エッセイでも小説でもルポでも嘘でもなんでも書きます
無名藝人



 
しゅく‐あ【宿痾】
長い間治らない病気。持病。痼疾(こしつ)。宿疾。宿病。
――大辞泉より

 散髪屋(昨今は“理髪店”と呼ぶらしい)で順番待ちをしているときに読んだ四流週刊誌の記事で、美人と不美人とを比べると、1億円だったか1兆円だったか忘れたが、とにかく生涯に得る収入は、美人の方が格段に多いということを知った。

 記事では、美人は富裕層の男性と結婚できる確率が高いからとか、就職面接の担当者の多くが男性だからだとか、いろいろ理由を並べていたが、共通するのは、やはり男性の美人偏重だ。

 たしかに、男が面食いだと美人が得をするという理屈は、自然の法則といってもいいほど普遍的である。

 そういえば、俳優、スポーツ選手など、男性著名人の奥方はたいてい美人だ。その原理は簡単で、いい女を連れていたら見栄えがいい、に尽きる。

 いくら世間の目から逃れようとしても、マスコミを賑わすほどの有名人の妻となれば、いずれ必ず面が割れる。そのときになって世間から、これはちょっとなぁ、Jリーグのスーパースターの嫁ハンがなぁ、と思われたくないばかりに、多少人格が破綻していても、テレビ映えのする女ならというので結婚して、3か月以内に離婚するのである。

 また、有名でなくても財産がある男は、おらぁゼゼ持ちだで、それに釣り合うだけのめんこい娘もらう権利があるだよ、という発想に傾くだろう。つまり自分の名声や財産の程度に応じた美度(造語)を要求するわけである。

 男が、美女を獲得するための対価として、富や名声を利用するのは、クジャクのオスが華麗な羽を広げたり、グンカンドリのオスが赤い胸をふくらませたりする求愛行動と同じようなものだから、まあ許してやってくれたまえ。


 林真理子の小説『下流の宴』のなかで、フリーターをしているイケメンの恋人は、不細工なデブという設定なのに、NHKでテレビドラマ化されると、その役をモデル出身のスレンダーな女優が演じていた。

 また、桐野夏生の原作(まだ読んでいない)では、40代半ばの肥ったオバさんが主人公の『東京島』も、映画化(まだ観ていない)されると、その役を木村多江が演じていた。まあ美人だと思う。

 外界から閉ざされた離島で、大勢の男に囲まれて、唯一の女として暮らしていると、《白豚》と渾名されていた中年のオバさんでも、その獲得を巡って男たちが争うほどのセックスシンボルになる……

 という物語(読んでないけど)なのに、それを美女にしてしまったら意味がなくなるのはわかっているはずだが、それでもやっぱり主役の女性は美人でなくてはならない。かといって、絶世の美女を使うわけにもいかないので、譲歩して絶世度60%くらいの美女を使ったのだと思う。

 ドラマや映画の製作者としても、男女を問わず多くの人びとに観てもらいたいはずだから、男性の嗜好にばかり合わせて作るわけにはいかない。小説通りの不細工な女優よりも、美人女優が演じるのを望むのは女性も同じだと判断したうえでの起用だろう。
 
 男だけでなく、女も美人が好きなんだね。


 おそらく、どこの家庭でも、親は子供に、「見た目で人を判断するな」と教えていると思う。まさか純真な子供に「結局、人は見た目が9割なんだぜ」なんて不都合な真実は教えないだろう。

 ところが、テレビをつけるとドラマの女性主人公はみな美人。ワイドショーの女性キャスターも美人。『アナ雪』のエルサもアナも可愛く描かれている。
 シンデレラだって、美人だったから王子さまにみそめられたのだ。白雪姫にしても、美女だったから白馬の王子様がキスをしたくなったのだろう。
 アニメであろうが実写であろうが童話であろうが何であろうが、主役の女性は美人でなくてはいかんのである。

 ニュースを読むのが仕事のアナウンサーまで美人揃い。かのNHKですら、女性のアナウンサーは基本的に美形である。
 アホらしいと思いながら、Wikipediaで「NHK東京アナウンス室」の女性アナのリストから20名ほど、知らない名前をググって、本人の画像を見てみたが、みな合格ラインをクリアしている。お年を召して、いくらか型くずれされている方もいるが、原形は美人だとわかる。
 あの、公正さには神経質なNHKにしてそうなのだから、やはりテレビという、視覚に訴えかけるメディアで中心的な役割を担う女性は美人じゃないといかんのじゃろう。

 そんなわけで、またひとり面食いを育てるだけだから、アイドルの出る番組はもちろん、ドラマもニュースも、アニメも童話も子供には見せない方がいい。

「人間、善意ばかりでは生きていけないんだな」
「親切もお金で買えるんだな」
「愛と性欲は別物なんだな」

――などと同じく、「人はやっぱり見た目なんだな」も成長するうちに自ら学ぶだろう。


 すこし脱線するが、野球にはぜんぜん関心がなくても、東北楽天ゴールデンイーグルス(長い名前だな)を日本シリーズ優勝に導いた、田中将大、もしくはマー君の名前くらいは知っているだろう。

 しかし、映画などに比べて、一般には語られることの少ない芸術の分野、たとえば美術。いまブレイクしている版画家は誰かと問われて答えられる人は、その分野にかなり関心のある人だ。私も知らない。

 実名は憚られるので出さないが、かつて某女性版画家や某女性書家がテレビCMに起用されていた。
 また最近、若手の版画家が「行列のできる法律相談所」に出演したり、写真週刊誌のFRIDAYで紹介されたりした(私はどちらも見ていない)らしいが、いずれ劣らぬ美女である。

 美術家が、作品だけで全国的に有名になるのは極めてむずかしい。彼女らが有名になった要因のひとつに美貌がなかった、とは言わせない。

 名前や顔は知っていても、作品が思いつかない芸術家はあまたいるが、上に挙げた美人芸術家たちもテレビや雑誌に出るから、顔は知っていても作風が思い浮かぶ人は少ないと思う。でも、それって本末転倒じゃん。ああ、こんなことでいいのか、芸術!
 だから、印象派の画家ベルト・モリゾや、アールデコの画家タマラ・ド・レンピッカがもし「これはちょっとなぁ」な容貌だったら、美術史に名を残しただろうか、と考えてしまう。

 二重まぶた、濡れた大きな瞳、筋の通った鼻、艶のある唇、片アゴのホクロ、エクボ。こういったパーツが世界を動かしているという事実は、美の力のなせる業か、はたまた人間の愚行の所産か。


 私に美人の妻はいない(ついでに不美人の妻もいない)。しかも野郎ばかりの職場で働いているか、さもなきゃ失業しているかのどちらかなので、美人と日常的に接することはない。
 男心を惑わし、堕落させ、時として犯罪に走らせる美人たち、企業に寄生し、男同士を争わせ、女を嫉妬に狂わせて組織を機能不全に陥れるウィルスたちに接触する機会がないことを天に感謝したい。
 正直に言うが、私は美人にはなんの興味もない。むしろ、美人を見ると憎悪が湧くほどだ。たまに街で美人を見かけると、怒りのあまりに我を忘れ、すんでのところで抱きついてキスをしそうになったことが何度もある。


 美人のみなさんに要求する。

 もし、あなたに誇りというものがあるのなら、面接試験をパスして採用通知が届いても能天気に喜んだりせず、その企業に対し、敢然として採用理由を問い質してもらいたい。

「わたしが美人だからですか? もしそうなら、採用を辞退します」と。

 それともあなたは美貌という、DNAが発現した結果にすぎない代物でバカな男たちを誑(たぶら)かして、世間を渡っていこうというのか。

 そこであなたは、こう反論するかもしれない。

「美人であることも才能なのよ。才能を活かしてゼニ儲けしたらだめだっていうの? イチローかて野球の才能で何億も稼いどるやないか」と。

 たしかに野球の才能も、美貌と同じく天賦のものであるから、DNAで稼いでいるといえば、たしかにそうだ。
 しかし、メジャーリーグで第一線にとどまるには、不断の訓練と科学的な健康管理が必要だ。それがあってこそ才能が生きるのである。

 美人でいるだけならなんの努力も……いくらかはしなきゃならんのだろうなぁ。ダイエットとかお肌のお手入れとか、美貌を引き立てる化粧品や服や装身具への投資とか。大変だろうな……いや、それは美人に限らず、女性はみなしていることであって、いわば女性の嗜みである。
 むしろ、元手の乏しい不美人の方が、その点ではいっそうの努力をしているかもしれない。

 やっぱり美人は世界の病根だ。美人がいなくなるだけで、どれほど多くの人間が地獄を見ずにすむことだろうか。

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