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黛信彦の時事ブログ

浜矩子語録(111) 子供じみた振る舞いと決別

2011年03月06日 | 浜矩子語録
3月4日、財団法人全労済協会が主催するシンポジウムが東京・代々木の全労済ホール・スペースゼロで開催され、社会不安の正体と未来への展望が語られた。(以下、敬称略)

第一部では妖艶なエコノミスト・浜矩子と北海道大学院法学研究科:宮元太郎教授が招かれ基調講演が行なわれた。
第二部には、前記2名に加えて衆院議員:辻本清美、内閣府参与:湯浅誠、(独)労働政策研究:濱口桂一郎の5名でパネルディスカッションが行なわれた。


以下は、その浜矩子の講演語録である~・~・~
本日のシンポジウムのテーマで、或いは理事長からもご紹介がございました自壊社会からの脱却ということで、私がどういう事を申し上げられるか?と思っていた中で私の頭の中に浮かんで参りましたことは、2009年のことになりますが、オバマ大統領の就任演説の中に出て参りました一つ言葉でございました。
中間選挙を経て、オバマ大統領も任期後半になって参りましたが、就任演説に比較しまして、今の彼のスタンスはずいぶん遠い所まで来てしまったのではないかと思うのですが、彼が、その第一歩を歩みだしたときのスピーチの言葉が今日のテーマにマッチしていると思っております。

それでは、就任演説の言葉とはどういう言葉だったかというと、「今や我々は子供じみた振る舞いと決別すべき時が来た」と彼は言っておりました。

アメリカについてオバマさんがそういうものの言い方をする趣旨は、前政権における強烈な一国主義、新自由主義的な振る舞いと決別すべきだと、こういうふうに思いますけれども、その彼の子供じみた振る舞いから決別すべきときが来たという言い方は、これは聖書の引用でございます。

新約聖書の中の聖パウロのコリント人への手紙というチャプターからの引用でございます。コリントと言えば現在のギリシアに重なりますけれども。コリント人でキリスト教に改宗した人たちに聖パウロが「子供じみた振る舞いと決別するときが来ているよ」との呼びかけをしましたけれども、その時の聖パウロが言いたかった事は「キリスト教徒になった以上、皆さんは、キリスト教徒ではなかった時代のような振る舞いから決別しなければなりませんよ」という趣旨だったのでございます。

まさに今、我々が当面している問題、不安社会・自壊社会とのかかわりで当面している問題、それが正しく『如何にして、子供じみた振る舞いと、経済社会が決別して行けるか』というテーマなのではないか、私には思えてなりません。

グローバル時代と上手に付き合ってゆく、皆で首尾良く歩き抜いて行く、という事が可能になるためには、子供じみた振る舞いを続けていたのでは駄目であると、いう事ではないのかなと私には思えてなりません。

それでは、子供じみた振る舞いとはどういうことかと申しますと。
ここで大人と子供の違いと言うものを考えてみたいと思いますが、その勘どころは、大人と子供の最大の違いは、子供は自分のことしか考えられない、大人は人のことを慮ることができる。
子供の最たるものは赤ちゃんですが、だんだんだんだん大きくなってゆく中で何が違ってくるか?人のことを思うことが次第次第に出来るようになってゆく、次第に人の痛みが分かるようになって参ります。
自分がどう救ってもらえるか、どうすれば自分の富が豊かになるか、どうすれば自分が幸せになれるのかということだけに拘泥しているのではなくて、人のことを思うことが出来るということが人間の大人の尺度である言ってよろしいのではないでしょうか。

そして事のほか、グローバルジャングルという言い方が相応しい今の経済社会、生存のために皆必死にならなければならない、この状況の中においてこそ、我々はお互いにお互いのことを考えることができないと、結局のところ自分のことだけしか考えない者同士のぶつかり合いの中で、お互いに首を絞めあい、お互いに足を引っ張り合って奈落の底まで行ってしまって、そして誰も居なくなる。自壊社会の極限的な姿でございます。

そういう所から、自壊社会からの脱却は正に「子供じみた振る舞いからの決別」をもってしなければ実現しないという事ではないかと、つくづく思います。
なぜこれだけ社会に不安が広がってゆくのか、なぜ希望がないように見えるのかと言えば、それは、皆自分の事しか考えないからであるという状況に追いやられていることがあるのではないかというふうに思います。

そういう訳で「子供じみた振る舞いからの決別のとき」というのが自壊社会から脱却することのキーワードではないかという気がしてなりません。

そのこととの関わりで考えて見ますと、思うことが一つございます。
90年代のいわゆる失われた10年と言われた時期が終わって21世紀に入り、01~02年頃から経済は底入れし成長期に入ったと言われたわけでございますが、いざなぎ越えの経済拡大と言われ始めた頃から、日本の中にいろんなことが起きる毎に、『自己責任』という言葉が社会慣習・ビジネスのあり方として徹底していない、そこに問題があるのではないかと言われれ始め、自立・自己責任という事をベースにした企業経営・組織運営のあり方として成果主義というものが出てきて、自らの責任において自らの成果を挙げてゆく
、それが今日的な産業人・企業人のあり方であるというように広がってきた。
その中で、裏腹に格差社会と表裏一体的に、自己責任で成果を挙げられない者は切り捨てられて当たり前である、という格好で格差社会がどんどん広がってゆくという展開になって参りました。
そういう物の言われ方の中ではあたかも。「自己責任が、自立している大人らしい振る舞いだ」という雰囲気を持って、人に頼っているのは経済的な大人ではないというニュアンスがくっついて自己責任で独立採算・成果主義が今日的な経営のあり方、グローバル時代に相応しいあり方であると、ものの言い方が広まった。

ですけれどもよくよく考えて見ますと、そしてコリント人への呼びかけと対比してみますと、決してけっして、自立と自己責任は大人の尺度ではありません。
本当の大人は自己責任というものを越えて、人のためにも責任を持つという発想になって行かなければ本当の大人とは言えないのです。
自己責任というのは裏返せば自分の事だけ考えて行けば良いということで、本当の大人の姿ではありません。
そこを越えて人のために責任を持つ、人の痛みを軽減するために責任を持つ発想に向かって経済社会の歩みが動いてゆかないと、グローバルジャングルの中で共存し共栄して行くことは出来ないのではないかと思います。

こんな話をしますと、
「今この世の中では、自己責任をとることさえ大変ではないか!自立いう二文字がこんなに重い時代に自己責任を持って働きたいと思ったって、職場がないじゃないか!就活をいくら一生懸命自己責任を持ってやっても職場は与えられないではないか!自分にとって明日が分からない一寸先が分からない中で、人のために責任を持て、人の痛みを感じろ、と言われたって、それは机上の空論じゃないか!それこそ(浜矩子の言い方は)人の痛みがわからない言い方じゃないか?」
と言われそうな気もいたします。

しかし、自分の事だけを考えているとき、人は非常に不安になるわけでございまして、焦りがあったり迷いがあったりし、なかなか上手く頭が回らないことがございますが、自分ではない他の人のために物を考えているとき、他の人のためにものをしているとき、大胆に、想像力が豊かに行動することが出来るものです。
「先ずは自分の事をやってからでないと人のことは出来ないでしょう」という発想は、これは子供じみた発想であって、「自分の事はさておき、人のことを考える」という状態を社会全体として形成して行くことが出来たとき、正に、子供じみた振る舞いから脱却し、従って自壊作用からも脱却した社会が出現してくるのではないか。

経済社会全体として自ずとそっちの方に向かうような政策・制度・行政・体制を作り出してゆくことがこれからの大きな課題なのだと考える次第でございます。

そこをしっかりやってもらわないと、個人個人に「お前は大人じゃないからだめなんだ!」という風なことを言っている話になってしまう、それは私の本意ではないのでありまして、経済・社会全体がそういう形で人の痛みを知り人の問題を解決する、というようなところに神経が行くような体制が作られてゆく事が求められていると思うところでございます。

ところが、ところが我が国の現状はそれとは逆の方向に向かっております。
個々人の振る舞いでも、経済官僚みたいなヤツが出てきたりするっていうのも、そんなところに問題があったりするのかも知れないと思ったり致します。

個人個人が、行政とか政策とか制度を当てに出来ない、だから自己責任で改めなければいけない、そうなって来ると、どうしても自分の事だけを考えることになってしまうという、個のレベルでもそういう方向に動いていると思いますけれども、国々の間でも物凄く子供じみた動きが全面に出ていると、ひしひしと思います。
囲い込みであり、独り占めであり、早い者勝ちであると、そういう格好で誰よりも多くの市場を我が国が確保しなければならない、誰よりも早く重要な資源、希少資源を自分の物にしなければならない、誰よりも多くの高速鉄道網の受注を日本がしなければならない。こういう姿勢が国と国の間で全面に出ております。

そういうものがぶつかり合ってゆくと、どんぱちの戦争にもなってゆくわけでございます。
子供じみたものがぶつかり合っていくとそこからは本当に怖い結果が出てくるので、如何にして社会全体として人を慮る、人の痛みを感じるということが、制度的に自ずと沸くような状態をどう作ってゆくか?
ここに自壊社会からの脱却の大きな鍵があると思っております。

それでは、どうやってそっちの方向に進んでいくのかを考えたときに、我々にいろんな問題を抱えながらも大きな示唆を与えてくれたのが、先ほどの木理事長(全労済協会理事長・木剛氏)のお話の最後の方にもございました、中東・北アフリカ地域での市民蜂起による世界の姿でございます。
「希望は市民にあり」という事なんだな!と、私は一連の展開で強く思います。
チュニジアの、リビアの、イラクの、もろもろのあの辺で起こっている、そして中国でも起こるかも知れないし日本、その結果として全てバラ色かというのは誰にも分からないところでございますし、返って非常に大きな問題が色んな形で出てくるかも知れません。
しかしながらそれは次の問題であって正に差し当たり市民たちの連帯、支え合いの中で、30年も40年も大きな顔をしていた、恐怖政治を行なっていた独裁者たちを放り出すことができたわけでございますので、こういう形で市民の力は不可能を可能に行くのだ、という事をあの人たちが我々に本当に目の当たりで示してくれてくれているとつくづく思うわけでして、彼らが見せてくれた力に勇気を得て、子供じみた前からの決別を、まさに市民の我々がリードして行かなければならないのだと思います。

考えても本当にそんなことは絶対無理、まさかそんなことはあるはずがないじゃないかと思われることを実現してきた、まさかの壁越えてゆく、まさかと思われることを実現する、不可能を可能にするという事は、いつもいつも市民たちの力によって実現して今日に至っているわけでございます。
古くはオレンジ革命もそうでございます。またベルリンの壁が倒れる倒れる、そんなはずがあるはずはない、と多くの人たちは思っていたわけでございますが、そのまさかも実現致しました。

昨年、南アフリカで(サッカー)ワールドカップが開かれましたけれども、ここ南アフリカにおいでも皆様こそよくご存知のとおりアパルトヘイトという絶大なる人種差別政策によって世界に門戸を閉ざして人権侵害を行なっていた国でございますが、ここで人種を超えた大きな大会が開かれた。南アフリカにおいてアパルトヘイトがまさか終わるはずがないと多くの人たちが思っていましたが、そのまさかを実現したのもやはり徹底して諦めない市民達の力であったわけでございます。
そして、30年40年越しの専制君主たちを追い散らすということも市民の力でやってきたのでございますから、正に市民社会の力というものが自壊社会からの脱却というものももたらしてくれるだろうと思うところでございまして、如何に賢い大人の市民たちの力によって子供じみた振る舞いと決別してゆくか、そこに自壊社会からの脱却が掛かっていると、私としては思うわけでございます。

自立と自己責任という子供のレベルから支え合いと分かち合いという大人のレベルにどう移行して行くかという、そういう問題に我々は当面しているのでございます。

そのなかで気になりますのが、やたらに成長戦略という言い方が政策の論争の中で出てきていることでございます。
成長することが重要なのは育ち盛りの時代であるわけで、ここまで、世界に冠たる成熟社会となってきた日本の中で、新しい展開を掴み取ろうと考えるのであれば、成長という言葉の中に解答があると私には決して思えません。
如何に大人になってゆくか、如何に成熟社会を全面的に味わえるようにして行くところが鍵でして、そこを○○れば、成長も結果として出来るかもしれない。
しかし残念ながら、人の成長力を奪っても自分が成長して行こうという発想、人の領域を犯してでも資源を独り占めにして行こうという、極めて子供じみた発想のぶつかり合いに世の中はだんだん満ち満ち始めてしまっているのではないでしょうか。
今こそ、日本の経済社会、そして地球的経済社会が幼児化の方向に戻ってしまっていることに歯止めを掛けて、人の痛みに対して感受性の強い大人たちの世界を創って行くかが問われていると、それに対してきちっと解答が出てきた時に、我々はまちがいなく、自壊の社会にも歯止めを掛けることができるではないか。

次編では、パネルディスカッションの語録をアップします。

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