ロック探偵のMY GENERATION

ミステリー作家(?)が、作品の内容や活動を紹介。
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『ゴジラ対メガロ』

2019-09-29 20:48:19 | 映画
 

今回は、映画記事です。

順番通りに、シリーズ13作目の『ゴジラ対メガロ』になります。


当初、このゴジラシリーズ記事は、これまで見たことがなかったゴジラ映画について書こうと思っていました。
それで『怪獣大戦争』からはじまり『ゴジラの息子』は飛ばしたりしていました。そのルールでいくと、13作目『ゴジラ対メガロ』も、だいぶ前に見たことがあるのでスルーということになるんですが……結局のところ、過去に見たことがあるものも含めてアマゾンプライムでゴジラシリーズをほぼ全作視聴してしまったので……もうここまできたら、どうせなんで、ゴジラシリーズの全作品について書こうと思います。

というわけで、『ゴジラ対メガロ』。


【公式】「ゴジラ対メガロ」予告 人間型電子ロボットのジェットジャガーが登場するゴジラシリーズの第13作目。


公開は、1973年。

前作に引き続き、タッグマッチとなっています。
『ゴジラ対ガイガン』がタッグマッチ方式でそこそこの成功を収めたことで、そこに活路を見出したのでしょうか。

敵側は、昆虫怪獣メガロと、前作に続いて登場するガイガン。

迎え撃つ人類側は、ゴジラとジェットジャガー。

ジェットジャガーは、人間が作ったロボットです。

しかし、後の平成ゴジラで人間側が作る兵器のように大掛かりなものではなく、民間人が自宅で作っています。ここがまず、本作のツッコミポイントその1です。なぜ、一民間人がそんな高性能ロボットを自宅で作れるのかという……

そのことともからんできますが、この作品は、非常にこじんまりとしています。
登場人物が少なく、怪獣が暴れまわるシーンも限定的で、あまり空間的な広がりを感じさせないのです。これは費用の問題というよりは制作期間が短かったためらしいですが……そういう事情なので、ロボットを出すにも、大規模な研究所のような設定にできなかったのでしょう。


いっぽう、敵怪獣のメガロ。

形状がカブトムシ型ですが、これは、子供向けを意識して、子どもに人気のあるカブトムシをモチーフにしているといいます。怪獣としての見てくれは、決して悪くないといえるでしょう。

そのメガロは、「シートピア海底王国」の守護神という設定です。

この「シートピア海底王国」というのは、かつてレムリア大陸に住んでいた人たちの国。

彼らは地上で行われていた核実験によって被害を受けており、それを阻止するべく地上の人間たちに戦いを挑むのです。
そこは、“核の脅威”というゴジラの本来のテーマに戻っているようです。その点に呼応するかのように、前作と比べてコミカルな調子が抑制されているようにも感じられます。

しかし、そうはいっても、ゴジラが本来の立ち位置に戻るわけではありません。

前作に引き続き、本作では、ゴジラはもう完全に正義の味方となっています。

ジェットジャガーが呼びにいくと、きちんとそれに応じて怪獣島からはるばる来日。
そして、ジェットジャガーがピンチになれば助け出し、ガイガンがジェットジャガーを人質にとれば、いったん攻撃を躊躇。そして戦闘に勝利した後は、ジェットジャガーと握手を交わして(!)帰っていくのです。


端的にいって、『ゴジラ対メガロ』は、ゴジラの全作品においても評価が低い作品の一つでしょう。

イースター島のモアイについて「300万年前ぐらいに作られたもんらしいんですけどね」とトンデモ情報をさらりと出してきたり、意志の力でジェットジャガーが巨大化したりと、ツッコミどころが満載です。特にジェットジャガー巨大化の部分はよく突っ込まれるところで、あまりリアリティといったことにはこだわらないタイプの私でも、さすがにそれは説明が雑すぎだろうと思わずにいられません。

復調し始めていた観客動員数がこの作品で急落したのも、むべなるかなというところでしょう。
私も、特に擁護しようという気にはなれません。
評価するところがあるとしたら、ジェットジャガーのダサカッコいいデザインぐらいでしょうか。

あと、音楽が流用でなくなっています。

前作が興行としてそれなりにうまくいったことを受けて、音楽の予算ぐらいはつけてやってもいいということになったんでしょうか。『ゴジラ対ヘドラ』で音楽を担当した眞鍋理一郎さんが、再び音楽を担当しています。
しかし、この人選もなんだかちぐはぐに思えます。
眞鍋さんは前衛的な傾向を持っている人で、それが『ゴジラ対ヘドラ』の実験的傾向にフィットしていたといわれますが、『ゴジラ対メガロ』には、映画として実験的なところなんかほとんどないわけです。しかるに、そこに眞鍋さんがつけた音楽は、ギターが歪んでたらジェスロ・タルになるんじゃないかというような曲だったりして、そこはかとなく前衛性を漂わせています。

音楽に関しては、ジェットジャガーの唄にも触れておかなければならないでしょう。

前作『ゴジラ対ガイガン』に引き続き、この映画もエンディングテーマがあります。
タイトルは「ゴジラとジェットジャガーでパンチ・パンチ・パンチ!」。それをもとにした曲が作中でBGMとしてたびたび流れてもきます。
タイトルからわかるとおり、前作のエンディングテーマと同系統で、やはり、リアルタイムで観ていない世代には違和感しかありません。

子供向けということで、昔のヒーローものみたいな音楽になってるんですが……前にガメラ映画の記事で書いた、ゴジラが「子供向けになろうとしてなりきれない」というのは、この歌にも出ているように思えます。
最初から最後までメジャー調で子供合唱団だけで歌い上げられるガメラに対して、この歌は子門真人さんによって歌われます。「およげ! たいやきくん」の、あの子門真人さんです。この歌声で歌われれば、ところどころさしはさまれるマイナーコードを媒介にして、たいやきくんの哀愁がいやでも漂ってきます。子どもたちのコーラスが入ってきますが、これもたいやき臭を拭い去るにはいたりません。テンポもゆったりとしていて、ガメラのあのリズミカルな感じとはかなり隔たりがあります。

結局は、「子供向けになろうとしてなりきれない」というのが一番悪いかたちで出てしまったのが、この『ゴジラ対メガロ』なんじゃないでしょうか。

前々作『ゴジラ対ヘドラ』以降のゴジラ作品には原点回帰的な方向性があると思うんですが、それが子供向け映画にしようというベクトルと矛盾していて、そこからくる齟齬をアジャストしきれていないのではないか。
映画の核心となる部分についていえば、敵であるシートピア人は、人間が行っている核実験の被害者なわけです。地上人の身勝手で生存を脅かされ、戦わざるをえなくなったのです。であるなら、はたして彼らの挑戦を斥けたことで単純にハッピーエンドといえるのか。彼らの守護神を撃退するジェットジャガーは“正義の味方”といえるのか。この点においても、「メッセージ性」と「子供向け」が対立してしまっています。
重いテーマと子供向けであることとは、必ずしも矛盾しないはずで、そこはきちんと手当てができたと思います。しかし、この映画ではどうも、齟齬が齟齬のままで放置されてしまっているように見えるのです。
かててくわえて、福田純監督のユーモアほのぼのセンスも、そこではマイナスに働いてしまったのではないか……そんな気がします。

数字で見ても、この作品は、興行的に大失敗といっていい成績に終わりました。
観客動員数はそれまでのシリーズで最低。ゴジラシリーズ全体でみても、歴代ワースト2位の記録です。
ここで、ゴジラ映画はふたたび打ち切りの危機を迎えることになるのでした。

FF8チュートリアル

2019-09-27 18:12:05 | ゲーム
 
最近、このブログのファイナルファンタジー8に関する記事がよく読まれているようです。

FF8のリマスター版が発売されたためでしょうか……しかし、時に心外な目にあうことも。

gooブログをやっている方ならおわかりと思いますが、このブログの「リアルタイム解析」では、自分のブログにたどりついた検索ワードがわかる場合があります。
それでわかるのですが……時折「FF8 クソゲー」というようなワードで検索する方がいらっしゃいます。嘆かわしいことです。やはり世間には、まだそのような評価が根強く残っていることなのでしょう。そうした人たちに、このブログの記事が別の見方を提示できたのなら幸いです。

ついでなので、FF8をやろうかどうかと迷っている人のために、いくつかアドバイスを書いておきたいと思います。

・ジャンクションを自分で工夫しよう
 FF8をやるなら、まずはジャンクションの理解を深めることを目指しましょう。オートでジャンクションをしてくれる機能がありますが、これは使わないほうがよいです。特に防御中心のジャンクションにすると、ゲームがつまらなくなること請け合いです。FF8は、とにかくジャンクションにはじまりジャンクションに終わるゲーム。ジャンクションをいじる楽しみを味わうのでなければ、FF8にゲームとしての楽しさはほとんど期待できません。

・GFに頼らないようにしよう
 ゲームをはじめた当初、GF(ほかのFFでいう召喚魔法)の攻撃が頼りになると思うかもしれません。しかし、ひたすらGFを召喚していたのでは、やはり、FF8はあまり面白くないゲームという感想になってしまうでしょう。さらに、GF頼みで進めていると、終盤のダンジョンで行き詰る可能性が高いです。
 ジャンクションをきっちりしていれば、GFは、一部を除いてほとんど使う必要がありません。
もし、GF攻撃に比べて通常攻撃がまったくダメージを与えられないという状態になっていたら、ジャンクションを見直しましょう。強力な攻撃魔法を力にジャンクションすれば、攻撃力が上がります。ジャンクションする魔法の種類と数によって、パラメーターは劇的に変化するはずです。そうすれば、GFなんて必要ないという意味がわかると思います。
逆に、それでも戦闘中に召喚する価値のあるGFは、ディアボロスとグラシャラボラスぐらいでしょう。特にディアボロスは、ラスダンで重要な役割を果たしてくれます。

・カードゲームをしよう
 ジャンクションのための魔法を手に入れる方法は、ドローが一般的です。しかし、カードゲームを利用すれば、効率的に魔法を手に入れることができます。カードゲームをうまく使えば、序盤でチートレベルの攻撃力を得られます。カードゲームは、やったほうがいいでしょう。

・レベルの概念に注意
 FF8では、こちらのレベルが上がると敵のレベルも上がります。したがって、レベルを上げることで有利にはなりません。敵との戦闘力の差は、ジャンクションでつけなければならないのです。
 ただし、ボスキャラはレベルの上限設定があるので、レベルを上げることによってボスキャラに勝てるようになるということはありえます。
 また、敵キャラからドローすることのできる魔法は、レベルによって変化します。レベルが低いと、あまり強力な魔法を手に入れられません。そのため、フレアやメテオといった強力な魔法をドローするためにレベルを上げるという考え方もあります。そのあたりは、バランスで判断しましょう。

・強いキャラは
 ゼルが最強と一般的にいわれます。主人公のスコールも、使えるでしょう。ただ、私個人としてはセルフィが最強だと思ってます。
 FF6でいえば、ゼルはマッシュ、セルフィはセッツァーに近いアビリティを持っています。つまり、セルフィの固有アビリティは、「スロット」。スロットで、さまざまな魔法が発動するのです。ほぼすべての敵を瞬殺できる「ジエンド」がよく取り沙汰されますが、「レビテガ」もほぼ同じ効果を持っています。また、全員の体力をフル回復させる「フルケア」なんてものもあり、これは結構役に立ちます。

・お金を稼ぐには
 FF8は、モンスターを倒してもお金は手に入りません。お金は給料制です。傭兵としての等級があり、その等級にしたがって、一定時間が経つごとに給料が支払われます。
 等級を上げるためには、ゲームを遅滞なく進めること。謎解きが必要な箇所で時間をかけてだらだらと歩き回ったりしていると等級が下がります。
 ただし、モンスターを倒して手に入れてアイテムが手に入ることがあり、そのアイテムを換金することでもお金は得られます。また、アイテムを別のアイテムに変換するということができて、これで付加価値をつけて高く売ることも可能です。一例を挙げれば、「メズマライズ」というモンスターを狩ると効率的に稼げます。
 さらに、アイテム間のレートの差を利用して、加工販売業みたいなこともできるらしいです。店で仕入れてきたアイテムを別アイテムに変換させて売ると、仕入れ値よりも高く売れて利益が出るという……ものによっては、莫大な利益を得られるといいます。ただ、私はやったことがありません。これはさすがにRPGとして邪道でしょうし、それで果たしてどれだけのメリットがあるのかという話にもなってきます。多くのRPGがそうであるように、FF8 においても、必要な装備などを整えてしまえばお金にはほとんど意味がなくなります。金で能力値を上げるということもできるんですが、この加工販売でそれをやろうとすると、おそらく膨大な時間がかかるでしょう。それだったら「たべる」(モンスターを食べることで能力値を上げるアビリティ)などを利用したほうがまだいいのではないかと思います。



……とまあ、こんなところでしょうか。
総じて、FF8は自由度が高く、とりあえずこの方向でやっていればいいというような進め方がありません。その選択肢の多さを楽しめるかどうかがポイントです。
自由度の高いゲームが好き、というゲーマーは、FF8 を楽しめると思います。

『地球攻撃命令 ゴジラ対ガイガン』

2019-09-25 17:59:03 | 映画
 
今回は、映画記事です。

いったんガメラの話をしましたが、ここでまたゴジラシリーズに戻って、シリーズ第12作目の『地球攻撃命令 ゴジラ対ガイガン』について書きましょう。
公開は、1972年。

ガイガンという、名脇役怪獣が初登場した作品で、地球侵略をもくろむMハンター星雲人と、地球人たちの戦いが描かれます。
その予告編の動画を貼り付けておきましょう。

【公式】「地球攻撃命令 ゴジラ対ガイガン」予告 ゴジラとアンギラスがタッグを組んで地球を守るゴジラシリーズの第12作目。

メガホンをとるのは、福田純監督。
ゴジラ映画では、何度か監督を務めている方です。『ゴジラ対ガイガン』の前には、第7作『ゴジラ・エビラ・モスラ 南海の大決闘』と第8作『怪獣島の決戦 ゴジラの息子』を手掛けています。この人が監督した作品は、コミカルタッチというか、どこかほのぼのとした感じが前面に出る傾向があるように思われますが、本作もまさにそうでしょう。予告動画の最後に流れてくる歌からも、それは十分伝わってくると思います。


キャストで注目されるのは、『ウルトラセブン』のアンヌ隊員役として知られる菱見百合子(現・ひし美ゆり子)さんでしょう。本作では、空手三段の女傑として登場し、キレのあるアクションを披露してくれます。

本作は、一般的に、ゴジラが“正義の味方”というポジションに定着した作品といわれます。
前作『ゴジラ対ヘドラ』では、ゴジラは必ずしも人間の味方と言い切れない部分がありますが、『ゴジラ対ガイガン』以降は、一点の留保もなく完全に人類の味方となっています。
そう考えると、それまでゴジラ映画に頻繁に登場していたモスラが第一期シリーズ後半になってふっつり登場しなくなるのは、“正義の味方”という役どころをゴジラに奪われたためなのかもしれません。

すっかり「宇宙怪獣の侵略と戦う正義の味方」となったゴジラですが、この映画はタッグ戦となっています。

宇宙怪獣側は、Mハンター星雲人が召喚したガイガンとキングギドラ。凶悪タッグです。
迎え撃つ地球代表は、ゴジラとアンギラス。
アンギラスとはいささか頼りない気もしますが、この頃にはゴジラの弟分のような扱いになっていて、後の『ゴジラ対メカゴジラ』でもゴジラの前座的なかたちで登場しています。

10作目あたりから、ゴジラはそれまでにはない演出を取り入れるようになった……と以前書きましたが、それはこの作品にも見られるでしょう。

本作における演出的な特徴として、“劇画”というモチーフを挙げることができます。
漫画ではじまるオープニングは、なかなか秀逸だと思ってます。

そしてそのモチーフは、この映画で――しばしば否定的に――よく注目される、「ゴジラとアンギラスの会話」にも見られます。
怪獣同士の会話が吹き出しのせりふで表現されているというやつですね。予告篇の演出にあるものの、さすがに本編でそれはないだろう……と思って観ていると、本編でも吹き出しが出てくるのです。
いくらなんでもということで批判されることが多い場面なんですが、しかしこれも、その部分だけを見てはいけないと思うんです。
たしかにそのシーンだけを見たら、怪獣映画としてどうなんだと思うところです。
しかしこの映画は、漫画が一つのモチーフとなっています。そのモチーフに基づくものと考えれば、また別の受け止め方ができるでしょう。単に、怪獣同士の意思疎通をうまく表現する方法が思いつかないからそんなふうにしたわけではないんです。

ネタバレになるので詳細は書きませんが、クライマックスのシーンでも漫画のモチーフが顔をのぞかせます。
このシーンは、別にそんな演出をしなくとも話は通じるんですが、あえてそういうふうにしたところがポイントだと思います。

こうして全体を見てみると、「マンガ」あるいは劇画というモチーフが一つのテーマとして扱われていることがわかります。

おそらくは、ちょっと前にあった劇画ブームを背景にしていると思うんですが……東宝自体が、『子連れ狼』などの劇画原作映画をヒットさせていたということも背景にあるらしいです。
ゴジラ映画は、その時代の流行なんかを取り入れることがよくあって、この作品で使われるマンガ的な表現は、そういう文脈でとらえられるべきでしょう。


あと、この映画を観る際の注意点は、Mハンター星雲人の正体が閲覧注意なアレだというところですね。これはきっちり本物のアレを使って撮影されているそうです。裏側リアルなところも出てくるので、ここはちょっと気をつけたほうがいいかもしれません。

ここに、シニカルな文明批判を読み取ることもできるでしょう。
彼らの住んでいた星は、もともと人間のような生物が住んでいたものの、無謀な繁栄を追求したために環境破壊によって荒廃してしまったのです。そして、アレがはびこる星になってしまいました。そのことが語られるくだりでは、前作『ゴジラ対ヘドラ』に出てきたヘドロの映像が流用されたりもしています。このあたり、『ゴジラ対ヘドラ』で見えた路線を引き継いでいるようでもあります。繁栄を求めるあまりに、鉛と放射能の星になってしまい、アレが支配する世界……Mハンター星雲人によれば、地球もまた同じ道をたどっているのです。このシーンに、『ゴジラ対ヘドラ』の毒の効いたメッセージのリフレインを聴きとることができるかもしれません。ただ、全体のコミカルタッチとのミスマッチがあって、そういうメッセージ的な部分もなんだかとってつけたようなものに感じられてしまうんですが……


ここで、ガイガンという怪獣についても触れておきましょう。

ガイガンは、次作『ゴジラ対メガロ』にも登場。さらに、その次の作品である『ゴジラ対メカゴジラ』にも当初は登場する予定だったといいます。それは実現しませんでしたが、ずっと後になって『ゴジラ FINAL WARS』では結構重要な役割を担って登場します。

モスラやキングギドラといった“常連”怪獣ほどの存在感はありませんが、いぶし銀的な魅力がガイガンにはあります。
両手の鎌と、腹についたノコギリ、X-MENのサイクロプス風の目から発射される光線――これらのビジュアル的なインパクトも、ちょっとほかの怪獣にはないものです。
サイボーグ怪獣で、殺し屋というか、用心棒というか、そんな仕事人的な雰囲気をまとっています。
Mハンター星雲、シートピア、ブラックホール第三惑星といったところに住む人たちが、その殺し屋を雇って派遣しているらしいのです。
このガイガンが初登場したということも、本作に関して特筆されるところでしょう。

さらに、音楽にも触れておきましょう。

この作品では、伊福部昭によるゴジラのテーマが戻ってきます。

前作、前々作ではあのゴジラのテーマが流れませんが、この作品ではそれが復活しました。
『怪獣総進撃』以来2作を経て、ゴジラのテーマが戻ってきたのです。
しかし……伊福部音楽をぜひ使いたいという制作意図でそうなったわけではなく、これも使いまわしの一環だそうです。
作曲家に新たな曲の制作を依頼したり、ミュージシャンを集めて録音すると、当然ながらお金が発生する。その経費を節約するために、過去の映画の音楽をピックアップしてきたのだとか……「音楽の経費を削ったところで、全体の予算はほとんど変わらない」と音楽担当者が抵抗したものの、田中友幸プロデューサーと福田監督に押し切られたということです。
それらの曲は、おもにゴジラ映画からですが、それ以外のものもあります。
テーマ音楽は、東宝が関わっていた大阪万博の三菱未来館で使われた音楽の流用ですが、この選曲もいささか情けない理由によるものです。はじめは『宇宙大戦争』のテーマ曲を使おうとしたものの、それは有名な曲だから流用とばれる可能性がある。さすがにテーマ音楽が在りものなのはどうかと思われるから、流用であることがばれにくいものを――ということで、この曲を選んだそうです。
いや、むしろそれこそ、それはどうかと思わされる話ではありますが……映画産業が、特撮が、それだけ追い詰められた状況だったということでしょう。

音楽に関してもう一つ付け足しておくと、『ゴジラ対ガイガン』にはエンディングテーマがあります。
これはさすがに書き下ろされたものだと思いますが……ただ、作曲したのは、前々作『ゴジラ ミニラ ガバラ オール怪獣大進撃』の音楽を担当した宮内國郎さんで、そのあたりの事情はよくわかりません。
「行くぞどこでも 平和のためだ」という歌いだしから、いやいやちょっと待ってくれよとなる歌ですが、「広い世界をかけめぐり めざすは悪い怪獣だ」と続き、最後は「ガンバレ ガンバレ ぼくらのゴジラ」としめくくられて愕然とさせられます。
この歌もまた、本作からゴジラが「正義の味方」に定着したとされる所以でしょう。第一作ゴジラや、平成ゴジラを見て育ったものとしては、尋常じゃない違和感があります。
しかし、これもまた、ゴジラシリーズが生き残りのために選んだ道だったということでしょう。本当にそこにしか道はなかったのかと私は思ってますが……

ともあれ、結果として、『ゴジラ対ガイガン』は、前作に続いてそれなりの成績をおさめました。
要因はいろいろあるでしょうが、タッグマッチという方式でキングギドラを登場させたことも大きかったと思います。観客動員数は、前作『ゴジラ対ヘドラ』をやや上回り、東宝にとってもほとんど望外の成功だったんじゃないでしょうか。こうして、昭和ゴジラはもう少しだけ生きながらえることになるのです。




Muddy Waters - Rolling Stone

2019-09-24 16:52:58 | 音楽批評

今回は、音楽記事です。

 

このカテゴリーでは、以前ジミ・ヘンドリクスについて書き、次回はマディ・ウォーターズのことを書くと予告しました。

そこから別カテゴリーの記事がはさまりましたが……いよいよ、予告していたマディ・ウォーターズの記事をアップしたいと思います。

 

マディ・ウォーターズは、フーチー・クーチー・マンなどでも知られるアメリカの伝説的ブルースマンです。

 

出身は南部ですが、シカゴブルースのレジェンドとして知られています。

 

それは、「都市の洗練された音楽」になっていたブルースに、南部の泥臭さを持ち込んだためともいわれます。

 

工業都市であるシカゴでは、ブルースが、いつの間にか高級な音楽になってしまっていた。

そこへ、マディ・ウォーターズのブルースが一種の原点回帰をもたらしたというわけです。

 

では、ブルースの原点とは何なのか?

 

これはなかなか難しい問いでしょうが……ブルースの源流をたどっていくと、一つのルーツとして、ワークソングがあるといわれます。

 

たとえば、ブルースの歌詞には同じフレーズを2回繰り返す表現がよく見られますが、これはコール&レスポンスの名残ともいわれます。

 

労働者たちが、労働の合間に歌を歌う。

一人があるフレーズを歌うと、周りにいる仲間たちが唱和して、そのフレーズを繰り返す。

これが、コール&レスポンスです。

ワークソングの流れを汲むブルースの歌詞にも、それが入り込んだ。しかし、ブルースシンガーの場合はそれを一人で歌うので、合いの手(レスポンス)が入らない。そこで、一人で同じフレーズを2回繰り返すようになった……というわけです。

 

つまりブルースは、労働者の歌であり、労働者の悲哀がそこに込められているのです。

 

20世紀初頭、都市労働者という階層が形成されたのと同時に、世界中の都市に労働者階層の大衆歌が形成されましたが、アメリカにおいてはブルースがそれにあたるといわれます。

 

ところが、そうした音楽にも、時がたてば“疎外”が生じる。ブルースも、音楽として洗練されていきます。

それ自体は、音楽の流れとして当然のことです。

しかし、洗練されたお洒落な音楽になったのでは、魂が消えてしまう。労働者の苦悩や辛酸が感じられなくなる。

そこへ、南からマディ・ウォーターズがやってきた。

野卑で、猥雑なだみ声――洗練によって失われてしまった魂がそこにあった。ゆえに、シカゴの労働者たちにとっては、「これこそブルースだ!」となったのでしょう。

こうしてマディ・ウォーターズは、歴史に名を残すブルースの巨人となりました。

 

そのブルースは、ロックにも大きな影響を与えています。

ビートルズの Come together の歌詞に出てくる muddy water という言葉は明らかにマディ・ウォーターズを意識したものであり、また、ロッド・スチュワートは「ありがとう、サム、オーティス、マディ」と歌い、サム・クック、オーティス・レディングと並べて彼を讃えました。マディ・ウォーターズの代表曲の一つであるRollin' Stone が、雑誌のタイトルとなり、またローリング・ストーンズのバンド名の由来となったことはあまりにも有名です。

 

で、そのRollin' Stone です。


 
なにぶん、だいぶ古いので、こういうベストアルバムのような形でしか音源は手に入らないんじゃないかと思われます。

しかしながら、YouTubeには公式チャンネルがありました。

 その動画も貼っておきましょう。

Muddy Waters - Rolling Stone(Catfish Blues) (Live)

 

以前ジミヘンの記事で書いたとおり、Catfish Blues という曲がもとになっています。人によっては、同じ曲として扱う場合もあるようです。この動画でも、カッコ書きで Catsifh Blues としてます。昔の歌は、歌詞の一部が変っていたり、同じ曲が複数の違うタイトルで紹介されていたりすることが結構あるので、そういう意味で同じ曲ととらえているんでしょう。

ブルースの歌詞は結構そういうところがあって、この歌も、Catfish Blues と共通するところがあるかと思えば、フーチークーチーマンや、あるいはジミヘンの Red House と歌詞の一部が共通していたりします。そういうところからすると、Catfish Blues と Rollin' Stone は同じ曲とはいえないんじゃないかと個人的には思ってます。

しかしまあ、ブルースにおける歌詞というのは、雰囲気を作るぐらいのものであって、さほど厳密に扱われてはいなかったんじゃないかとも思えます。

要は、パフォーマンスいかんというところでしょう。

この曲では、マディ・ウォーターズのだみ声があますことなく響き渡ります。ライブの動画では、録音音源ほどではありませんが……しかし、粗野で猥雑といえば、これ以上のものはないでしょう。それは、歌詞についてもいえます。Catfish Blues と同様、この歌でも間男というモチーフが歌われるのです。

黒人=絶倫というステレオタイプが古くからありますが、ブルースはそのイメージを取り入れているところが多分にあります。同じマディ・ウォーターズでいえば、フーチークーチーマンがその最たるものでしょうが、Rollin' Stone も同系統にあるといえるでしょう。差別を受けている黒人が、白人から投影されたイメージをみずから演じる――という、屈折した構図がそこにあります。

そして、それを白人が真似するというさらに屈折した構図がロックンロールにあるというのは、これまでにも指摘したとおりです。

で、最初の本格的白人ブルースシンガーといわれているのがエリック・バードンなわけですが……やっぱり、聴き比べてみると、マディ・ウォーターズとはずいぶん違います。なにかこう、声が響いてくるその元栓の部分からまったく違うような気がします。ジャズの世界でよく「黒っぽい音」とかいいますが、そのフィーリングに通ずるものでしょうか。どうやったって、こんなふうに歌えるわけがねえ……というコンプレックスのようなものが、後のロックンローラーたちにはあったわけですね。

 

 

ちなみに……

 

恒例の我田引水となりますが、この Rollin' Stone は、トミーゆかりの曲でもあります。

このブログで何度か紹介してきた、連作短編集『トミーはロック探偵』のなかに、この曲を題材にした短編がありました。

 

……というわけで、ジミヘン記事に引き続いて、強引に自作に寄せていく荒業でした。


「辺野古 基地に翻弄された戦後」

2019-09-22 19:03:59 | 日記

 

ETV特集「辺野古 基地に翻弄された戦後」という番組を観ました。

 

昨今はジャーナリズムも劣化を指摘されますが……なかなか良質で見ごたえのあるドキュメントでした。

 

テーマは、辺野古です。

現在の泥沼状態に至るまでを、敗戦後に沖縄が米軍統治下に置かれたところからたどっていきます。

 

キャンプ・シュワブができる過程では、圧倒的な権力を持つ側の狡猾な戦略が描かれます。

 

その当時も、基地建設に対して住民の間では激しい反対運動が起きたそうですが、アメリカ側は“アメとムチ”で反対派住民にくさびを打ち込み、分断していきます。

 

反対してもどのみち勝ち目はない。だったら、基地建設を認めたうえで見返りを得たほうがいい……こうして反対派の一部を条件闘争に移行させることで、反対運動を分断。いったん基地を作りはじめれば、既成事実化し、今さら反対してもしょうがないという空気ができあがる……

 

これは、沖縄の基地をめぐる闘争において、今にいたるまで何度も繰り返されてきたことでしょう。

 

見返りをちらつかせ、反対し続けるよりは見返りを得たほうが……という方向に誘導し、住民を分断する。そのたぐいの話は、幾度もありました。

辺野古の歴史を鑑みれば、その“見返り”も結局は一時的なものでしかありませんでした。

そもそも、外国の基地に依存する経済はきわめて脆弱なものでしょう。アメリカ側の事情に振り回され、いつ生活の糧を断たれるかわからない不安定な状態です。これは果たして、見返りといえるものなのか……

 

そして、現在の辺野古では、普天間返還にあわせてということで新たな基地が作られています。

 

この工事に関しては、大浦湾に軟弱地盤があることが明らかになり、政府もそのことを認めています。

しかしながら、政府はもう計画を止めるつもりはなさそうです。

以前も指摘したとおり、そういう場所に基地を作るのは、純粋に安全保障という観点から見ても問題があるでしょう。いざ有事というときに、液状化とか滑走路が傾いているとかいうことになって使えなかったらどうするんでしょう。それとも、そんなことはありえないと言い張るんでしょうか……

大量の杭を打ち込むという工事が技術的に可能だとしても、そういうリスクがわずかでもあればそれを避けるのが安全保障ということなんじゃないでしょうか。

現状ではもはや、辺野古に基地を作るということそれ自体が目的化してしまっています。

先日、推理作家協会の作家らが抗議の声明を出した件をこのブログで紹介しましたが、そこにあったように、硬直した政府の姿勢は“異常”と表現されてもやむをえないものでしょう。

 

ドキュメントでは、旧民主党政権が県外移設を打ち出したものの、結局その方針を変更したことも描かれていました。

この件についても、その背景にあったとされる「65カイリ基準」とか米側による「大使呼び出し」という話が、いずれも後に虚偽であったことが明らかにされています。こうして、目的も、その過程も欺瞞にまみれたなかで、基地建設だけが続いているというのが実情なのです。

 

このドキュメントのなかで、「相手は巨大な怪物」という言葉がありました。

 

辺野古住民の一人が口にしたこの言葉は、じつに印象的です。

これを聞いて私は、以前このブログで書いた『ゴジラ対ヘドラ』を思い出しました。

ヘドラは、若者たちの運動を押しつぶす巨大な体制の象徴のようなものともとれると、そこでは書きました。ここでいう“体制”とは、単に政府という意味ではありません。もっと広範な、世間とか、経済とか、そういうものを含めた意味での“体制”です。

 

辺野古の基地建設に突き進む今の状況は、あの、ヘドラの醜悪な姿そのものではないでしょうか。これをなんとかできるかということで、日本という国が試されているような気さえします。