エッセイでも小説でもルポでも嘘でもなんでも書きます
無名藝人




 われわれの多くがぼんやりと考える「将来」の範囲は、自分自身が死ぬ時までだろう。あるいは子や孫の将来まで含める人もいるかもしれないが、せいぜいそのあたり。その先では、すべての輪郭を曖昧にする「未来」という大気が、われわれの関心を希釈してしまうのである。
 だから、政治への要望も、みな自分が生きている間に実現しなきゃイヤなのだ。50年後の2063年度より消費税を撤廃します、と宣言したマニフェストを見て、その政党に投票するのは幼児か赤ん坊くらいのものだ。

 南鳥島周辺の海底にレアアースが眠っているらしい。またすでに日本近海でメタンハイドレートの掘削に着手しているらしい。
 それを聞いてほとんどの人が、一刻も早く、自分の生きているうちに日本が資源輸出国となって、この大不況からグランドスラム的に脱却できればいいのにと思ったはずだ。私とて、何かと入り用があるので、できれば今月中に資源大国としての日本の地位を確立し、爆発的に雇用を拡大してもらいたい。


 これまで政治家は「ただちに影響のない」問題は解決を先送りにしてきた。自己の存在しない世界、あるいは自分の責任が問われない世界で誰かが何らかの決着をつけてくれるだろうと考えた。尖閣諸島や原発がいい例だ。時限爆弾の先送り。

 今でもあるのかどうか知らないが、子供の頃、アメリカのアニメに出てくるような、真っ黒の球体で導火線のついた爆弾の形をした玩具があった。タイマーがついていて、セットするといつ「爆発」するかわからない。それを数人で手から手に渡すのだが、いずれ誰かのところで爆発するわけだ。それと似たようなことが行われているような気がする。

 政治家も国民も、せめて1000年くらい先までは「将来」に含めて、我が事として真剣に考えるべきである。
 確かに1000年後のことを想像するのは非常に難しい。まだ安倍総理が自民党の総裁の地位にいるかどうかすら予想がつかない。ひょっとしたら、幸福実現党が与党になっているかもしれない。まさに想像を絶する世界だ。
 1000年後には北朝鮮が核弾頭を搭載したミサイルの開発に成功している可能性もあるから、それまでには何としても中断している6カ国協議を再開させなければならない。1000年後も彼の国の権力委譲は相変わらず世襲で、金正恩の息子が最高指導者の地位に就いて、瀬戸際外交を継承することもあり得る。


 では、1000年前の政治家はどうだったのだろう。1013年。日本史年表を見てみる。
 日本は平安時代。「な供養ぐ椅子平安京」から「飯く煮繕う鎌倉幕府」までの約390年のうちで、この年に起こったことは……とくにない。「覚助」という天台宗の僧が生まれているが、ウチは浄土真宗なので、どなた様かは知らない。

 細かいことはどうでもいい。ともかく藤原道長の時代である。朝廷をも牛耳るほどの権力を恣(ほしいまま)にしていた道長、《この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば》などという傲り高ぶった歌を詠んだ道長のことだから、1000年先を見据えて国難に備えるという無私の視点がなかった。
 領土をめぐって中国との確執が深刻化したのも、尖閣諸島の帰属問題を放置していた道長のせいだ。大震災も津波も、それに続く原発事故もみーんな道長の怠慢のせいなのだ。

 私は、道長と権力争いをしていた甥の藤原伊周(これちか)が実権を握っていれば、震災も尖閣も竹島も天保の飢饉も元寇も東大寺大仏殿建立も遣隋使も起きなかったと考えている。
 伊周は若死で、しかも容姿端麗だったらしい。若死(36歳くらい)で容姿が淡麗グリーンラベル(発泡酒・アルコール5.5%)ならもう何でもできたはずなのだ。空も飛べるはずだった。雑菌にも強いから用足しをした後に手を洗わずに食事もできたはずだ。目玉が六つ、鼻の穴が耳元まで裂け、舌が15mもあって、その先端からしたたる唾液は全ての物を金に変えたというから、権力者としての資質は道長を遥かに凌駕していたと考えられるが、いまさら言っても詮無いことじゃ。もうやめよ。その話は聞きとうない。


 それはともかく、われわれの世代なんかもうどうなってもいいではないか。絶滅してもいい。私が許す。時限爆弾はどこにも回さずわれわれのところで爆発させよう。われわれが捨て石となって、将来の世代のために幸福の先送りをしよう。この際、原発とか尖閣諸島とかTPPとかいった眼の前の問題はうっちゃっといて、1000年後の日本に眼を向けようではないか。

 当然、愚かで利己的な大衆は抵抗する。1000年も先の日本人なんて、どこの馬の骨かわからない連中の幸せのために税金を投入するとは What The F…! と怒りの声を上げ、《いま生きている日本人のための政治を!》書かれた横断幕を先頭に、デモ隊が大阪府堺市の旧26号線を1時間にわたって練り歩き、石津川あたりで解散し、酔虎伝の石津川店になだれ込んで、今年のタイガースはAクラスに復帰できるだろうかという、北朝鮮の核ミサイルよりも深刻な問題で熱い議論を交わすことになるだろう。


 私は教育こそ要だと考えている。眼の前の自分の利益より、1000年後の日本の利益に資する人間を育てることが日本を千年王国にするのである。そのためには、1000年後に視点を据える教育が、子供がまだ幼いうちから家庭でなされるべきである。

「1000年先のこと想像してみ」
「うーん。うちゅうじんがいっぱいちきゅうにきてね……」
「宇宙人なんかおらへんねん。あれは前頭葉を病んだ連中がでっち上げたもんなんや。宇宙人が地球に来てるて何十年も前からゆうとるけど、ほんまにおるんやったら、そろそろテレビに出せっちゅうねん。さあ、1000年後はどうなってるんやろ?」

「えーと、せんそうがなくなってへいわに……」
「戦争は絶対になくならへん。人間がエゴイズムを克服せん限りなくならん。国や民族のエゴは個人のエゴを拡張したもんやからな。それにエゴイズムは競争社会の原動力やから克服することはでけん。さあ、1000年後はどんな世界になってるんやろう」

「びょうきがなくなって……」
「風邪を治す特効薬を発明したらノーベル賞もんや、ってよう言われてんねん。病気と医療はイタチごっこで、いっつも病気の勝ちや。病気にノーベル賞やりたいくらいや。病気はなくならん。どや、1000年後は」

「みんながおかねもちに……」
「カネはな、一部の人間に集まるようにできてんねん。もってる奴はどんどん金持ちになって不必要なほど財産を作るのに、もってへん奴はますます貧乏になって必要なもんまで失うような仕組みになっとる。正味の話が」

「……」

「そういうもんやねん、世の中。1000年経っても10000年経っても変わらへんねんて。なんでかゆうと人間はみんな孤独やからや。自分の痛みは他人にはわからへん、ほんで他人の痛みは自分にはわからへん。そやのに自分の痛みを他人がわかってくれへんゆうて怒りよる」

「……」

「そやけど、救いがないわけやない。その鍵はジャイアンツや。昨シーズン、タイガースがBクラスに落ちたその痛みを原監督が理解して、目障りな主砲の阿部をパリーグに放出したら、千年王国のへの第一歩になるがな」

「……」

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 以下は、2004年、メールマガジンに掲載した記事に加筆したものです。

             ■□■

「ホントはもっとできたんですけど時間がなくて、へへ」
 これは、よく耳にする言い訳である。拙さを弁護するには手ごろな口実なので重宝されているようだ。

 たしかに、自分が納得のできない制作物を、不本意ながら人前にさらすときは言い訳のひとつもしたくなるのが人情ってえもんである。正直なところ私も「時間が…」には、ずいぶん世話になった。
 CG制作を専門にしていると言うと「おお!」と礼賛されていた時代、「このソフトがまたバグだらけでねえ、どうしてもこうなるんですよ。まったくメーカーもしっかりしてもらいたいもんですな」とハードやソフトに、よく罪をなすりつけたものであるが、今ではこれは通じないだろう。いい時代だった。
 それはともかく、
「そうか、でも時間がなかったにしてはよくできてるよ、大したもんだ」
 と歯の浮くようなことを言ってくれるのは、親か隣家の奥さんか、人間関係に波風を立てるのを好まない人くらいのもので、相手がクライアンだったりなんかしたら、
「……困るんだよね、自信をもてないようなモンもってこられても」
 と、嫌味を言われたうえに信用を失うことにもなるので、時間がなくて、は禁句である。もし、
「ほー、じゃ時間をやるから完璧なものを作ってこい」
 と突っこまれたら、目を白黒させるしかない。仮にこれが事実であり正当な弁明であったとしても、実情を知らない相手には、その場しのぎの言い訳にしか聞こえないのだ。
 言い訳次第で作者のメンツを保つことはできるかもしれないが、目の前にある凡作を秀作にすることはできない。そんな錬金術のようなことがしたければ、話術を極めて相手をマインドコントロールするしかないだろう。

 厳密にいえば相手に落度がないかぎり、いかなる言い訳も理由にはならない。

「マシンがトラブって」
「担当の社員が失踪して」
「台風で自宅が倒壊して」

 なんかもダメだ。もしそれが原因で仕事がパーになって致命的損害を被ったとしても、クライアントを呪うのはお門ちがいだ。マシンのメーカー、失踪者、もしくはその人をそそのかして、いっしょに失踪した妻子のある36歳の係長、台風の上陸を防げなかった気象庁に損害賠償を請求する以外、合法的に補償を受ける手段はないのだ。

 他人の言い訳ほど退屈で不毛なものはない。結局、
「ボクは悪くないよ」
 とアピールするのが目的だから、それによって事態が好転するわけでもなく、誰かが幸せになるわけでもない。たとえば車で人身事故を起こした加害者が、被害者の遺族に「あのときはコンタクトレンズを落として前方がよく見えなかったんです」と説明しても、遺族の心痛は1マイクログラムも軽くならないだろう。



 もう20年近く前のこと、勤めていた設計事務所で、駅ビル構内のショッピングモールの壁面装飾をデザインすることになり、プランを持って受注先の某中堅ゼネコンに行くことになったのだが、ほかにも仕事を抱えていて、ほんとうに時間がなく、疲れた体で徹夜せざるをえなくなった。

 ちょうどコンピュータがスリープするまでの非動作時間を30秒に設定して作業するようなもので、ちょっと気を抜くと、いつの間にか眠りこんで、奇怪な夢を見ては、ハッと目覚めるということを繰り返しながら、麻痺した脳味噌からアイデアを引きずり出すという惨状であった。
 手順が決まっている機械的作業なら、夢うつつの状態でも、条件反射のように手が動いてくれることがあるが、そんな状態で「いいアイデア」をひねり出すなんてアクロバティックな技は私にはない。アイデアの源泉たるべき脳が供給を拒否しているのだから土台ムリな話である。

 そんなわけで、不本意ながら「あんまりよくないアイデア」をふたつ、プレゼンボードに貼ってもって行くことになったのだが、時間がなくてこんなんしかできまへんと言うわけにはいかないので、ここは開きなおって、
「このデザインはいい。誰が何と言おうがいい。ああ、いい!」
 という芸術家的スタンスで言い張ることにした。多分、徹夜で脳内麻薬が分泌されて胆がすわったのだろう。そして、まったくふざけたクライアント野郎だ、と逆ギレしながら先方の会社に大股で乗り込んでいった。

「この形、何か意味があるんですか?」
「そーんなもんあるか。こういうフォルムがあの場所にはマッチするんだよ」
「んー、この部分の施工が難しそうですねえ」
「ああ、そう」(面倒くさそうに、耳の穴を掻きながら)
「それにコストもかなりかかりそうだな」
「だったら、どうしろってんだい」
「だから、この辺りの形、もっと単純になりませんかね?」
「バッカだな、おま。そんなことしたら、こういうデザインにした意味がねえじゃねえか。寝ぼけてんじゃねえよ、このコンニャク野郎」
「……」
「こういうクラシックなイメージでは細部が大事なんだよ、このザリガニ野郎」
「……」
「黙ってねえで、ワンとかニャンとか言ってみろ、このスピロヘータ野郎」
「ホーホケキョ」

 やや口調がデフォルメされてはいるが、まあこんな意気込みで話したのだった。結局そのデザインは採用されなかったが、プランに対する報酬は支払われた。担当者が図面屋さんで、デザインに関しては素人だったというのも幸いしたが、レトリックは一切使わず、過剰なまでの自信でゴリ押ししたのが功を奏したの……かどうかは私もわからない。

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