翌日が休みだというので、仕事帰りに同僚と遅くまで飲んで、地元駅の改札口を出たときには零時を回っていた。いつもなら自宅へは、そこからバスを使うのだが、そんな健気なものが走っている時刻ではすでにない。また、こんな、見渡す限り田圃や畑ばかりの田舎の駅前でタクシーが客待ちをしているのを見たことがない。帰るには歩くしかなかった。
六僧和夫(むそうかずお)の家までは、駅から歩くと50分近くかかったが、気候もいいし、まだ30代半ばの彼には、酔い覚ましにちょうどいい距離だった。ただ途中、人通りの少ない道がいくつもあり、2日前にも、変質者による殺人事件が深夜に起きたばかりだった。しかし酒が入って気が大きくなっている彼のなかでは、面白え、やれるもんならやってみやがれ、という心意気が醸成されていて、家に向かって歩き出したときには、すでに鼻息は荒かった。
「江戸で男と立てられた、男の中の男一匹。韋駄天が皮羽織で鬼鹿毛に乗って来ようとも、びくともするもんじゃねえ。どっからでもかかってきやがれ」
バス道には街灯も多く、そこを通って帰ればまだ安全なのだが遠回りになる。男の中の男一匹である六僧和夫は、変質者風情が恐くて遠回りするなんざ、沽券にかかわらぁ、というわけで、近道になるなら、畑のなかでも藪のなかでも墓場のなかでも構わず歩いた。でも何も起こらないので、すっかり余裕に浸って、大衆演劇の役者気取りで墓石の前で手を合わせた。
「どこのどなたさんか存じやせんが、ここで会ったのも何かのご縁。ひとつ参らしてやっとくんなさい。…おお、ごらんなせえ、きれいなお月さんじゃあござんせんか…じゃ、お達者で」
途中、居住民のいない一画がある。この辺りは整地もされず雑草が生え放題で、不法投棄の温床になっている。家屋といえば廃墟と化した長屋風集合住宅が何ブロックか並んでいるばかり。長屋の向かいには廃工場が何棟も続いていて、その間に幅5メートルくらいの道が走っている。近くに街灯らしいものはなく、夜は怖くて誰も通らない道だが、六僧和夫の家へは近道になるのだ。
この道に差しかかると、以前このあたりでも異常性格者による通り魔殺人があったことを思い出した。「ひでえ話だ。こんなところで殺されたんじゃ、仏さんも浮かばれねえやな」と、任侠口調は相変わらずだが、自然と足の運びが速くなった。
何かを強く叩く音が2回、前方から聞こえた。道の左側に並んでいる長屋からのようだった。家の中で誰かが壁でも叩いたように聞こえたが、この一画には誰も住んでいないはずだった。長屋の並びを端まで見渡しても、灯の点いている窓は見当たらない。
するとまた聞こえた。そして、間を空けながらその音は続いた。壁ではない。ドアを叩いているようだ。しかも「ドンドン、ドンドン」という、ドアをノックするときのスタンダードな断続音なのだ。
急に、男の中の男一匹から、一介の人間に戻った六僧和夫は、さっさと通り過ぎてしまおうと、さらに歩を速めた。するとそれに合わせるように、音も速く強くなった。断続音から「ドンドンドンドン」という連続音へと変った。音を出している主体は、明らかに彼の行動を意識している。しかも、何かを必死で訴えるような、救いを求めるような響きが彼には感じられた。そのうち、ドアの振動で蝶番がきーきーと鳴る音まで聞こえ始めた。
何年も放置されている廃屋の中に誰かが住んでいて、通りがかりの人間に何かを伝えようとしているのか? それとも、家族に見放された狂人が閉じ込められていて暴れているのか? と、ほとんど小走りになりながら彼はいろいろ推測したが、いやいやそれはあり得ない、そんな江戸川乱歩のようなことはあり得ないと打ち消して、多分、この辺のどこかにセンサーがあるんだ。それが人間の存在を感知すると、長屋のなかに設置した、人間の手の形をした自動ノック機が作動して、人が歩くペースに合わせて、ドアをノックしているのかもしれない、と、もっとあり得ないような推測をした。
もう少しでその通りを抜けるという辺りの、ある家の前に来たとき、そこが音の出所だと判って足を止めた。そのとたんにノックも止まった。
見ろ、やっぱりそうだ。センサーがあるんだ。俺が止まったから音も止まったんだ。でも何なんだろう? 何かの実験でもしてるのか? いたずらにしては手が込みすぎている。
少しホッとすると、どんな仕掛けになっているのか見てみたくなって、彼はその家の戸口に立った。そして、色褪せた木目のシートが剥がれて、下の板がむき出しになったドアを開けると、スーツ姿の初老の男がニコニコしながら玄関に立っていた。
六僧和夫は思わず後退りした。そして、真っ暗な家の中で、男が懐中電灯で自分の顔を照らしていたのが不気味で、もう一度後退りした。男は表に出てきて挨拶をした。
「どうも。夜分にお邪魔いたします」
そして一方的にしゃべり始めた。
「はじめまして。私、鳩油薬品(はとゆやくひん)で営業をやらせていただいております、陸外(りくほか)と申します」
そういって、懐中電灯で自分の左胸を照らすと、「陸外健司」と書かれた大きな名札が見えた。
「置き薬というのをご存知でしょうか? 当社がご用意いたしました薬箱をお客様のお宅に置かせていただきまして、次回、担当者が訪問いたしました際に、ご使用になったお薬の分だけお支払いいただくという……」
「あ、ちょちょ、ちょっと待ってください」
「はい」
「これ、どういうことですか?」
「ええ、置き薬のご契約をいただけないかと思いまして」
「いやそうじゃなくて、つまりその……」
あまりに意外な展開に、六僧和夫は、何をどう聞けばいいのか、なかなか要領を得なかった。
「つまり、ここで店やってるんですか?」
「いえ、商品は置いておりますが、ここは店舗ではございません。当社では訪問販売のみを行なっておりますので」
「いやいや、そういうことじゃなくてね……」
的外れの返答にイライラしながらも、訪問販売という言葉が気になった。
「訪問販売っていうのは、人の家を訪問してそこで売ったり、契約を取ったりすることですよね?」
「そうでございます。今回も、お客様のお宅を訪問させていただいているのでございます。お客様がご在宅なのを窓から確認しましたので、私がドアをノックいたしますと、お客様が開けて、私をなかに入れてくださいました」
「……すいません、言ってることがよく解らないんですよ。在宅を確認したって言われても僕、今朝、家を出てから今までずっと在宅してないんですけど」
それを聞いて、営業マンはにっこりしたつもりなのだろうが、懐中電灯で照らされた顔は、いっそう不気味に見えた。
「会社を一歩出たら、そこはお客様のお宅、というのがわが社の世界観でございます。つまり、世界中の方々すべてがお客様なのでございます。このドアは当社の出口であると同時に、お客様のお宅への入り口なのでございます!」
鳥肌が立つほど陳腐な発想だ。六僧和夫はそう思った。
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