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無名藝人



手違いで、クワガタムシを採用してしまった。

新入社員の初出社の時に初めて判ったのだ。
人事担当の私が、他の入社希望者の履歴書と取り違えて、採用通知を送ってしまったらしい。

面接会場にクワガタムシが現れたときは困惑したが、後で差別だなんだと言われるのも厄介だからと、その時にはっきり「クワガタムシは採用しません」と答えておかなかったことを後悔した。

うちは住宅の販売をしている会社で、クワガタムシに営業回りは無理なのだが、いまさら、間違っていましたと採用を取り消すのも、また面倒なことになりそうだし、どうしましょうかと上司に相談したが、君のミスで採用してしまったのだから、自分でなんとかしろよ、と突っぱねられてしまった。

ヘタに重要な仕事を任せて失敗されては困るので、雑用をさせようかと考えたが、来客に出すお茶を、クワガタムシに持って行かせるのも相手に失礼だし、社員の昼食の弁当を買いにやらせても、店がクワガタムシの言うことを真に受けて作ってくれるかどうか不安だ。肩揉みをさせるにしても、やはり五本の指がないとできないだろう。

そこで、いっそ何も仕事を与えず、居辛くなって辞めるのを待つという陰湿な手段をとることにした。
そんなわけで皆と示し合わせて、朝、クワガタムシが出勤してきても、何も指示を与えず、話しかけることすらしないという日がひと月以上続いた。

しかしクワガタムシは、その間も無遅刻無欠勤で、自分の席についたら、ときどき、アクビでもするかのように例の大顎を動かすだけで、後は死んだようにじっとしていて、退勤時刻になったら帰って行くという行動を毎日毎日、虫のようにくり返した。

ところがある日、退勤時刻の5時を1時間近く過ぎてもイスの上でじっとしているクワガタムシを見て、私がすこし意地悪っぽく「もうすぐ6時ですよ」と声をかけたのだが、反応がない。
居眠りをしているのかと思って、イスを強く揺らすと、その振動で、クワガタムシはイスから滑り落ちた。

クワガタムシは、ひっくり返っても、腹を見せたまま触角一本、脚一本動かさないでじっとしている。
こんな状態でいるのは、死んだということなのだ。

クワガタムシは、われわれの仕打ちに、涙をこらえて耐えていたのだろうか、あるいは、何もしなくていいから楽な職場だと喜んでいたのだろうか、それとも、何も考えていなかったのだろうか。

今となっては判らない。

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