エッセイでも小説でもルポでも嘘でもなんでも書きます
無名藝人




永吉:バイトの帰りやったんやけど、地下鉄の岸里駅で降りて南海本線に乗り換えるために天下茶屋(てんがちゃや)駅に歩いていく途中、いつものルートで帰るのもなんや切ないから、その日はスー玉の裏の道を通ったんや。

永吉:スー玉ってなに?

永吉:60も近こうなって、俺いつまでこんな生活繰り返しとらなあかんねやろて思うと切のうなってな……とにかくトボトボ歩いとったら、きったないビルの前にごっつい立て看板があるのが見えたわけや。

永吉:どんな仕事でも結局は繰り返し。反復作業だもんね。水戸黄門を演じる俳優だって、台詞覚えて、カツラと衣装をつけて、立ち回りをして、8時46分ごろに印籠を見せて、悪い大名や商人を叱責する。その繰り返しさ。

永吉:看板には「つまらなけりゃカネはいらねえ!」とか威勢のええこと書いてあって、なんやろ思て、そのビルの入り口に立つと、その横の壁に《天下茶屋美術館》ゆう札がかけてあったんや。名前は聞いてたけど、まさかスー玉の裏にあるとは思わなんだわ。

永吉:だから、スー玉ってなに?



 このふたりの論客の対談から、気っ風のいい江戸前寿司屋のような美術館に入った永吉さんの体験談がこれから語られるものと読者は当然、期待するだろう。
 入館すると、「っらっしゃい!」というイキのいい声に迎えられる。カウンターがあって、そのなかで板前が手際よく絵を握っている。そんな光景が頭に浮かぶだろう。

 しかし、天下茶屋美術館は虚無なのだ。
 そんな美術館は、かつて存在しなかったし、これからも存在することはない。しかも、大阪市民はみなそれが虚無であることを知っているのである。

 にもかかわらず、なぜ天下茶屋美術館が存在するかのように思われているのか? それは、人間の認識を自在に操ることのできる猿が、その美術館を運営しているからなのだ。

 市民は、それが存在しないのは分かっていながら、同時に、存在するという確信を植えつけられて、「存在しないのに何故わたしは行くのだろう」という疑問に苛まれながら天下茶屋美術館に足を運び、存在しない作品を鑑賞し、存在しない感動を味わうのである。

 観客は何も見なかったし、何の感動もなかったことを認めながらも満足して帰ってゆく。作品の感想を友人と語り合いながら会場を出てくる観客すらいるのである。



 ひと月ほど前のある日のこと、なんだか猿を背負っているような気がして、ふり向いてみたが背後にはなにもいない。
 しかし、私は間違いなく猿を背負っていた。手触りも匂いもない。類人猿なのかニホンザルなのか、はたまたヒヒのような猿なのか種類はわからなかったが、確かに猿だった。

 実は、猿はそれ以前から私の思考を読み続けていたのだ。

 ……もし人間の眼のレンズに波ガラスのような凹凸があるとすると、どんな面でも曲面に見えることだろう。だとすると、《視覚》世界には平面というものは存在しなくなる。だから、平らなテーブルの天板もデコボコして見える。

 しかしテーブルを撫でてみると、おや、平らじゃないか、デコボコしてなんかいないじゃないか、これは一体どういうことだ、《視覚》世界には存在しない平面が《触覚》世界には存在する。曲面であると同時に平面でもあるなんて、こいつは発見だ……

 この私の発見を読み取った猿は、無色透明無味無臭になり、さらには質量も棄てる決心をし、ついに虚無になった。存在しながら存在しない存在になった。あるいは、「観念」という存在形態を選んだとも言える。

 だから、天下茶屋美術館が虚無的に存在することになったことに、間接的に私が関与したことになる。
 ということは、私の思考を猿に読み取らせることによって、私が人心を操ることも可能なのだということが、最近の研究で明らかになってきた。



 翌日の仕事に持って行く弁当の具材を買いに行かなければならないのだが、その日は仕事が休みで、朝から飲んでいたものだから外に出るのが億劫で、いつまでも家でぐずぐずしていたら、ふと猿のことを思い出した。

 試しに、永吉に買い物に行かせてみようと「永吉に行かせろ」と考えたら、それが猿に届いたらしく、いきなり永吉が買いに出かけた。しかも、何を買えとも言っていないのに、豚肉、イイダコ、ピーマン、スイカ、トムヤムクンとか、弁当に入れるつもりやった具材を買うてきよってん。すごいやろ。

 それ以来や。今では家事だけやないでえ。仕事も飯も風呂も便所もコレ(と言って小指を立てる)とのアレも、猿を経由して永吉に指示を出して、やらせてんねん。

永吉:「トムヤムクン」じゃなくて「トムヤンクン」じゃないの?

永吉:そやから、作品がつまらなんだら、ほんまにゼニはいらんのか試したろ思て美術館に乗りこんだったんや。俺もその時はちょっとヤケになっとったから、ちょうどええ、ウサ晴らしや、もし、つまらんからゼニは払わん言うて、向こうがつべこべ抜かしやがったら暴れてこましたろ、て思てな。

永吉:殴り込みか。健さん、文さん……R.I.P.

永吉:展示室のまんなかにちゃぶ台があって、その上に、豚肉、イイダコ、ピーマン、スイカ、トムヤムクンとかのっとんねん。俺が明日の弁当に入れようと思てた具材やがな。

永吉:「トムヤンクン」でしょ?

永吉:「額縁効果」やな。子供がカレンダーの裏に描いた落書きでも、それが額縁に入っとったら、《作品》に見えてしまうゆう心理。それと同じで、食材がちゃぶ台にのってるだけやったら、ただの日常的光景やけど、それが美術館の展示室においてあったら、どや? 何かの作品ちゃうかと思てまうやろ?

永吉:「異化効果」とも言えるね。

永吉:イカはなかった。「豚肉、イイダコ、ピーマン、スイカ、トムヤムクンとか」や。

永吉:いや、だから「トムヤンクン」じゃないのかって聞いてるんだけど。


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