今回は、近現代史記事です。
このシリーズは時代を追うかたちでやってきて、前回は昭和10年の相沢事件でした。そして今日取り上げるのは……今日の日付からもおわかりのとおり、2.26事件。戦前昭和史最大の事件ともいえる、クーデターです。
関与した人や、事件にまつわるエピソードは数あり、ブログの記事程度で書いてしまえるものではとうていありませんが……私なりに重要と思える部分を、かいつまんで書いてみたいと思います。
2.26事件は、昭和11年2月26日にはじまったクーデターです。
クーデターというのはそれ以前にも何度かあったわけですが、これほどの規模のものはかつてありませんでした。
首謀者として名が挙がるのは、磯部浅一や村中孝次といった人たちですが、この二人は士官学校事件というものにかかわっていたという話を以前書きました。これは未遂に終わったクーデターでしたが、その二年後にとうとうクーデターが実行されたわけです。
背景にあるのは、やはり統制派と皇道派の対立。これも以前に書いたとおり、統制派と皇道派の対立は1930年代前半を通して次第に緊迫の度を増していました。昭和十年ぐらいの段階で統制派がかなり優勢になっており、追い詰められた皇道派が実力行使に踏み切ったのが2.26事件です。
昭和11年の2月26日未明、青年将校らが行動を開始。
彼らは「昭和維新」をスローガンに掲げ、東京の中心部を占拠。高橋是清蔵相や、斎藤実内相、渡辺錠太郎教育総監らを殺害します。
彼らがいう昭和維新とは、現内閣を打倒し、皇道派軍人を中心とする内閣を樹立することでした。そこでは、天皇親政というようなかたちが構想されていたでしょう。
しかし、ここで彼らは、深刻な矛盾に直面することになります。
それは、ほかならぬ天皇自身が皇道派の主張に賛同していないということです。
前に相沢事件の記事で書きましたが、昭和天皇は皇道派を煙たがっていたのです。
クーデターが発生すると、当然ながら天皇は激怒。断固鎮圧の姿勢で臨みます。
皇道派としてみれば、天皇に前面に出てこられると、さすがにもうどうしようもありません。彼らにとって致命的となる奉勅命令が師団司令部レベルで留め置かれて実際には下達されていなかったとか、いろいろ混乱はあるわけですが……やがて、天皇自身が激怒しているということは伝わってきて、蜂起の失敗は明らかに。反乱部隊の将校らは、多くが恭順の姿勢を示しました。反乱部隊と鎮圧部隊が東京市街で交戦……という最悪の事態はとりあえず回避されました。
2.26事件は何しろ大規模なクーデターであり、その全貌を描くのは私の手に余りますが……
指摘されるべきなのは、この事件に対する軍部の狡猾な姿勢でしょう。
当時陸軍大臣だった川島義之は、決起部隊に対して昭和維新の断行を約束したといいます。単にその場逃れの口約束というだけではなく、実際皇道派の大物とみられていた真崎甚三郎と面会して具体的な動きを見せていたとも……しかしながら、結局彼らも態度を翻し、反乱軍はいわば梯子をはずされたかたちとなるのです。
もっというと、軍の上層部は、事件発生前にクーデター計画をかなり詳細につかんでいたともいいます。決起の中心人物だけでなく、暗殺対象に誰が挙がっているかも相当程度わかっていたとか。
しかし、彼らは未然に決起を防ぐことはしませんでした。どころか、事件が実際に起きた後になって、それを利用しさえするのです。
この観点でもっとも重視されるのが、悪名高き「軍部大臣現役武官制」の復活でしょう。
陸軍大臣、海軍大臣は、現役の大・中将に限るという制度です。いったん廃止されていた制度ですが、2.26事件を機に、「粛軍」で予備役に編入された将官らが大臣になることを防ぐという口実で、復活しました。これによって軍部は、自分の意に沿わない内閣は大臣を出さないというかたちで倒すことができるようになります。軍部が政治を抑えつける強力なカードをまた一枚手に入れてしまったのです。このカードは、4年後対米開戦を控えたときになって、親英米派の米内光正内閣に対して発動されました。陸相辞任によって米内内閣は崩壊し、対米開戦はいよいよ止められなくなっていくのです。
そしてもう一つ、軍部の狡猾さとして指摘されるのは、上層部が咎めを受けなかったということです。
先述したように、彼らはクーデター計画を事前につかんでいました。さらに、川島陸相のように、決起に理解を示すような発言をした人物もいます。しかし彼らは、そのことで咎められはしませんでした。反乱部隊をいたずらに刺激しないための方便だった……ということなんですが、実際はそうではないでしょう。処罰するとなれば、陸軍全体に累が及んでしまうためにやらなかったというのが一般的な見方ではないでしょうか。
決起部隊に対して「たうとうやつたかお前達の心はヨオックわかつとる」と労ったという真崎甚三郎に関して、磯部は獄中でこう書いています。
真崎を起訴すれば川島、香椎、堀、山下等の将軍にルイを及ぼし、軍そのものが国賊になるので、真崎の起訴を遷延しておいて、その間にスッカリ罪を北、西田になすりつけてしまつて処刑し、軍は国賊の汚名からのがれ、一切の責任をまぬかれやうとしてゐるのです。
ことの真相を鋭くえぐった記述といえるでしょう。告発しているのが磯部浅一であるというのは大いなる皮肉ですが……
結果として、真崎甚三郎は無罪となります。きちんと処断しようとすると組織全体に対象が広がるからやらない――三月事件以来、状況を悪化させてきたのと同じ轍をここでも踏んでしまうわけです。以降、軍部のやりたい放題を止める術がまったくなくなってしまうのは、当然といえば当然です。
そして、上層部が処罰から免れるためにスケープゴートにされたのが、決起部隊の首謀者である磯部浅一らであり、民間人の北一輝、西田税といった人たちでした。上の記述で磯部がいったように、彼らは非公開の裁判ですべての罪を負わされ、処刑されるのです。これらの人たちに同情するつもりもありませんが、彼らに罪をなすりつけることで責任を逃れた軍上層部の姿勢は唾棄すべきものといわざるをえないでしょう。
ちなみに、北一輝とともに民間人として処刑された西田税ですが……この人は、意外な人物とつながりがあります。
それは、漫画家の水木しげる先生。西田は鳥取の出身で、水木先生の母・琴絵と知り合いだったそうです。その琴絵は、新聞で西田処刑の記事を読み、たいそう憤っていたのだとか。
もう少し余談を続けると、西田税は、かつて5.15事件でも殺されかけていました。5.15事件でも首謀者側だったんですが、井上日召らのグループとそりが合わず、決起のどさくさにまぎれてあいつもやってしまおうという感じで狙われていたといいます。結局それは未遂に終わったわけですが……それにしても、こういうメンタリティで動いてしまうカルト志向。これもやっぱり、戦前昭和に相次いだこの種の事件に通底する要素であり、この国が克服しなければならない宿痾と思われるのです。