私は来年、還暦を迎えるのを機に変な精神になる。
私が60歳になるのは来年の3月。そのためには今月、あらかじめ59歳になっておく必要があるので、今月、59歳にするが、59歳にするために、いま58歳をしているようなものかもしれない。
実は今月、私は59歳になるのだ。59歳になったら、60歳になって変な精神になるために59歳になったら準備をしておかなければ60歳になって変な精神になることはできかねるらしい。
*
冒頭で紹介した親友の立入真澄も、60歳になってから変な精神になった。フグ爆弾のことを想ったりしながらベッドに横たわって天井を愉しそうに眺めている彼を見舞いに行った。
「おーい、永吉。おーい、火駒。この二つのうち、どっちが気に入ったかね? 何を迷っているんだ。さあ早く答えたまえ、君」
私はそれに答えずに尋ねた。
「立入。僕は君のような変な精神の人間がなぜ紡績工場を経営することができるのか、さっぱりわからんのだよ」
立入真澄は、真っ赤(RGB=255,0,0)なちゃんちゃんこを着て変な還暦を祝った翌日、紡績工場の操業を開始したのだが、いきなり始めたため、当初の従業員といえば、弟の洋之助と従姉のハルだけだった。
ふたりは紡績に関してはまったくの素人。紡績機は、操作したことがあるくらいで、実際にはまだ見たことがないというほどの素人だった。
その翌日、工場は閉鎖になり、立入は破産し、禁治産を宣告されたが、59歳まで芸術家をしていた彼としては、
「それは、ノンサンス(仏蘭西語。英吉利語の「ナンセンス」)だな」
と、宣告を拒否したので、現在も操業中であるという。
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すでに頭のなかで実験に成功したと言う「フグ爆弾」が、実用化を検討する段階に入ったと立入は言う。まずは脳内で生産を開始し、それを徐々に、11年かけて脳の外での生産に移行させるつもりだと言う。
「これで戦局が一変するぞ。アメリカが原子爆弾を使用する前に、フグ爆弾で米英軍を壊滅させてやる。ついでにソ連軍も滅ぼす。スターリンが日ソ中立条約を一方的に破棄して満州に侵攻する前に勦滅(そうめつ)するのだ」
私はまだフグ爆弾を見たことがなかったし、見たいとも思っていなかったので、紡績工場に話を戻した。
「紡績工場で働いていたという、君の弟と従姉は、工場が閉鎖になった後でもまだそこで働いとるらしいが、そりゃ本当かね?」
「もちろんだ。閉鎖しても操業中だ。差し押さえの札など神社のお札の価値もないよ」
「そんなことをして誰も文句を言わんのか?」
「言うさ。まず僕が反対だし、弟も従姉も、閉鎖した工場で働くのはもう嫌だと泣いている。早いとこ操業を停止して、ふたりを救ってやりたいんだ」
「わかった。僕が救ってやる」
私が椅子から立ち上がろうとすると、立入が、これを持って行けと言って、女中を呼び、フグを持ってこさせた。
「フグ爆弾のα版だ。だから正式版より威力はかなり落ちるが、それでも爆発すると、半径3km以内に住んでいる人間はみなフグの毒にあたって死ぬ。扱いにはくれぐれも気をつけてくれたまえ。ただ、それだけでは爆発しない。使うときはだな……」
そう言いながら立入は、ベッドの布団から蛇のように這い出すと、猛毒のテトロドトキシンが含まれているフグの肝臓と卵巣を金庫から取り出して、フグに装着して見せた。
「こうしておけば、後は相手に向かって投げつけるだけだ。でも気をつけろよ。落としただけで爆発するからな。敵がいる気配を感じるまでは装着するな」
立入が、誰を指して「敵」と呼んでいるのか判らなかったが、変な精神の男なので、変な話をしているだけだと小馬鹿にして紡績工場に向かった。
*
案の定、敵らしい人物は見当たらなかった。ということは、フグ爆弾を使う機会はないかもしれない。私はひどく失望した。
工場内では、立入の弟の洋之助と従姉のハルが、わんわん泣きながら糸を紡いでいた。朝からずっと泣いていたと言う。終業時刻まで泣き続けるだろう、という見通しを立てて泣いていた。
私が用向きを告げると、立入真澄の素性を、ふたりは泣きながら語ってくれた。
そういえば私と立入とは、1時間前に見舞いに行ったときに初めて知り合った仲なので、その素性については何も知らなかったことを思い出した。
「兄は60になってから変な精神になりました。それまでは変な芸術作品を作っているだけで、言動に変なところはありませんでした。《フグ通信》を発行しはじめたのは、還暦を過ぎてからです」
《フグ通信》とは、立入の精神の中枢が執筆している哲学雑誌で、毎週、金曜に内的発行をしていた。私は難解な文章を読んでいると苛立ちのあまり粗暴になるという性癖があるので購読はしていなかったが、聞くところによると、インテリゲンチャの間では、《よう、フグ通信読んだか?》が挨拶になっているらしい。
私は、フグ爆弾をズボンのポケットから取り出して、洋之助とハルに尋ねた。
「敵がいたら使えと言って、これを渡されたんですけど、敵って何のことですかね?」
私が言い終わるや、洋之助とハルはいきなり泣き止み、滂沱たる涙が逆流して涙腺に吸い込まれていった。そしてハルが言った。
「まあ、永吉様にはまったく失望いたしましたわ」
「失望もなにも、あなたたちに期待されるなんて僕はゴメンコウモリですよ」
「まあ、そんなことを仰るなんて失望の上塗り。なんて変な精神ですの?」
「いや、僕が変な精神になるのは来年なんですがね」
「まあ……」
ハルは怒りに言葉を失っているようだったが、私としては、そんなことはどうでもよくて、このままフグ爆弾を使わずに持って帰るのが悔しかったし、ハルを深く愛していたので、恋敵である洋之助の前に立って、肝臓と卵巣を装着したフグをその脳天に叩きつけた。
立入は、爆心地から半径3km以内にいる人間は、みなフグの毒にあたって死ぬと警告したが、翌日調査したところ、実際には半径40m以内の人間しか死んでいないことが判明した。
こんな体たらくでは、フグ爆弾が実用化されるころには、日本はポツダム宣言を受け入れて事実上の敗戦国となっているだろう、と立入に助言してやるつもりだったが、私は大仏を見るために奈良へと向かった。
東大寺盧舎那仏像(とうだいじるしゃなぶつぞう)。いわゆる「奈良の大仏」である。私は、奈良の大仏のうちではこの奈良の大仏がいちばん好きだ。
毎月第3火曜日に大仏殿に拝観に出かけることが日課になっている。
【東大寺へのアクセス】
JR大和路線・近鉄奈良線「奈良駅」から市内循環バス「大仏殿春日大社前」下車徒歩5分。または近鉄奈良駅から徒歩約20分。
東大寺公式サイト
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