ロック探偵のMY GENERATION

ミステリー作家(?)が、作品の内容や活動を紹介。
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HELLOWEEN, ‘The Madness of the Crowds’

2017-10-31 16:27:09 | 音楽批評

 

今回は、音楽批評の記事を投稿します。

今日は、10月31日。ハロウィンです。
ということで、ハロウィンのThe Madness of the Crowds という曲を取り上げます。

このブログでこれまでに扱ってきたアーティストの顔ぶれからすると、ハロウィンというのはちょっと異色でしょう。ですが、ハロウィンだからいいんです。

ハロウィンは、ドイツのバンドです。
ドイツは、「ジャーマンメタル」というくくりがあるぐらいメタルの大物を輩出していて、ハロウィンもまた、その筋では知らぬ人のない大物バンドです。

そのハロウィンが2000年に発表したアルバム The Dark Ride に、この曲は収録されています。

タイトルを直訳すると「群衆の狂気」ということになりますが、そこから連想される通り、この曲はナチスのことを歌っていると思われます。


耳の聞こえないものは偽りの言葉に気づかない
 だが、真実を見抜くものは大声で叫ぶ


このフレーズでは、ヒトラーという独裁者についていく群衆と、その危険性を認識している人たちが対照的に描かれています。


民衆の信頼を得たのは危険人物
 地獄へおちる道は広い


ここでは、選挙に勝利して“民衆に選ばれた”というかたちでヒトラーが権力を握り、ドイツを地獄へ導いていった歴史が歌われます。

この The Dark Ride というアルバムは、全体の基調がこんな感じです。
タイトル曲も、闇に落ちていく世界を描いています。
2000年に発表されたアルバムですが、まるできたるべき21世紀の世界を無気味に預言しているようにも感じられるのです。
最後に、そのタイトル曲 The Dark Ride の一節も引用しておきましょう。


悪魔は俺たちの狂乱を培い
狂気が世界を支配する
赤く汚らわしい息を吐き
 怒りが俺たちをアルマゲドンへ導く


なんだか、いまの世界を歌っているように聞こえてこないでしょうか。
ハロウィンというお祭りの日なのに、こんな歌ばかりが思い出されてしまうという……

生まれつきの髪の色を変えなきゃだめ?

2017-10-29 23:16:29 | 時事

大阪の府立高で女子生徒が髪の黒染を強要されたという話が問題になっています。

生まれつき色素が少なく髪が茶色っぽくみえるのを、黒く染めるように強要されたということで、訴訟を起こしということです。

この件がツイッターでもだいぶ議論になっているようで、私もちょっと書きこんだりしてました。
ブログのほうでも、この問題について一言書いておきたいと思います。

多くの人がそうでしょうが、私も黒髪の強制には反対です。

生まれ持ったものを「周りと違うから」という理由で変えさせるのは、本人が望んでそうするのならまだいいでしょうが、そうでないなら差別的・侮辱的な扱いといわざるをえません。

ここで、例によって名曲を一曲。
ブルーハーツの「青空」です。


生まれたところや皮膚や目の色で、
いったいこの僕の何がわかるというのだろう?



生まれたところや、皮膚や目の色……そういった、生まれつきそうであることを問題にされるのは、おかしいだろうという話です。
髪の色もまたしかり。
生まれつき髪が茶色なのを否定するというのは、ある意味では遺伝子による差別であり、とうてい許されることじゃありません。

学校には学校の理屈もあるでしょう。
学校側の主張は、髪の色の差別といった問題とは別の点にあるのかもしれません。
ですが、それでもやっぱり、茶色い髪を黒く染めさせるということは、結果として差別を容認することになってしまうというその一点で、絶対に許されてはいけないと思います。

どんな理屈があったとしても、茶色い髪を黒く染めることで学校側にどんな利点があるとしても、生まれ持ったもので人を差別するということの負の側面とつりあうことはありえないでしょう。

賛成の人たちが主張するように、それをみて「じゃあ俺も染めよう」という生徒が出てくるかもしれません。保護者や近隣からクレームがくるかもしれません。
でも、もしそんなことがあったら、「いろんな問題はあるかもしれませんし、私たちの指導力は不足していたかもしれません。ですが、私たちは教育者として、生まれ持った髪の色を変えるよう生徒に強制することはできません」というのが、学校側のとるべき態度ではないでしょうか。

デッドベア

2017-10-28 22:07:36 | 日記
ロック方面からのエントリーは、グレイトフルデッドの「デッドベア」。

デッドベア自体は、多くの人が見たことがあると思いますが、その知名度と、その割に由来を知られていないこととのギャップの大きさは、数あるクマキャラのなかでも随一でしょう。

『ホテル・カリフォルニアの殺人』制作裏話 ~応募締切前の日々~

2017-10-28 20:17:21 | 『ホテル・カリフォルニアの殺人』
『ホテル・カリフォルニアの殺人』制作裏話シリーズの記事です。

今回は、『ホテル・カリフォルニア』をこのミス大賞に応募した経緯を、前回とはちがう観点で振り借りたいと思います。

以前も書いた通り、そのころの私は、一つの作品を応募したら、もうその日から次の作品にとりかかっている、というふうになっていました。


『ホテル・カリフォルニア』についても、そうです。

横溝賞のウェブサイトからオンラインで応募したのは、締め切り当日である11月5日の深夜。
それから、もう『ホテル・カリフォルニア』にとりかかっていました。

この時間関係が、私の中でちょっとしたひっかかりを生むことになります。

横溝賞の一次選考結果が発表されたのは、翌年の一月。そして、その後最終に残ったという連絡がきます。
そんな横溝賞の選考過程と並行するかたちで、『ホテル・カリフォルニア』は書かれていました。
そのため、ある時点から「ひょっとすると、この作品を応募する前に横溝賞を受賞してデビューすることになるかもしれない」という状況が生じたのです。

投稿者としては、これはかなり微妙な状態です。

ひょっとしたら、この作品はシリーズものの2作目、3作目として発表することになるかもしれない、という考えが一方にあります。その一方で、横溝賞が落選となったら、これを『このミス』に送ることになる……というわけです。その両にらみの状態で、制作が進んでいました。

その回の横溝賞は、結果発表が5月の半ば頃。
『このミス』大賞の締め切りが5月末ですから、かなりぎりぎりまで両にらみの状態が続いていたわけです。

もちろん、基本的には落選の方向で考えます。
落選したら、すぐに『このミス』に出す。もし受賞できたら、その後ゆっくり時間をかけて続編となるように修正すればいい……これが、この場合のもっとも合理的な戦略でしょう。

しかしながら、それはあくまでも合理性の話であって、心情的にはなかなかそうもいきません。

やはり、ああしたい、こうしたい、ということがあります。

細かい部分では、この部分はどうするか……と、どうしても決定しきれない部分が出てきてしまうのです。

そういった部分は、とりあえず後回しにしておいて、横溝賞の結果が出てから確定させるという形になりました。

どうにかこうにか完成させ、5月31日に応募しました。
私はほとんどの場合、締め切りの最後の最後まで時間をかけます。投稿の世界では、締め切りの1日前に出したほうがいいとか1か月前に出したほうがいいといったようなことも言われますが、その時間の余裕があるなら、少しでも作品をブラッシュアップさせるのに使ったほうがいいというのが私の考えです。

……といいつつも、じつは、『ホテル・カリフォルニア』に関しては、応募した時点では正直あまり自信がありませんでした。
ぎりぎりまで推敲を重ねてはいましたが、これで大丈夫なんだろうか……という懸念のほうが大きかったのです。

ですが、これは重要なことだと思います。

私の経験上、応募するときに自信満々というのはあまりよいことではありません。
もちろん、実際にパーフェクトな作品で自信満々ということもあるでしょうが、多くの場合は、単に自分の作品の欠点に気づいていないだけなのではないでしょうか。
応募する段階では「あそこがちょっと弱いな」とか、「あの部分は問題視されるかもしれないな」とか思っているほうがいいと思います。それは、自分の作品をそれだけ客観視できているということですし、また、そういう細かい部分に注意がいくぐらい何度も見直しているということを意味しているからです。

以前トミーシリーズのプロトタイプについて書いたときに、応募時に自信満々だったと書きましたが、その作品はあえなく落選しました。それから3年経ち、ようやく私も自作の瑕疵に目を向けられるレベルに達したのだと思います。それだからこそ、『ホテル・カリフォルニア』も最終候補まで残ることができたのでしょう。

もっとも、結局最終選考で落選ということになったわけですが……

その後の展開に関しては、また次回書こうと思います。

イーグルス「いつわりの瞳」(Eagles,Lyin' Eyes)

2017-10-26 17:07:31 | 音楽批評
 

今回は、音楽批評シリーズです。

前々回、前回とイーグルス以外のアーティストを取り上げてきましたが、ここでまたイーグルスに戻ります。

拙著『ホテル・カリフォルニアの殺人』第五章の章題となっている「いつわりの瞳」です。

この曲については、以前「呪われた夜」の記事で一度言及しました。

アルバム『呪われた夜』で、イーグルスは音楽的に新しい方向へ踏み出したが、本来のスピリッツを失ってはいなかった……それを示す例として、この「いつわりの瞳」を挙げました。

いちど聴けばすぐにわかるように、きわめてカントリー色の強い曲です。
途中からは、マンドリンが使われていたりもします。
ルーツ系の楽器といったら、ギターとフィドルを別にすれば、まずバンジョーとマンドリン。
マンドリンは、この曲に色濃くカントリーフレーバーを与えています。
また、エレキギターも、ペダルスティールギターを思わせるような弾き方をところどころでしています。チョーキングだけでやっているようですが、このギターもカントリーっぽいです。

「呪われた夜」でそれまでとは違う一面をみせたイーグルスですが、ルーツスピリッツも捨てていないことをこの曲で示しているのです。

それは、歌詞についてもいえます。

この歌は一般に、金持ちの老人と結婚した若い女が夫の目をしのんで浮気をする……といった内容と解されているようです。
そういう歌詞がカントリーっぽいですが、もう少し深読みすると、このブログでたびたび書いてきたイーグルスの思想とつながる部分もあるかもしれません。
この状況は、いってみれば金銭と愛をはかりにかけているわけで、お金のほうを選んで豊かな生活をしていることを“いつわり”と表現しているともとれるんじゃないでしょうか。

そんなふうに考えると、この歌は、イーグルスの歴史においてとても重要な一曲なのかもしれません。