エッセイでも小説でもルポでも嘘でもなんでも書きます
無名藝人





● 自動車の運転ができなくてよかった

 自動車の運転ができなくて、ほんとうによかった。
 いちおう免許証は持っているのだが、取得してすぐに2度レンタカーで練習をしたのを最後に、30年近くハンドルを握っていない。今後も運転をするつもりはない。
 まあ、免許証といえば無敵の身分証明になるから、とりあえず更新はしてますけど。

 そんなわけで愚生、自動車はもちろん、自転車も三輪車も大八車も持っていないので、交通事故の加害者になる可能性は絶無である。

 被害者になる可能性はあるが、加害者になるよりはいい。人を轢くよりは自分が轢かれる方がいい。殺すより殺される方がいい。誉めるより誉められる方がいい。金を与えるより与えられる方がいい。受動態こそ平和の文法である。


● アウトドア派でなくてよかった

 貧乏人の遺伝子が原因でインドア派に生まれてきた私だが、アウトドア派と比較すると、多くの点でインドア派の方が優れていることが、マニラ大学の研究チームによって明らかになった。

 家のなかにいるのと屋外にいるのとでは、どちらが通り魔に遭う確率が高いだろうか。誘拐される確率、落雷に感電する確率、暴走車にはねられる確率、インフルエンザウィルスに感染する確率はどちらが高いだろうか。子供でもわかることである。

 スキーやウィンドサーフィン、登山、ツーリング、ピクニック、散歩などを趣味にしている人たちは、そういう危険を承知の上で興じているのだろうから、その剛胆さには、まことに頭が下がる思いである。
 なかでも家族連れでドライブなどしている人びとは、交通事故で血統を絶やしてしまうかもしれない危険に常に直面しているのだ(親子ともに死亡という自動車事故を起こした知人が実際にいた)。いったい何が彼らを一家心中ドライブに駆り立てるのだろうか。


 アウトドアはカネもかかる。酒食するにしても、インドアとアウトドアでは、費用がまるっきり違う。たまにアウトドア(おもに大阪のミナミ。千日前や道頓堀界隈)で店に入ると、インドアなら千円以内に悠々と収まりそうなメニューが、その2倍も3倍もする。

 先日、道頓堀にある店で勤務先の新年会があったのだが、水炊き鍋をつついた後、シメに雑炊を頼んだら、5人分の鍋で玉子がひとつしか出てこなかった。これで御一人様2千500円というボったくりがアウトドアでは横行しているのである。

 また、勤務先の社員食堂の定食は、なんと一律450円もする。この、生きとし生けるものに共通する弱味である「空腹」につけ込んだ商法に屈するのも業腹なので、インドアで作った、安上がりなうえに栄養価が高い弁当を公然と持ちこんで無言の抗議をしているところである。

● 有名人でなくてよかった

 かなり以前に似たような記事を書いたな。有名人が有名人でいられるのは、われわれ無名人がいるからだ、とかなんとか、有名人に対するルサンチマンをぶちまけるようなことを書いた気がするから、やめておこう。

● 若くなくてよかった

 これも、ひがみ根性丸出しになるのでやめておこう。

● 裕福でなくてよかった

 同上。

● 高学歴でなくてよかった

 これなんかは、ひがみ根性の最たるものだ。……しかし顧みるに、私の記事のほとんどは負け犬根性が下地になっているから、ひがみが無くなった時が私の作家生命の終局の時となるであろう。


● 女でなくてよかった

 これがいい。ひがみが動機になっていない。
 男に生まれてよかったと心底思っているからだ。もし来世(なんかない方がいいけど)があるのなら、また男に生まれたい。もしも女なんかに生まれたら親を恨んでグレてやる所存である。


 女性が、電車内で化粧しているのを見るのが不快という男性がいるが、私はむしろ、家を出る前に化粧をする時間がないときは、衆人環視のなかであってもそれを遂行しなくてはならないという哀しい宿命を背負った女性諸氏に、同情すら覚える。

 すっぴんのまま外出できる範囲は、玄関からゴミの集積場までの間だと、ある女性が言うのを聞いて、私は、化粧品を買う費用を必要経費として所得控除の対象にすべきだと、心の中で世間に訴えたほどである。

 たとえばデパートで、女性店員が、口紅もつけず眉毛も描かず、すっぴんで店頭に立っていたら客はどう思うだろうか。それが中高年の男性客なら誰でも、

♪ 恋人よ 今も素直で 口紅もつけないままか~ 

 と、皮肉をこめて歌い出すにちがいない。もちろん私は歌わない。そんなところでいきなり歌い出したら、まるっきりアホではないか。


 性犯罪の被害者になる確率も、男性の方が女性よりはるかに低い。
 スカートを履いても盗撮される心配はない、というか盗撮する奴なんかいない。もし盗撮されても「被害者」になったという実感がないだろう。

 盗撮に対しては、男は極めて強い耐性を持っている。
 だから、女性がスカートを履くのをやめて、かわりに野郎どもがスカートを履けば、明日にでも盗撮は地上から消えて無くなるであろう。


 自衛隊員のほとんどが男性である。将来、集団的自衛権が行使され、外国に派兵することになれば、私は志願してでも参加する所存である。男に産んでもらったことを両親に感謝したい。

 ……あ、だめだ。この年齢(58歳)では入隊資格を満たすことができない。無念じゃ。
 地位も名声も財産も(そんなものはない)棄てて、死地におもむく覚悟ができていたというのに。
 もうすこし若ければ、今すぐにでも自衛隊大阪地方協力本部の堺出張所(南海シャトルバス「堺市役所前」下車すぐ)に行って入隊手続きをするのに。
 いやー悔しい。実に口惜しい!


 いかがでしょうか、女性のみなさん。来世は男に生まれてごらんになりませんか? 一度男をお試しになって、どうも男はアタシに合わないわねぇ、とお思いでしたら、全額ご返金いたします。

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 だからバットで素振りばかりするわけだが、この場合、必ず右打ち左打ち両方のモーションで行わなければならない。投球も必ず左右で行う。目的は左右対称にすることであって、野球選手を育てることではないのだから地下に潜って戴冠式が行われた。即位した新王の額に、教皇は王冠を描いたのだが、その王冠の絵が左右対称に見えなかったので、列席した皇族や貴族たちは「だだだだだめですよ!」と密かに思いながら教皇に近づき、「バッティングとピッチングを左右どちらかに固定するべき時にわれわれはまだ到っていません。野球選手を育てるのが目的ではないのですから」と訴える。教皇は、市民が当局によって盗聴されるのを防ぐために筆談や手話、以心伝心、腹芸などで会話した場合、盗聴拒否罪で投獄するという主の教えを、オルガンの伴奏をつけた詩に託して訴えたが、参列者たちは「野球選手を育てるのが目的ではない」に固執するあまり、みな家に帰ってしまった。公演は、先週の日曜が千秋楽でした。大阪と和歌山をつなぐ南海本線で住之江駅まで行って、そこから送迎バスを使って劇場に通っています。もう6年になるでしょうか。

「野球選手を育てるのが目的とちゃうねん、丸亀!」

 このひと言が私の台詞です。役が重要になるほどセリフが少なくなります。主役には台詞がありません。台本に書かれた台詞の9割は端役の会話と教皇の妄言です。

 舞台の幕が上がる2時間前には出勤して、メイクや着替えなどの準備をして左右対称にしないと間に合わないのですが、この2時間は労働時間に含まれないんです。われわれ役者は、自分が舞台に登場する直前に、袖にあるタイムレコーダーで打刻して舞台に立ちます。野球選手の育成が目的でもないのに、これにはどうにも納得がいきません。

 ひとり、勇気のある団員が座長に問い質すところを見たのですが、座長は「馬鹿なことを言うな。左右対称なのは客の方だ」と答えて、教皇とともに出奔しました。おかげで、公演に来てくださったお客さんたちは、劇場を出るときに雨が降っていたのに傘を持ってこなかったので憤死して修羅道に堕ちました。まったく木村泰治の放つ暗黒は凄まじい。まっ昼間でも、奴がそばに来ると真っ暗闇になって何も見えなくなる。だから奴の姿を誰も見たことがない。

「光を吸収するとは、ブラックホールみたいな奴だな、貴様」
「わかってないな。光が暗い場所を照らすと明るくなるのとは反対に、暗黒が明るい場所を照らすと闇になるんだ。光と闇は相互補完の関係にある。もし、この世から闇がなくなったら、この世は闇だ」

 木村泰治は暗黒だが、エレベーターが逆流するのを素手で止めたり、アスファルトを溶かしたり、炎上したりするなど、人目につかない所で社会奉仕をしているらしい。偽悪を装っているのだろうか。しかし彼は私の友人でも同僚でも取り引き相手でもない。ただの兄弟なので、その私生活についてはほとんど知らないし興味もない。知っているといえば、大阪で、野球選手を育てるのを目的としない劇団を主催しているということと、決壊した巨大ダムの湖水が下流の町を水浸しにするように、左右対称(シンメトリー)が世界中に溢れかえることを悲願にしているということだけである。

 タジ・マハールのようなシンメトリーの世界を説きながら、教皇がなぜ王冠を左右対称に描けなかったのかについては、例えば、教皇に描写力がなかった、描写力はあったがやる気がなかった、やる気はあっても野球選手を育てる気がなかった、など理由はいくつもある。

 ともかく出奔した座長と教皇が翌日、左右対称になって戻って来た時は、木村泰治をはじめ、園田寿子、ニコラス・グリーンウッド、千河昌平、ヒナ子など、地殻変動に参加したメンバーが集まって戴冠式を行ったが、教皇が前夜の夢で見た王冠が左右対称ではなかったので、木村泰治は暗黒を放った。求刑は懲役27年。しかし、野球選手を育てるのが目的ではない、という教皇側の主張で、4年に減刑された。服役中は好きな曲を自由に聴くこともできないだろうと考えて、木村泰治は、お気に入りの曲を全て記憶し、聴きたくなったら脳内で再生することに成功したものだから、誰もがそれを真似するようになり、左右対称になったばかりか、木村泰治が脳内再生するメロディに聴き入っていた馬主の眼から涙が頬を伝い落ちた。高校生の頃に読んだ、

『暗黒のY染色体』

 というSF小説がもう一度読みたくなって、Amazonや古本屋のサイトで探したのですが、どうやら絶版になっているみたいで見つかりません。作者は、久保松良平といいます。見つけた方は教えてください。

 人類が実はすべて同一人物だということを発見した科学者が、その事実を隠蔽しようとする政府系組織と独りで闘うという物語です。科学者が最後には、その事実を全世界に伝えるのですが、それから本当の悲劇が始まります。ネタバレになるので後はご自身でお読みください。ただ、そんな小説があればいいなと思っただけで、この作品も作者も実在しません。

 来週からの舞台は『暗黒のパスタ』です。

 銀座にあるパスタ専門店に、ボブチンスキーとドブチンスキー(N・ゴーゴリの戯曲『検察官』の登場人物)がやって来る。
 肥って左右対称のふたりが同時に店に入ろうとするので、入り口でつっかえてしまうが、なんとかテーブルにたどり着く。

「僕は、ボロネーゼを注文するからね」
「いや。僕は、ペペロンチーノにする」
「僕は、カルボナーラ以外は食べないからな」
「こっちだって、ボンゴレ以外はお断りさ」
「僕はなにがなんでも、バジリコを食べる」
「君がなんと言おうと僕は、クアットロ・フォルマッジョを食べる」
「わがままな奴だな!」
「わがままは君だ!」
「君は野球選手でも育てるつもりかい?」
「君こそ野球選手になればいいじゃないか!」

 そこに木村泰治がやって来て暗黒を放つ。店にいた客と店員は無明のなかに生き、無明のなかに死す。これ久遠劫より衆生の慣らいなり。

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♪ 月がとっても青いから 遠回りして帰ろ~

(菅原都々子『月がとっても青いから』テイチク/昭和30年)

 仕事帰り、疲れているうえに空腹でイライラしているときにわざわざ遠回りをして帰宅するなんて苦行に励む人は少ない。そんな時は1メートルでも余計な距離は歩きたくないし、1分でも無駄な時間は使いたくないものだ。
 ところが奇妙なことがある。私は通勤に、大阪市内にある南海線の天下茶屋駅を利用している。階段を上ったところに改札口があるのだが、わずか23段の階段を使わず、階段と並走しているエスカレーターを利用するためにわざわざ長い列を作って健気に待っている人びとがいるのである。(私もそんな健気なひとりである。呵呵)
 まあ、仕事帰りなら疲れていて、わずかでも体力を使いたくないから機械に上まで運んでもらいたい心情は理解できる。しかし、そんなありがたいエスカレーターを歩いて上る人たちが必ずいる。
 その時は私も疲れていたが、飽くなき探究心が疲労に打ち克って、23段の階段を歩いて上るのと、エスカレーターを歩いて上るのとでは、どのくらい時間に差が出るか両方で測ってみたら、エスカレーターの方が5秒早く上りきった。
 しかし、この5秒にどれほどの価値があるのだろうか。5秒違ったって乗る電車は同じだから、5秒早く帰宅できるわけでもなさそうだ。つまり、5秒であろうが0.5秒であろうが、Time が money になろうがなるまいが、彼らにとって早い(速い)ことは無条件に「善」なのである。

【蛇足】エスカレーターは、歩いたり、まして駆け上がったりするのに適した設計はされておらず、じっと立っているのが本来の乗り方らしい。

■巧遅は拙速に如かず

 ……という故事成語がある。孫子の言葉として知られていたがどうもそうではないらしい。それはともかく、どんなに仕事の出来がよくてもこう時間がかかっちゃかわなねえ、ちったぁ出来が悪くても速え方がいいやね、というような場合に遣われる。

 これは古代中国だけでなく、世界にあまねく通用する万古不易の真理である。
 ひと月かけて畢生の傑作を描くイラストレーターより、1日で、まあこんなもんでしょ的な絵を描くイラストレーターの方が仕事は多いだろう。
 血液検査やらMRIやらで何日もかけて検査をして確実な診断を下す医師より、問診だけで「ま、風邪ですな。はい次」と、問答無用にかたずける医師の方が数をこなせるから、稼げるだろう。

 職業に限らず、あらゆることにおいて非能率というのは「悪」なのである。非能率であることのどこをどういじってもチャームポイントにはならない。
 せいぜいのところ、「きみって何やらせても要領悪いけど、でもそんなところが放っておけないんだよなぁ」という、保護者と被保護者のような関係にある男女においてはあり得るかもしれない。

 ちなみに私は、手際の悪い女性マニアを自認するものである。携帯や財布などを取り出すたびに、いちいち大きなバッグを地面に置いて、「あれぇ、どこに入れたかしら」とバッグの中を引っ掻き回すその姿に、私の胸はざわめくのだ。
 そう感じるのは私が女性を見下しているからだろうか。仮にそうだとしても好きなものは好きなのだからしかたがない。誰も私を止めることはできない。歳が歳だからこの嗜好は尽未来際、直らないだろう。変態とでも発情河馬とでも好きなように呼ぶがいい。

 地球上にあるすべてのものが、その重力から自由になれないのと同じで、われわれも「能率」の桎梏から自由になることはできない。われわれはみな能率の奴隷「能奴」(※)なのだ。能率という名の獄丁の鞭で追われながら働く能奴なのである。

※ 解説するまでもなく作者は「農奴」にひっかけている。

 例えば、飲み会に知人たちを誘う場合、ひとりひとりにメールを送って都合を聞くなんてかったるいことしないでさ、Facebookでグループ作ってやりとりした方が手っ取り早いじゃん、と考える。その瞬間に人は能奴に堕するのだ。

■参禅

 すでに故人となったが、禅宗の一派である曹洞宗の平木幹栄(ひらきかんえい)禅師の名を、読者諸氏は耳にされたことがあるだろうか。おそらくないと思う。私も初めて聞いた。なにしろいま私が創造した人物なのだから。どんな人物なのかはわからないが、書きながら考えてゆくつもりである。

 わが大阪府堺市には大小の寺がみやみに多い。仁徳天皇陵だけが堺の売りではない。寺巡りも観光としては価値があるが、それはともかく、平木幹栄禅師が住職を勤める玄建寺という架空の寺もそのひとつで、去年の夏、毎週日曜の早朝に開かれている坐禅会に参加した。

 当日の朝。夏とはいえ空はまだ真っ暗だった。坐禅が始まるのは4時30分からだが、4時に本堂に入ったらもう参加者が数人集まっていた。
 そのなかに、剃髪に作務衣、痩せてはいるが背丈が六尺以上、精悍な顔立ちながらどこか風雅で、厳寒の北陸で漁師をしながら、ふたりの男子とひとりの女子を東京の一流大学に進学させた父親のような趣をまとった初老の男性がいた。
それが平木幹栄禅師だとすぐにわかったので、声をかけた。

「あのぅ、坊主、ちょっといいですか?」
(後日人から聞いたのだが、住職の地位にある人には「坊主」ではなく「住職」という呼称を遣うらしい)
「はい、なんでしょう」
「坐禅で何が得られるのですか?」
「何も考えず、只管(ひたすら)坐る。それが曹洞宗の坐禅です」

 禅師はたったそれだけ言って去ろうとするので、私はカッとなった。ないがしろにされるのは大嫌いなのだ。私は禅師の襟首を掴んで引き止め、訴えた。

■人間性を圧殺する能率――禅師への問い

「実は私、年齢のせいもあるんですけど、仕事の能率がひどく悪くて職場でいつも嫌味を言われるんです。
《もう3か月以上この仕事をしているのだから、そろそろ人並みの能率で作業してくださいよ。ほら、あそこにいる李ビアンカさん、彼女は先週入ったばかりなのに、永吉さんより仕事はずっと速いですよ。美人だし》
 たしかに、李ビアンカは若くて美人だから大好物ですよ。しかし新米と比較されるなんて屈辱じゃないですか。

 いったい能率が良いことのどこがそんなに良いんですか? 能率が悪いことの何が悪いんですか? 能率的であることと非能率的であることは、良し悪しの問題じゃなくて、種類の違いなんですよ。
 非能率というのは能率の一種なんです。別名《無帰合性能率》とも《サルバトーレ能率》とも呼ばれています。英語では proleutomic efficiency といいます。この proleutomic (プロルートミック)という英単語は辞書には載っていません。私がいま、ふと思いついたんです。
 proleutomic には「遊び」といったニュアンスがあります。しかしこれは、女遊びとか火遊びとかいう「遊び」ではないんです。

機械などで、急激な力の及ぶのを防ぐため、部品の結合にゆとりをもたすこと。「ハンドルの―」(大辞泉より)

 という場合の遊びで、だから proleutomic efficiency を強いて訳すと、ゆとりある能率ということになるのでしょうか。それが能奴どもにはわからないんですよ」


 腕組みをして私の話をじっと聴いていた禅師が、突然女の声で笑い出した。
「自分の無力を、そんな自分勝手な理屈で糊塗しようとするから、あなたはいつまでたっても麓の人なのよ!」
 禅師が、剃髪した脳天に両手の爪をめりこませると、自らの体を左右に引き裂いた。するとなかから、李ビアンカが現れたのである。

「平木禅師の正体は貴様だったのか! この妖怪め。僕と結婚してくれ!」
「いいわ。でもあたし来年、還暦よ」

 こうして、すべての問題は狂躁のなかでうやむやに大団円を迎えた。
 手に負えない問題はうやむやにするに限る。それが禅師の教えたかったことなのだろう。
 合掌。

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 以下は、2004年、メールマガジンに掲載した記事に加筆したものです。

             ■□■

「ホントはもっとできたんですけど時間がなくて、へへ」
 これは、よく耳にする言い訳である。拙さを弁護するには手ごろな口実なので重宝されているようだ。

 たしかに、自分が納得のできない制作物を、不本意ながら人前にさらすときは言い訳のひとつもしたくなるのが人情ってえもんである。正直なところ私も「時間が…」には、ずいぶん世話になった。
 CG制作を専門にしていると言うと「おお!」と礼賛されていた時代、「このソフトがまたバグだらけでねえ、どうしてもこうなるんですよ。まったくメーカーもしっかりしてもらいたいもんですな」とハードやソフトに、よく罪をなすりつけたものであるが、今ではこれは通じないだろう。いい時代だった。
 それはともかく、
「そうか、でも時間がなかったにしてはよくできてるよ、大したもんだ」
 と歯の浮くようなことを言ってくれるのは、親か隣家の奥さんか、人間関係に波風を立てるのを好まない人くらいのもので、相手がクライアンだったりなんかしたら、
「……困るんだよね、自信をもてないようなモンもってこられても」
 と、嫌味を言われたうえに信用を失うことにもなるので、時間がなくて、は禁句である。もし、
「ほー、じゃ時間をやるから完璧なものを作ってこい」
 と突っこまれたら、目を白黒させるしかない。仮にこれが事実であり正当な弁明であったとしても、実情を知らない相手には、その場しのぎの言い訳にしか聞こえないのだ。
 言い訳次第で作者のメンツを保つことはできるかもしれないが、目の前にある凡作を秀作にすることはできない。そんな錬金術のようなことがしたければ、話術を極めて相手をマインドコントロールするしかないだろう。

 厳密にいえば相手に落度がないかぎり、いかなる言い訳も理由にはならない。

「マシンがトラブって」
「担当の社員が失踪して」
「台風で自宅が倒壊して」

 なんかもダメだ。もしそれが原因で仕事がパーになって致命的損害を被ったとしても、クライアントを呪うのはお門ちがいだ。マシンのメーカー、失踪者、もしくはその人をそそのかして、いっしょに失踪した妻子のある36歳の係長、台風の上陸を防げなかった気象庁に損害賠償を請求する以外、合法的に補償を受ける手段はないのだ。

 他人の言い訳ほど退屈で不毛なものはない。結局、
「ボクは悪くないよ」
 とアピールするのが目的だから、それによって事態が好転するわけでもなく、誰かが幸せになるわけでもない。たとえば車で人身事故を起こした加害者が、被害者の遺族に「あのときはコンタクトレンズを落として前方がよく見えなかったんです」と説明しても、遺族の心痛は1マイクログラムも軽くならないだろう。



 もう20年近く前のこと、勤めていた設計事務所で、駅ビル構内のショッピングモールの壁面装飾をデザインすることになり、プランを持って受注先の某中堅ゼネコンに行くことになったのだが、ほかにも仕事を抱えていて、ほんとうに時間がなく、疲れた体で徹夜せざるをえなくなった。

 ちょうどコンピュータがスリープするまでの非動作時間を30秒に設定して作業するようなもので、ちょっと気を抜くと、いつの間にか眠りこんで、奇怪な夢を見ては、ハッと目覚めるということを繰り返しながら、麻痺した脳味噌からアイデアを引きずり出すという惨状であった。
 手順が決まっている機械的作業なら、夢うつつの状態でも、条件反射のように手が動いてくれることがあるが、そんな状態で「いいアイデア」をひねり出すなんてアクロバティックな技は私にはない。アイデアの源泉たるべき脳が供給を拒否しているのだから土台ムリな話である。

 そんなわけで、不本意ながら「あんまりよくないアイデア」をふたつ、プレゼンボードに貼ってもって行くことになったのだが、時間がなくてこんなんしかできまへんと言うわけにはいかないので、ここは開きなおって、
「このデザインはいい。誰が何と言おうがいい。ああ、いい!」
 という芸術家的スタンスで言い張ることにした。多分、徹夜で脳内麻薬が分泌されて胆がすわったのだろう。そして、まったくふざけたクライアント野郎だ、と逆ギレしながら先方の会社に大股で乗り込んでいった。

「この形、何か意味があるんですか?」
「そーんなもんあるか。こういうフォルムがあの場所にはマッチするんだよ」
「んー、この部分の施工が難しそうですねえ」
「ああ、そう」(面倒くさそうに、耳の穴を掻きながら)
「それにコストもかなりかかりそうだな」
「だったら、どうしろってんだい」
「だから、この辺りの形、もっと単純になりませんかね?」
「バッカだな、おま。そんなことしたら、こういうデザインにした意味がねえじゃねえか。寝ぼけてんじゃねえよ、このコンニャク野郎」
「……」
「こういうクラシックなイメージでは細部が大事なんだよ、このザリガニ野郎」
「……」
「黙ってねえで、ワンとかニャンとか言ってみろ、このスピロヘータ野郎」
「ホーホケキョ」

 やや口調がデフォルメされてはいるが、まあこんな意気込みで話したのだった。結局そのデザインは採用されなかったが、プランに対する報酬は支払われた。担当者が図面屋さんで、デザインに関しては素人だったというのも幸いしたが、レトリックは一切使わず、過剰なまでの自信でゴリ押ししたのが功を奏したの……かどうかは私もわからない。

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 男は毎日、自宅マンションのバルコニーの手すりから上半身をのり出して、30メートル下を走っている道路のアスファルトを見つめながらあれこれ思案しては、ため息をついていた。男は投身自殺を企てていた。

 自殺を決意してからもうひと月経つ。身辺整理もとうに済んでいる。
 残るは、バルコニーの手すりに立ち、体が地上に落下するように重心を移動するという単純な動作をするだけだ。後は引力という神の法則が責任をもって彼をアスファルト上で叩き潰してくれることになっているのだが、その単純な動作にどうしても踏み切れない。
 特に梅雨入りしてからは、灰色の容器のなかに密閉されているような強迫的な気分に毎日悩まされて、今日こそ何もかもお終いにしてやろうと、実際、手すりの上に立ったことも何度かあるが、いつもそこまでだった。

 その日は大雨だった。しかしふと、あそこなら実行できるかもしれないと思い、車で高速を飛ばして「名所」に行ってみたが、《考え直せもう一度》と書かれた立て札にしがみつきながら、はるか崖下で岩に砕け散る大波を見て足がすくんだ。
 まったく、こんなもの凄いところによく飛び込めるものだと、ここから身を投げた人びとの霊にすがるような気持で訴えかけた。
「僕を、そっちに連れて行ってください」

 翌朝、男は目覚めるとバルコニーに出た。
 爽快な梅雨晴れだった。前日の大雨のおかげで、遠くの山々の襞が数えられるほど大気が澄んでいる。
 あるがままの世界がこんなにも美しく、慈愛に満ちたものだということにこれまで気づかなかった。
「僕はなんて無意味に悩んでいたんだろう」
 男は、L・アームストロングの声色を真似て『この素晴らしき世界』を歌いながら手すりに上り、朝日を背にして立った。そして大草原のクッションの上に倒れ込むような幸福と興奮を感じながら、全身を引力にゆだねた。

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