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ロック探偵のMY GENERATION

ミステリー作家(?)が、作品の内容や活動を紹介。
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選挙に行こう

2019-07-20 20:52:56 | 日記
明日、参院選が行われます。

このブログで何度かいってきましたが、有権者のみなさんは投票にいきましょう。

ただ、「なんとなく」とか「面白そう」とかで投票するのはやめましょう。

基本的に、どこの政党も自分のいいところだけを見せようとします。受け身の姿勢でいると、そういう情報しか入ってきません。
見せたいところだけでなく、見せたくないところも見なければ、的確な判断はできないでしょう。

積極的に情報をもとめ、いまこの国で何が起きているのかを見極めたうえで、票をいかしてもらいたいと思います。

投票に行くこと自体が重要ではありますが、よく考えずに表面的な情報だけで投票してしまえば、将来の自分や次世代の生活に大きな禍根を残すことにもなりかねません。

くれぐれも、しっかりと情報を吟味して、投票所に足を運んでもらいたいと思います。

真心ブラザーズ「素晴らしきこの世界」

2019-07-19 17:21:05 | 音楽批評
 

今回は、音楽記事です。

このジャンルでは、YUKIさんと、JUDY AND MARYのことを書きました。

そこからのつながりで、真心ブラザーズの「素晴らしきこの世界」という歌を紹介したいと思います。

真心ブラザーズ――
YUKIさんの夫であるYO-KINGこと倉持陽一さんがやっているグループですね。

まだ結婚する前に、この二人は、RCサクセションの「キモちE」をカバーしています。
正確にいうと、真心ブラザーズが「キモちE」をカバーする際に、YUKIさんがゲストボーカルとして参加。
クレジットには、YUKIさんの担当パートとしてGuest Vocal & Sexy とありますが、その表記のとおりに、歌の合間にSexy なせりふを入れたりしてます。
結婚にいたったのは、このときの縁もあったんでしょうか。

この曲はスライ&ザ・ファミリーストーンの(It's a) Family Affairをミックスしたアレンジになってるんですが、私としては、やはりRCの曲をカバーしたというところに注目します。
RCサクセションといえば、いうまでもなく、このブログにたびたび登場する忌野清志郎のバンド。
そのRCの曲をカバーしているというところからも、彼らの音楽的なセンスは信用できるというものでしょう。

そして、それだけではありません。
逆に、忌野清志郎のほうも真心ブラザーズのトリビュートアルバムに参加しているのです。

そこでキヨシローがカバーしたのが、「素晴らしきこの世界」。
キヨシローが日本のアーティストの曲をカバーするのは結構レアだと思いますが、真心ブラザーズはそのレアな例なのです。事故で入院していた清志郎がリハビリの一環としてレコーディングしたもので、すべての楽器をキヨシロー本人が演奏しているといいます。


では、その「素晴らしきこの世界」とはどんな歌なのか。
ここで、オリジナルのほうの曲の内容についても書いておきましょう。

曲はギターとハーモニカの伴奏からはじまり、序盤では穏やかな夕暮れの町の景色が歌われます。

  夜道を一人で歩いていたら
  どこから何やらカレーのにおい
  僕もこれから帰るんだよ 
  湯気がたってる暖かいうち
  素晴らしきこの世界

ここだけ聞いていれば、ルイ・アームストロング的な感じかとも思わされます。
しかし途中から、一転して激しい曲調に。

  民族紛争 果てしない仕返し
  正義のアメリカ ミサイルぶちこむ
  飢えた子供の目つきは鋭く
  偽善者と呼ばれて自殺する男たち
  素晴らしきこの世界

ここで、「素晴らしきこの世界」とは、ある種の皮肉だということがあきらかになります。
自分のまわりには穏やかな景色が広がっているけれど、遠くに目を転じれば悲惨な現実が転がっている――そういう世界です。

  笑った顔から怒った顔へ
  感情の津波が波止場をおそうよ
  ノードラッグ ノーアルコールで爆発しよう
  ユメを見る前に 現実を見よう
  素晴らしきこの世界
  

しかしこれは、決して現実に絶望する歌ではありません。
最後のほうでは、次のように歌われます。

  僕の体にあふれるエネルギー
  あらゆる困難もぶちこわし進むよ
  悟り顔の若年寄にケリを入れて
  バネをきかせて世界を変えるよ
  素晴らしきこの世界


ユメを見る前に現実を見たからといって、それでユメを見なくなるわけじゃないんです。
現実のその向こう側に夢を見る。
どうせなにも変えられやしない――と、したり顔で何もせずにいる“若年寄”的態度を、真心ブラザーズは否定します。
このメッセージには、YUKIさんの「さよならバイスタンダー」と通ずるところがあるでしょう。あの忌野清志郎がこの曲をカバーしたというのもうなずけます。
冷笑的な態度は、ちっともかっこいいことじゃない。
たとえ絶望的な状態であっても、当事者であることから逃げない。世の中そんなものさとしたり顔で傍観者にまわるのではなく、世界を変える努力をしよう――この歌が伝えたいのは、そういうことなんだと思います。そしてそれは、いまの日本にこそもっとも必要とされているメッセージではないでしょうか。

『新聞記者』

2019-07-18 16:26:01 | 映画
映画『新聞記者』を観てきました。

このブログでは、映画記事として最近ゴジラシリーズの作品について書いていますが、今回はいったん中断して、この『新聞記者』について書こうと思います。

地味に話題になっている映画ですね。

タイトル通り、新聞記者を主人公に据え、権力者からの圧力と戦いながら真実を追う――という作品です。
現実にあったものをもとにした事件や疑惑が作中に登場し、いまどき珍しいかなり硬派な社会派サスペンスという感じがします。

全編を通して息苦しい圧迫感があり、最後まで見ると、だいぶ気が滅入ってきます。
こういうテーマで映画を作るにしても、以前このブログで紹介した『エネミー・オブ・アメリカ』みたいにエンタメ仕立てにしたほうが、普通の人にもとっつきやすかったんじゃないか……という気がしなくもないです。
ただ、こういう作品を今つくって発表したというところに、制作陣の強い意志があったということなんでしょう。その点は評価したいと思います。この映画の窒息しそうな圧迫感は、つまりは今という時代の空気を映しているのではないでしょうか。


この映画に描かれている内容がどの程度に事実に基づいているのかは議論の余地があるでしょうが……メディアに圧力がかかっているというのは間違いないところでしょう。

なにも、そんなことありえないと否定してかかるような話ではまったくありません。

歴史上メディアを抑圧した政権などいくらでも例があり、現在でもそういう国はたくさんあります。
アメリカなんかも、結構ひどいといいます。『新聞記者』のラストは、アメリカのジャーナリストたちの間で「電気ノコギリ」と呼ばれているものでしょう。ネタバレになるので詳細は書きませんが……そういう呼称があるぐらい、アメリカでは広く起きていることで、ジャーナリストたちはそれを恐れているといいます。
そういったことを考えれば、日本でメディアに対する圧力があったところで、なんら不思議ではありません。いわんや、国外からそういう指摘がなされている現実があってみればなおさらです。

無論そういう圧力はなくなってほしいですが……報道という行為が報道される側にとってしばしば不都合なものである以上、どんなに民主的な社会であっても、おそらく報道機関に対する圧力はゼロにはならないでしょう。そこは受け手の側にも一定のリテラシーが求められるところだと思います。ある種フィルターがかけられている状態で、いかにきちんとした情報を得ていくかという……

映画『新聞記者』は新聞を舞台にしていますが、現実には、おそらくメディアに対する圧力はテレビの方が大きいと思われます。ある程度新聞そのものの販売で利益を出せる新聞社に比べれば、視聴率やスポンサーの意向を気にするテレビ局のほうが、圧力に対する耐性は弱いといえるでしょう。
前回の記事で、きちんとしたところから出た情報に基づいて行動しようと書きましたが……そういう意味では、新聞は比較的信用できる情報源といえます。

先進国といわれるような国であれば、メディアに対する抑圧があるにしても、完全に情報が抑えられるわけではなく、単にアクセスしにくくなっているだけというのが一般的でしょう。
受け手の側がその気になれば、そういう情報も得られるんです。
映画『新聞記者』では新聞社側のある種の“忖度”が描かれる場面がありますが、そこにおいても、問題の記事はつぶされたわけではなく、小さな扱いにされただけで紙面には載りました。
実際にも、おそらくそういう感じです。重大な問題を扱った記事は、意外とすみっこのほうに小さく載っていたりするんです。そういう情報を拾い上げる能力も、求められいてるんじゃないか。そんなことを思いました。まあ、この映画の感想としてはちょっと的外れな気もしますが……

「遊☆戯☆王」のキャラクターが政治的な発言高橋和希氏のSNS投稿が物議「独裁政権=未来は…

2019-07-17 16:33:30 | 時事


この件、物議をかもしてますね。
『遊戯王』の作者が、政権を批判する投稿をしたという……

著名人のこうした発言に対しては、否定的な反応が起きることも少なくないようです。

最近そうした話をよく耳にします。
べつに政治について語って何が悪いんだと私なんかは思います。まあ、「売国」という言葉はちょっとどぎつすぎじゃないかとも思いますが。

ただ、批判的な人も、ちょっと見方を変えていただきたい。

なぜ、そのような話が最近よく耳に入ってくるのか?

それは、そうせざるをえないような状況があるからではないでしょうか。

「〇〇のくせに政治的な発言をしやがって」といわれる人たちも、本当ならそんな発言はしたくなかった――というか、十年前のような社会であればあえてしようとしなかったと思うんです。

けれど、せずにはいられなかった。

今回の高橋さんだけでなく、著名人が政治について発言する例は次々と出てきています。それは、そういう政治・社会の状況があるということなんじゃないでしょうか。

漫画家のくせに、俳優のくせに、芸人のくせに……という前に、なぜ漫画家や俳優や芸人といった人たちが相次いでそのような発言をするのかを考えてみてほしいんです。

参院選の投票日がもう間近に控えているわけですが、有権者――特に若い人たちには、そこのところをよく考えてほしい。

テレビを見るだけでなく、ネット上の真偽も定かでないうわさ話に頼るのでもなく、きちんとしたところが出しているきちんとした情報を見て、そのうえで投票にいってもらいたい。そう思います。

『ゴジラ・ミニラ・ガバラ オール怪獣大進撃』

2019-07-15 22:03:35 | 映画
 

前回に引き続き、ゴジラシリーズの映画について書きます。

今回は、順番にしたがって『ゴジラ・ミニラ・ガバラ オール怪獣大進撃』です。

1969年に公開された、記念すべきシリーズ第10作。
総勢9体の怪獣が、怪獣島で大決戦……という触れ込みなんですが、しかし、この謳い文句はいささか誇大広告気味でしょう。
というのも、この作品では映像の使いまわしが頻出するのです。
過去作の映像流用は前からあったようですが、この作品ではそれがかなり顕著。アンギラス、マンダ、カマキラス、エビラ……など怪獣が多数登場するのはたしかにその通りなんですが、その多くが過去のゴジラ映画に登場した際の映像を流用したものとなっています。はっきり確認したわけではありませんが、今作で新たに登場した怪獣であるガバラが登場するシーン以外はほぼすべて流用なのではないかと。
そしてこれは『オール怪獣大進撃』にかぎったことでなく、この作品以降のゴジラシリーズにおいては、映像の流用が頻繁に行われるようになっていくのです。

映像の流用は、バンクとかライブフィルムと呼ばれるもので、さほど珍しいものではありません。
しかし、後の平成ゴジラなどがそうであるように、過去にあった出来事を紹介するような形で使われるのが一般的でしょう。過去の映画に出てきた怪獣バトルの映像をいま現在行われている戦いとして使うのは、さすがに手抜きとのそしりはまぬがれません。
それも、「人々が逃げ回るシーン」とかならともかく、怪獣映画のメインとなるべき怪獣バトルでそれをやるのです。怪獣映画で怪獣のバトルシーンが使いまわしというのは、これはどうなんだということになりますが……

しかし私は、意外とこの作品が嫌いではありません。

どうもこのあたりから、ゴジラ映画は変質し始めているようなですが、その変質の方向が、結構私は気にっているんです。

どのあたりが変っているかというと、作品中の要素のバランスですね。
それは、制作にかけられる資源の配分の問題でもあると思われますが……

それまでのゴジラ作品では、ストーリーは怪獣バトルを成立させるための添え物でしかなかったように思えるんですが……この作品では、怪獣バトルでない部分の比重が大きくなっています。
そういったところで、それまでのゴジラ映画にはなかったような演出が見られるようになっているんです。
『オール怪獣大進撃』でいえば、主人公である少年の人間世界における戦いが、怪獣たちのバトルと並行して、ほぼ同じ比重を持って描かれています。
そして、そのラストとなる子どもたちのシーンなんかは、なかなかよくできているんじゃないかと思えました。

そこは、映像の使いまわしとコインの裏表なんじゃないかと思います。

「バンク」――すなわち、保存されている過去の映像を引っ張り出してきて使うというのは、草創期の日本アニメでもよく行われていたようです。
そのころは、毎週アニメを制作して放送するなんて不可能といわれていたんですが、その不可能を可能にした要素の一つが、バンクシステムでした。映像の使いまわしによって作業量を減らすことで、毎週アニメを放映することが可能になったのです。
ほかにも、体の一部だけを動かすなどといったやり方で省作業化がはかられたんですが、それはすなわちアニメとしては“手抜き”にほかなりません。しかしながら、週一ベースでアニメを制作していくには、そうせざるをえなかったのです。
そして――ここが重要な事なんですが――そのことが、ストーリーを重視する日本アニメの型を作ったといわれています。
絵の部分で一定の“手抜き”をせざるをなかったので、そのぶんストーリーをきっちり描くようになったのです。


ここでゴジラに話を戻すと……ゴジラ映画でもそれと同じことが起きていたのではないか。

空前の低予算のもとで、怪獣アクションのシーンにはそれほど費用をかけられなくなった。そのために、怪獣アクション以外の部分に力を入れるようになったのではないか。
結果、それまでは怪獣の添え物でしかなかった部分が比重を増している……そんな気がするのです。
そしてそこに、単に怪獣バトルを進行させるためだけではないさまざまな表現が出てくるようになったのではないか。この第10作以降のゴジラ作品を観ていると、そんなふうにも思えます。

ただ、おそらく多くのゴジラファンは、そういう部分を評価しなかったものと思われます。

怪獣映画はやっぱり怪獣の戦いを主軸にすえてなんぼ――そういわれてしまえばそれまででしょう。
ここには、以前このブログで書いたビーチボーイズと同じ問題が潜んでいるとも考えられます。
そういうわけで、この後、第一期ゴジラシリーズは――少なくとも興行成績的には――低迷の一途をたどることになるのです。