが頭から離れなかったからだ。しかし体が硬直し始めたのを見て、やっとその死を受け入れられるようになった。そして私は現実的にものごとを考え始めた。つまり、横たわっている遺体をどうするかということである。

もう零時近くになっていた。私は、部屋の灯りを消し、開いた窓によりかかって、遠くの、街灯に浮かび上がっている人気のない通りを眺めながら考えていた。
25歳とはいえ、娘の帰宅の遅いのは両親としても気がかりだろう。それに葬儀屋の手配もある。早く家族に連絡をしてやらなければならないのは分っていたが、それはできなかった。彼女が死んだのが私の部屋だったからだ。
学校の方針で、講師と生徒の個人的な交際は禁止されていた。ましてや女子生徒と恋愛をしたとなると、免職処分は間違いのないところだった。
そうならないためには、遺体を処分して、彼女が失踪したことにするしかない。とはいっても私には車がなかった。怪しまれずに遺体を捨てに行くには、どうしても車が要る。ならば、やはり解体して数回に分けて川にでも捨てるか、トイレに流すか、あるいは食べてしまうか以外に方法はなかった。
私は、まったくとんでもないものを背負い込んでしまったものだと絶望的な気分に陥っていた。バラバラ殺人と呼ばれる事件の犯人たちも、やはりこんな追いつめられた気分になったのだろうか。

しかたない、解体しようと言ってベッドの方を振り返ると、M子がこちらに顔を向けて、私をじっと見つめているのが月明かりのなかに見えた。今にも泣きそうな眼だった。



死後硬直までしていた屍体が、何の外的な力も加えられず、自律的に動いたのだ。これは事実である。脳が見せる幻影などでは決してない。人類がみな潜在的にもっている、予備の回路とでもいうべきものが起動して、M子を動かしたのである。
映画『ターミネーター2』で、シュワルツェネッガー演じるところのT-800というアンドロイドが、それよりも高性能のT-1000にとどめを刺されて、いったんは機能を停止するが、予備の回路が起動して蘇生し、T-1000を打ち破る。それと同じ現象がM子に起こったのだ。ただ、私を打ち破るほどのエネルギーではなかったというだけの違いだ。
自分が解体されようとしているのを察知した彼女が、防衛のために、予備回路を使って泣き顔を作り、私の良心に訴えようとしたのかもしれない。解体している最中もその表情は変らなかった。切り刻まれながら訴え続けていた。今にして思えば哀れではある。

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