ロック探偵のMY GENERATION

ミステリー作家(?)が、作品の内容や活動を紹介。
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3DCGはじめました

2020-05-31 18:35:25 | 日記


突然ですが、3DCGをはじめました。

いや、だいぶ前からやってはいたんですが……最近、3DCGソフトで思ってた以上にいろいろできるということに気づきました。
そこで、ブログ開設1000日も越えたということで、新たな試みとして、3DCGソフトで作ったものをこのブログで紹介してみようかと思いました。

その手始めとして、横溝正史『犬神家の一族』から、あの名シーンを再現。



blender というソフトを使用して作成しました。
これは、半ばネタですが……


そして、犬神家のアノ人。


犬神家のアノ人


まだ不満な点は多々ありますが……さらにスキルを向上させつつ、画像や動画をときどき公開していこうと思います。




エルヴィス・プレスリー「監獄ロック」(Elvis Presley - Jailhouse Rock)

2020-05-29 19:27:45 | 音楽批評


今回は、音楽記事です。

このカテゴリーでは、リトル・リチャード、チャック・ベリーと、50年代アメリカンロックのレジェンドについて書いてきました。
その流れで、満を持してエルヴィス・プレスリーについて書きましょう。

エルヴィス・プレスリー。
それこそ、もう誰でも知っているアーティストでしょう。ラブ・ミー・テンダーなんかは、誰しも一度は聴いたことがあるはずです。

ラブ・ミー・テンダーが実は“カバー曲”だというのは以前一度書きましたが……エルヴィスさんは他のアーティストのカバーを結構やっていて、たとえばサイモン&ガーファンクルの「明日に架ける橋」や、CCRのProud Mary なんかをやっています。チャック・ベリーの Johnny B Goode もやってました。

チャック・ベリーの Roll Over Beethoven から、“ロックとは新陳代謝である”と前回の音楽記事で論じましたが……エルヴィス・プレスリーという人は、その新陳代謝としてのロックを象徴する存在でもあります。

今でこそエルヴィスは「古き良きアメリカ」みたいなイメージでみられていると思いますが、出てきた当初は“良識ある大人”たちから猛烈なバッシングを受けていました。

その一つの原因は、黒人音楽と白人音楽を融合させたことといわれます。
デビュー前のエルヴィスはトラック運転手をやっていて、アメリカの広範囲を走り回っていました。車中でラジオを聴いていると、北のほうを走れば白人音楽、南の方を走れば黒人音楽が耳に入ってきます。それらを混淆して、エルヴィスの音楽が生まれたわけですが、それを気に食わない人もたくさんいました。なにしろ公民権運動よりも前の時代ので、白人と黒人はバスの座席も別々というのが普通だったころ。そんな時代に、白人と黒人の音楽を融合するなどというのはけしからんという人がいたのです。

そして、あのダンス。
あの動きは、一説にストリッパーのダンスをモチーフにしているともいいます。それがやはり、当時の良識ある大人たちからはけしからんとみられました。マーティー・フリードマンさんがいうには、エルヴィスは、当時のアメリカ社会にとって、後の時代のマリリン・マンソン以上に過激なものと受け取られていたのだそうです。

トレードマークのリーゼントも、やはりバッシングの対象となりました。
大学の学生がエルヴィスの髪形を真似したりすると、体育会系の学生がやってきてバリカンで丸刈りにするなんてことが行われていたといいます。

そんな具合で、エルヴィスの人形を燃やすとか、レコードを広場に集めて踏みつぶすとか、そんなことが全米各地であったのだとか。
フランク・シナトラはエルヴィスを酷評し、エド・サリヴァンは、あんなやつ絶対に自分のショーには出さないといっていました。

今から考えると、エルヴィス・プレスリーがそんな扱いを受けていたというのはちょっと想像しがたいでしょう。
それこそまさに、私が以前ベートーベンの記事で書いたことなんです。
エルヴィスは、新たな地平を切り拓いた。そしてそれが、新しいスタンダードとなった。ゆえに、後の時代からみると、そんなバッシングを受けてたなんてことが信じられなくなるわけです。

そして、さらに時代が進むと、チャック・ベリーがベートーベンをぶっ飛ばせと歌ったように、新たなスタンダードを覆そうという動きが出てきます。

それはすなわち、私がいう第三世代ロック――パンクです。

クラッシュが、1977という歌を歌っています。

  1977年には、エルヴィスもビートルズもローリング・ストーンズもいらない

と歌うこの歌は、それ以前の世代を否定して新たな地平を切り開こうとする、まさに新陳代謝です。
1977年というのは、まさにエルヴィスがこの世を去った年ですが、こういうかたちで世代の交代を表明しているということでしょう。

 

これは、クラッシュのサード・アルバム、LONDON CALLINGの有名なジャケット写真。
ポール・シムノンがベースを破壊するこのジャケットは、エルヴィス・プレスリーのデビュー・アルバムのジャケットのパロディになっています。

 

ここに、新陳代謝の意味合いが現れているのではないかと思います。


ただしそこには、単純にエルヴィスを旧世代の存在として否定しているわけではないという複雑な関係もあるかもしれません。

この点について、『監獄ロック』という映画が非常に示唆に富んでいます。

 

「監獄ロック」は、エルヴィスの代表曲の一つですが、それをタイトルにした映画。エルヴィス自身が、刑務所上がりのミュージシャン、ヴィンス・エヴァレットという役で主演しています。

この映画を観ていると、出所したヴィンスが酒場で歌を歌っている場面で、騒がしい客の態度に切れて、ギターをテーブルにたたきつけて破壊するというシーンが出てきます。
そのシーンをみて、私ははっとさせられたわけです。
ギター破壊といったら、これはパンクスたちのお家芸ではないか――と。
以前フーの記事を書いたときに、ギター破壊のパフォーマンスを最初にやったのはピート・タウンゼントではないかと書きましたが、実は、1957年の映画のなかで、エルヴィスがすでにそれをやっている。
もっというと、同じ『監獄ロック』のなかで、ヴィンス・エヴァレットは、みずから音楽会社を設立します。デモ音源をもって大手レコード会社をまわるも色よい返事をもらえず、自分で音楽会社「ローレル」を設立し、そこからレコードを発表するのです。
自分でレコード会社を作る……そう、これもまた、パンク的DIY精神の発露にほかなりません。
このブログで何度か書いてきましたが、パンク/ハードコア系のバンドは、みずからレコード会社を作るということをよくやります。それは、既存の権威に対して反旗を翻すことであり、旧世代が規定する価値観に従わないということなのです。そのパンクスたちにといって否定する対象であるはずのエルヴィスが、映画のなかとはいえ、パンクスたちと同じことをやっているのです。

そんなふうに考えると、LONDON CALLING のジャケットもちょっと違った見え方が出てきます。

エルヴィスのアルバムジャケットをパロったジャケットで、エルヴィスが映画の中でやったギター破壊をやる。
これはすなわち、エルヴィスを否定することが、すなわちエルヴィスを継承することになるんじゃないか……そんなことを表現しているとも思えてきました。

せっかくなんで、曲のほうの「監獄ロック」の動画を公式YouTubeチャンネルから貼り付けておきましょう。

Elvis Presley - Jailhouse Rock (From '68 Comeback Special)

思えば、ここで監獄を題材にしているのは、プリズンソングの残響でしょう。
囚人をモチーフにしたプリズンソングは、ブルース、ロックの源流の一つです。そうすると、クラッシュがソニー・カーティスの曲をカバーした I Fought the Law なんかともつながってくるように思えます。

既存の価値体系のなかでは、新しく出てくる表現は異端扱いされます。それを“囚人”という姿に仮託しているのではないか……だとするならば、エルヴィスとクラッシュは、じつはまったく同じ立ち位置にいるともいえます。クラッシュの1977を聴いたジョニー・ロットンが「クラッシュの連中はエルヴィスのパート2じゃねえか」といったそうですが、それは――ジョニーの意図とは違った意味で――正しいのかもしれません。

以前の音楽記事で私は「ベートーベンもチャック・ベリーもロックだ」といいましたが……それと同じように、エルヴィスもクラッシュもロックなのです。




『感染列島』

2020-05-27 16:43:40 | 映画

 

映画『感染列島』を観ました。

2009年に公開された映画。その当時は、新型インフルのことでタイムリーだったわけですが、いまでは、コロナ禍のためにタイムリーです。アマプラで執拗にサジェストされるので、とうとう観てしまいました。

タイトル通り、新興感染症が日本列島に蔓延していく過程と、それに立ち向かう人々の姿を描いた映画です。

この映画に出てくるウィルス“ブレイム”はコロナよりはるかに強力ですが、それが猛威を振るい始めるまでの前半部分は、今般のコロナ禍で起きていることを予言しているようでもあります。非常事態宣言、買い占め、感染源と目された者への嫌がらせ……まさに、今の日本で起きていることでしょう。医療機関の様子なんかは、いま医療の現場では実際にこういうことが起きているんだろうなと思うと、痛切に感じられます。

ただ、リアリティという点では、以前このブログで紹介した『コンティジョン』のほうに軍配が上がるでしょう。
新興感染症のパンデミックをまるでドキュメントのように描いたあの映画に比べると、『感染列島』には、よくも悪くも作為が大きく働いています。その部分が、リアリティの欠如という批判を招いてもいるようで、アマゾンのレビューを見ると、その種の辛口な評価が目につきます。
まあ、そこはフィクションとしてやむをえません。新たな感染症が発生しました、専門家がきちんと対処して最小限の被害で抑え込みました……では映画として面白くないんで、うかつなことをして感染を拡大させるような人が登場してくれないと困るというストーリー構成上の必要があるんです。

しかしながら……フィクション性が一周してむしろリアルというようなこともあって、最近つけられたレビューではリアリティ批判はトーンダウンしているようにも思えます。
つまり、このコロナ禍に遭遇してみると、現実こんなもんなんじゃないかということですね。フィクションにおけるリアリティというのは、実際にはリアリティではなく説得力の問題だというのが私の持論ですが、まさにそういうことだと思われます。
もし私が5年前ぐらいにタイムスリップして、この2020年コロナ禍の状況を小説にして新人賞にでも応募したら、リアリティがまったくないと酷評されることでしょう。「検疫官が感染者が多数出ているクルーズ船に軽装で乗り込んで感染するなどありえない」といった感じで。そして、作品として発表したら、「一世帯に布マスク2枚とかw」みたいにアマゾンでボロクソにレビューされること請け合いです。
しかし、現実に新型コロナのパンデミックが発生したこの世界では、『感染列島』を観てリアリティがないと思う感覚自体が揺らぎつつあります。なんというか、然るべき人たちがもっときっちり対処するもんだと思ってたけどなあ……という。マスクの話ひとつとっても、専門家のあいだでは「感染予防としてマスクをすることに科学的根拠はない」といわれていたのが、世界の感染状況を受けて「やっぱりあるかも……」と論調が変化してきたりもしています。なにかそういう、これまで確かだと思っていたものがぐらつく感覚があります。コロナ以前に『感染列島』を観て「いや、感染症の専門家はこんなにばかじゃないだろ」と思っていた人たちが、コロナ後にもそういえるかということですね。われわれが思っていた“現実”とは、実は虚構にすぎなかったんではないのか。そんなことを考えさせられます。
『感染列島』の映画としてのクオリティがどうかということはさておくとしても、この2009年と2020年で世界が大きく変わったということを、この映画がはからずも浮かび上がらせているといえるでしょう。



新型コロナ感染状況についての考察

2020-05-26 20:01:03 | 時事


緊急事態宣言がいよいよ全面解除となりました。

新規感染者数も減少し続けていて、新型コロナも一定程度収束してきたかのようです。
これを受けて、「日本のコロナ対策はなぜ成功したのか」といったような話があちこちでみられます。

私は、そもそも「日本のコロナ対策は人口あたりの死者数でみればうまくいっている」という見方は疑わしいと一昨日の記事で書きましたが……この点について朝日新聞に記事が出ていました
朝日新聞でも同じような計算をしていて、それによると日本は208の国・地域のなかで人口あたりの死者数が94番目という結果になったそうです。
つまり、少ないほうから数えると115番目ということで、私が以前の記事で示した113番目という数字とそう変わらないでしょう。「2」のずれは、計算した時点の違いか、あるいは私が計算に含めなかったものが含まれているためと思われます。


計算しておいてなんですが、実は私は、感染者数や死者数を人口比で考えることにはあまり意味がないと思っています。

たとえばシンガポールは、人口が560万人ぐらいですが、国自体が一つの大きな都市のようなもので東京23区ほどの面積にその560万人が住んでいます。仮に、そこでニューヨークで起きたような感染爆発が起きたとしましょう。すると、人口560万人で死者1万人というような事態となり、世界でも突出して高い異常な死亡率ということになります。しかし、そこで起きていることは、ニューヨークで起きたことと変わらないわけです。そんなふうに考えると、人口比でみるというのは必ずしも感染の実態を反映しているとはいえないでしょう。

では、死者数でみるとどうなのか。
人口比ではない絶対的な数という観点で見ても、じつは日本はうまくいっているとはいえません。というよりも、むしろそっちのほうが悪いです。死者数でみれば、日本は世界で28番目。あきらかに悪いほうに入ります。
つまり、単純に数字で見ても、割合で見ても、日本のコロナ対策はうまくいっているとはいいがたいのです。


しかし、それにもかかわらず、世間では「死者数で考えれば日本はうまくいっている」という意見がかなり広くいわれているように見受けられます。

おそらく、それをいう人も、人口比なのか絶対数なのかの区別をきっちりせずに、具体的な数値のことは考えず、たぶんそうなんだろうぐらいの感覚でいっているのではないかと思われます。
統計的な数字とはかけ離れたイメージが独り歩きするということはあって、これもその一つということなんでしょう。

統計的な数字とイメージの乖離を示すものとして、次のような命題を考えてみましょう。


人口比で考えれば、日本における新型コロナの感染者数・死者数は、いずれも中国の二倍以上である。


これははっきりとした数字で示されていることです。が、多くの人はそれを聞かされても「え、そうなの?」という反応をみせるのではないでしょうか。
信じられないという人のために、具体的な数字を示しましょう。
(人口は、グローバルノートより。感染者数、死亡者数は、JX通信社サイトより5月26日19時24分時点の数値)

中国の人口:およそ14億3378万4千人
日本の人口:およそ1億2686万人

中国の感染者数:8万2992人
日本の感染者数:1万6619人

中国の死亡者数:4634人
日本の死亡者数:862人

中国の10万人あたり感染者数:およそ5.8人
日本の10万人あたり感染者数:およそ13.1人

中国の100万人あたり死亡者数:およそ3.2人
日本の100万人あたり死亡者数:およそ6.8人


欧米や中東以外の国と日本を比較すると、だいたいこんな感じです。
であってみれば、“日本モデル”というのも、話半分に聞いておく必要があるでしょう。
概して、アジアやアフリカの国々は日本よりもずっとうまく対処しています。日本のコロナ対策がものすごくうまくいっていて、世界をリードする立場にあるなんてことはないんです。

先述した朝日の記事では「G7の中では抑えられている」みたいな言い方もされていますが、G7で比較するのは適切と思えません。
G7のメンバーは日本以外欧米の国であり、そこだけで見るときわめて強いバイアスがかかってしまいます。
そもそも感染症の問題に、G7であるかどうかが特に意味を持つわけではないでしょう。「世界の主要国だから人の出入りが多い」みたいな考え方があるのかもしれませんが、それにしたって、いまこの21世紀の時代にあって、G7がそれ以外の国に比べて特に人の出入りが多いということもないんじゃないかと思います。まあ、これはきちんと調べたわけではないのでわかりませんが……

《追記》
念のためにもう一度書きますが、決して日本を貶めようとしてこのような計算をしているわけではありません。日本のコロナ対策は必ずしもうまくいっていないという認識をもっておかないと、油断して第二波に襲われるということになりかねません。潜在的な感染者が相当数いるということを考えておかないと、そうなる可能性は決して低くないでしょう。



「日本のコロナ対策は人口あたりの死者数でみればうまくいっている」は本当か

2020-05-24 16:30:48 | 時事


日本のコロナ対策は人口あたりの死者数でみればうまくいっている――

そういう意見を、よく耳にします。

検査が十分に行われていないことや、政府の場当たり的な対応などが批判されているわけですが、そうした批判に対する反論として、よくいわれているようです。

しかし、本当にそうなんでしょうか。

欧米などのひどい状況に陥っている国々と比較すればたしかにそうですが、それはあくまでも状況が悪いところと比べたらの話で、世界的に見ればそうでもないんじゃないでしょうか。

「死者数を人口比でみたら……」という類の意見を見聞きするたびに、私は、それは極端に死者数が多いところと比べてるからそう見えるだけなんじゃないのか、とかねてから疑っていました。

そこで、今回ちょっと計算してその点を確認してみました。

JX通信のサイトで、世界各国の感染者、死者数の集計が掲載されています。その5月24日午前零時時点での数字をもとにして、各国の人口あたりの死者数が日本と比べて多いかどうかを計算してみました。

すると、およそ200の国と地域があるなかで、日本より人口あたりの死者が少ないところは、112ありました。つまり、日本は113番目ということになります。(総数をおよそ200としているのは、「国や地域」としてカウントしていいかどうか判断に迷うものもあるため)
中の下といったところで、そううまくいっているともいえないでしょう。
私が個人的に計算した結果なので計算間違いや集計ミスをしている可能性もありますが……そう大きな間違いはないと思います。

数字を見比べていると、日本よりも人口あたりの死者が多い国は、ほとんど欧米、中東、中南米にかぎられていることに気づきます。気候風土なのか、文化、生活習慣の問題なのかはわかりませんが、人口あたりの死者数が多い国は、これらの地域に集中しているので、当然といえば当然です。
そして、そこから逆にいうと、それらの状況が悪化している地域以外では、日本はかなり悪い部類に属するということになります。そもそも、パンデミックの震源地である中国よりも人口あたりの死者数が多いという時点で「うまく対応できている」とはいえないでしょう。

以上のように考えてみると、「日本は人口あたりの死者数でみたら新型コロナ対策に成功している」というのはかなり疑わしく思えます。

これはもちろん、日本を貶めようとしていっているわけではありません。
ただ、本当はそんなにうまくいっているわけでもないのにうまくいっていると自画自賛していたら、それは大いに問題があるでしょう。
このブログでなんどか書いてきましたが、日本の新型肺炎対応は、とにかくあらゆる局面で後手にまわってきました。あきらかに政府は当初事態を甘くみていて、それゆえに水際対策もクラスター対策も失敗したのです。それがきっちり数字に表れていて、200か国・地域中113番目ということなんだと思います。日本のコロナ対策は、決してうまくいってはいない、むしろどちらかといえば失敗の部類に入る――その現状認識をまず持っておかないと、今後さらなる事態の悪化をまねくおそれがあるでしょう。

追記:こういう比較に実際どれほど意味があるのかという疑問もあるでしょう。人口が数十万人で死者が数人みたいな国は結構あって、そういったケースはそもそも人口比で比較するのが適切ではありません。それに、ちゃんと検査してるのか疑わしい国もあり、すべての国を一律に人口比計算で比較することはナンセンスかもしれません。ただ、そうであっても、大まかな傾向としてここで書いたことは成り立つんじゃないかと思います。