大友主税(おおともちから)は長い間、歌劇団で首席バリトン歌手をやっていたので、声の大きさには、とにかく自信があった。
ところが、あまりに声量がすごいので、オペラ『三匹の子豚』で狼の役をやったとき、三匹目の賢い子豚が建てた、レンガの家まで吹き飛ばしてクビになってしまった。
クビにはなったものの、子供のころから40過ぎるまでオペラの仕事しかしてこなかった主税だ。他にできる仕事なんかあるものかとデスパレートになって、蓄えが底をついても職探しもせずに安アパートで安酒を呷って、垢で真っ黒けになった畳の上でごろごろしていた。
ある夜、電気が止められて暗闇になった主税の部屋に、大家が懐中電灯を提げてやってきた。
「大友さん。何度も言いたくないんだけどさ……」
「はいはい、家賃ね。来月来月。なんとかするからさ」
「だめだめ。そのセリフは聞き飽きた。じゃ、ちょっとお邪魔するからね」
大家がそう言うと、作業服を着た体格のいい男がふたり戸口に現れた。上がり込んで部屋のなかのものを運び出そうとする。
「荒っぽくて悪いけど、大友さん、世の中そんなに甘くないんだよ」
この部屋を追い出されたら、路上生活者になるしかなくなるので、デスパレートな主税もさすがに度を失って、つい素人相手に、アパート中に響きわたるほどの重量級バリトンをマキシマムの声量でぶつけてしまった。
帰れー!
猛烈な波動が戸口に向かって放たれた。大家は、それをまともに喰らって吹き飛ばされ、その勢いで、ビデオを巻き戻すように後ろ向きに疾走して、200メートル離れた自宅の台所まで押し戻されてしまった。
歌劇団をクビになってから何年も経って、全盛期の声量には及ばないとはいえ、長年鍛えた喉には、まだ充分威力があった。
主税は、自分でも何が起こったのか判らなかったが、テーブルを持ち上げたまま唖然としているふたりの作業服の男もなんとかしないといけないと思って、彼らに向かって、やはりバリトンで叫んだ。
帰れえぇー!
ふたり分だったので発声もちょっと長かった。
同じように作業員たちも、乗ってきたトラックの運転席まで後ろ向きに吹き飛ばされ、そのままバック走行して運送会社に戻り、それぞれタイムカードを押して帰宅してしまった。
吹き飛ばされた人がどうなったのか分らなかったが、いつまでたっても戻ってくる様子がない。主税は、自分の声の威力に驚くとともに、当分はこれで、うるさい連中を追っ払えるわいと、ひとまず安心し、湿気を存分に吸い込んで雑巾のように平たくなった布団に横たわった。
翌朝、殴るようにドアを叩く音で目が醒めた。どうせ楽しい話ではないだろうと無視していたが、そういつもいつも居留守は使えないだろうと観念してドアを開けると、やっぱり楽しくない人間が立っていて、計算書をひらひらさせながら突き出した。
「利子だけで、もうこんなになってるぜ、どうする? 腎臓売るか?」
まともな業者にはカネを借りられなくなっていた主税は、この手の連中に借りていたのだ。いつもなら逃げ口上を使うところだが、その日は違った。両手を胸の前で組み、大きく下腹を膨らませるようにして息を溜め込んだ。起き抜けで充分に力が入らなかったが、相手は態度が大きいだけで、華奢な小男だったので、たいして力はいらなかった。
今度はメロディがついていた。「ド・ド・ソ」だった。
帰れ!
しかし男の体重が軽すぎて反発が弱く、強打者がフルスイングしたバットに当たったピンポン球のように、ふわっと浮き上がって落ちると、後ろ向きに、ころころ転がりながら、家まで帰っていった。
その日、他の債権回収屋もやってきた。電気が止められてテレビが見られないのに受信料の徴収係もやってきた。新聞の拡張員もきたし、どういうわけか着付け教室への勧誘まできたが、どちらさまも、得意のカヴァリエ・バリトンで、ご帰宅いただいた。
夕方になって接客も一段落すると、腹が空いているのに気づいたが、醤油と塩と、僅かのコーヒーと、まだ止められていない水道水以外に口に入れられるものは何もなかった。ガスも止められているので、コーヒーを水で溶かして飲んだ。あとはタバコがあれば少しは空腹を紛らすこともできるはずだったが、灰皿をほじくり返しても、フィルター以外の部分が残っている吸い殻はなかった。そこで、近くのバス停の吸い殻入れを漁りにいったが、中には水が溜めてあって、一本残らず沈没していた。
「ほとんど乞食だな」
バス停からの帰り、暗くてよく見えなくなった路上を這うようにして見つけた長めの吸い殻を5本持って、アパートに戻った。自室のドアの前にくると、なかから大勢の声がする。すぐに戻ってくるつもりだったから鍵をかけずにおいたのだ。しまった、と舌打ちをしながら開けると、知らない顔、少し見覚えのある顔があわせて10人以上いて、ストのように座り込んでいた。彼らが6畳一間に隙間なく充填されていたので、主税は戸口に立っているしかなかった。
みな一様に険しい、しかしどこか怯えたような目つきで主税を睨んでいた。代表者らしい中年の男が、主税の顔色を窺いながら言った。
「俺ら、このアパートのもんなんだよ。大友さん、普段から質の悪そうな連中がお宅の前をうろうろしてるけど、何だい、あいつら? たまに、他の住人の部屋に来て、大友はどこにいるんだ、とか、あんた大友の知り合いか、とか聞いて回るってるんだよ。知ってた? それと、昨日から、あんたの部屋から聞こえるものすごい声、あれは何なんだい。俺たち頭がどうかなりそうだよ。大家さんに訴えても、あの声が怖いと言って家から出てこないし、警察に言っても、ひとりの人間が大きな声を出してるというだけでは取り締まりは難しい、とか言うし、たまりかねて俺らだけできたんだ。そこで、頼むよ大友さん。このアパートから出て行ってくれよ」
彼らの言い分がもっともだということは主税も解った。なにもかも元はといえば、デスパレートな自分に原因があることも、頭では解っていた。
しかし、不健康な生活で痛めつけられ、しかも餓えている肉体は解ろうとしなかった。大人数で来たか、よーし、では英雄的なヘルデン・バリトンを聴かせてやろう。今度は短調だ。「ドレミ♭ソド」で吹っ飛ばしてやる。そんな粗暴な肉体の言いなりになって、主税はまた大きく息を吸い込むと、室内の一団に向かって、吼えた。
帰れええええぇぇぇー!
主税の姿が忽然と消えた。
住人たちはそこにいた。背後の壁に押しつけられたような形で縺れあっていたが、みな無事だった。この説明のつかない事態に、彼らは座り込んだまま、互いに顔を見合わせて、しばし言葉を忘れていた。
それから一年経ったが、主税を見たという話は聞かれない。
【作用反作用の法則】
ニュートンによる運動の第三法則。ある物体が他の物体に作用を及ぼすとき、それとは逆向きで大きさの等しい反作用が常に働くというもの。
(大辞泉)
これまでは、室内から戸口にいる者に対して放っていたバリトンを、主税はうかつにも、戸口から室内に向かって放ってしまったのだ。今の彼の声には、住人たちが背にしていたモルタルの壁を破壊するほどの力は、さすがにもうなかったから、その力がそのまま反作用して、彼をはね飛ばしたのだ。
先の例に見たように、主税の「帰れ」を喰らったものは、その命令通り、はね飛ばされた勢いで自宅に帰らなければならないはずだったが、反作用によって、彼が自分自身を自宅から追い出す命令を与えたことになり、それが「自宅に帰れと」いう命令と矛盾し、エラーとなり、主税は消去されたものと思われる。
| Trackback ( 0 )
|