エッセイでも小説でもルポでも嘘でもなんでも書きます
無名藝人



 
 一昨年のことだ。失業中で、ひどい腰痛が何週間も続き、まともに歩くこともできないところに、トラブルに巻き込まれて大金を失うという事態が重なり、こうなったら乞食に身を落として、神様にあてこすりをしてやろうと、やけくそで思ったことがある。
 しかし近年、乞食というものを見なくなっていたので、手本がなかった。乞食をするのに手本などと思われるかもしれないが、通行人に、恵んでやろうという気を起こさせなければならないのだから、やはり芸は要る。生きた手本がないのなら、記憶のなかの乞食を手本にするしかないわけだが、最後に見たのが、もう30年以上も前のことだった。

 頭は薄いが真っ白なヒゲは伸ばし放題。晩年のトルストイを彷彿させる風貌をもった年輩の男性が、戎橋(例のグリコの巨大電飾のそばにある橋)の上で往来を睥睨していた。背後の欄干には、彼の主張らしきものを大書した紙が張ってあった。主張の内容はよく覚えていないが、戦争(だったか事故だったか)で負傷して働けない体になったのに、国はろくな補償もしてくれないんだよ、国のために身体を張った代償がこれかよ、というようなことだったと思う。たしかに、不自由そうな片脚を投げ出して座っていた。
 しかしこの、民衆の共感を誘うスタイルは採用できなかった。私には、そんなプロテストをする対象がなかったからだ。私が乞食までしようと思ったのは、誰のせいでもない。偏に私に甲斐性がないからである。

 乞食の手本としては、もうひとり心当たりがあった。トルストイと出会う以前のことで、別の場所で見たのだが、こちらの方がよく覚えていた。もし真の乞食というものがあるとするなら、彼こそがそれだろうと思えた。名を仮にゴーリキーとしておこう。
 ゴーリキーも年輩の男性で、施しを頂戴する空き缶を前に置き、往来に向かって、土下座をしたまま置物のように動かなかった。それが彼の「主張」の全てだった。しかし、まさにそれが、巧まざる主張、言葉なき主張、そして無芸の芸となっていたのである。私の耳には彼の言葉が聞こえた。

 わたしには、お金を恵んでいただいてお見せできるような芸はございません。ただただ、このように伏してお願いするだけでございます。惨めな奴だ、汚い奴だと蔑んでください。わたしは皆さまのお情けに縋って生きるしかないのでございます。哀れだと思って、どうか、お金をください。

 物乞いに対する姿勢という点で、ゴーリキーとトルストイとで明らかな違いがあることは身なりで判る。トルストイが、上半身は垢だらけの裸。下は油染みのついたジャージに裸足という、典型といってもいい格好であるのに対して、ゴーリキーは、鮮やかなピンクの地にキャラクターの入った、女子中学生が着るような可愛いデザインのTシャツに、下はジャージに革靴という、トータリティを度外視した格好だった。
 Tシャツだけが、やけにきれいで、他はボロボロという、このアンバランスなコーディネイトが、言葉よりもよほど雄弁に彼の境涯を語っていた。たまたまどこかで拾ったか、もらったか、それとも盗んだか、可愛いTシャツ。それしか着るものがなかったのだ。彼の一張羅だったのだ。もし通行人の同情を集めようという意図があるのなら、そんなものを着ようとは考えないだろう。

 このように、躰以外の何もかもを失った男が、乞食という惨めな立場に身を落としても、なんとか生きて行こうとしている姿を思い出すと、気に入らないTシャツは着なくてもいい身分の私には、乞食はできないと思った。



 昨年、メールマガジンのライター仲間を交えての飲み会が道頓堀界隈であった。その待ち合わせ場所に向かう途中、私はふと、ゴーリキーがいつも土下座をしていた場所に寄ってみようという気になって、30数年前の記憶を頼りに、見覚えのある橋にたどりついた。道頓堀川が東横堀川と名前を変える辺りにあるその橋の上で、ゴーリキーは相変わらず土下座をしていた。
 Tシャツはピンクではなく紫色で薄汚れていた。少なくとも可愛くはない。また、伏せた顔を近くからよく見ると、皺もなく、思っていたよりもかなり若い。四十前後に見えた。そして、痩身だと思っていたが、背中や腹に触ってみると、指先に贅肉のぶよぶよした抵抗感がある。食べるものには困っていないらしい。とにかく記憶のなかのゴーリキーとは印象がずいぶん違っていた。

 私は知らないうちに、記憶を脚色していたのである。「真の乞食」という偽善的な理想型を勝手に作って、そのなかに無理矢理ゴーリキーを嵌め込んで、したり顔をしていたのだ。
 彼が土下座をしている姿を見ても、特に感慨はなかった。彼を始めて見たとき、万策尽きた人間が居直ったときの境地を目の当たりにしたような感慨をもったものだが、それもやはり脚色で、そんな感慨などなかったのかもしれない。


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