前回に引き続き、ゴジラ映画について書きます。
今回は、『ゴジラ・エビラ・モスラ 南海の大決闘』です。
1966年に公開された、シリーズ7作目。
その前作が『怪獣大戦争』にあたるわけですが、ストーリーとしてのつながりは、あるのかないのかはっきりしません。
とにかく世の中にゴジラという怪獣が存在していて、過去に何度か暴れまわったことがある。だから、みんなゴジラの存在を知っている――という漠然とした前提に立って話を進めるスタイルが、このあたりから確立しているのではないかと思われます。
主演は、宝田明、水野久美という二人。これは、前作に引き続いてのキャスティングです。
宝田さんは初期ゴジラ作品でたびたび主演をつとめていますが、毎回役回りが違っていて、話の連続性ということを考えるとちょっとややこしいことになってしまいます。
それは、前作で敵の宇宙人を演じた水野久美さんもそうで、また、宝田さんと同様にゴジラ常連である田崎潤さんについてもいえます。
この『南海の大決闘』では、田崎さんは珍しく悪役の側で登場。子どもがみたら、「このおじさん、こないだまで正義の味方だったはずじゃ?」と思ったりしなかったんでしょうか。
その田崎さんが演じる司令官は、「赤イ竹」という組織の指導者。
この組織は、どうやら共産ゲリラらしいです。
彼らは、モスラの棲み処であるインファント島から住民を拉致してきて、奴隷として使役。そうして、秘密基地で核兵器を開発しようとしています。
そこへ漂着した日本人たちが、赤イ竹と戦うことになり……という物語です。
前作に引き続き、ここでもゴジラは“正義の味方”的な立ち位置にいます。
しかし、その方向性は、さらに変化しているように思われます。
宇宙人が攻めてきたから地球人の側に立って戦うというのは、「共通の敵だから」ということで納得できなくもありませんが……この作品ではそうではありません。
ここではゴジラは、共産ゲリラをやっつける存在になっているのです。
しかも、主人公やその仲間たちには攻撃をくわえず……最後にモスラと戦いこそしますが、ここでも、ゴジラという存在のもつ意味合いが大きく変化していることが見て取れます。
今作では、「宇宙人vs地球人」の構図で地球人の側につくのではなく、イデオロギー対立を背景にしているように見えるのです。
こうなってくると、ゴジラというのはひょっとして、“核の恐怖”の象徴というよりも、アメリカの象徴なのじゃないかとさえ思えてきます。
そんなふうに考えたら、ゴジラに対するイメージの変遷が理解できるんじゃないでしょうか。
……ちょっと脱線しましたが、映画のストーリーについてもう少し書いておきましょう。
この映画では、タイトルのとおりゴジラ、エビラ、モスラという3匹の怪獣が登場します。
ただし、モスラは最後のほうになるまでバトルに参加せず、怪獣映画としての見せ所はゴジラとエビラの格闘でしょう。エビラは、その名が示す通り巨大なエビ型怪獣で、水中アクションも展開されます。
もちろん最後にはゴジラが勝つわけなんですが……ゴジラが正義側に立つ映画ではいつでもそうであるように、その後が問題となります。悪をやっつけてめでたしめでたし、で、それからゴジラはどうなるのか? 話を作る作り手側からすると、ゴジラをどう処理するのか、というところです。
ネタバレになるので詳細を書くのは控えますが……まあ、おきまりのパターンともいえる終わり方でしょう。しかしやはり、人間の側もすっかりゴジラの味方になっているというところが、時代背景の変化を感じさせます。
本作はまた、南海の孤島を舞台とし、そこにエビラという怪獣を登場させ海での戦い描く……そういう、シリーズの新たな地平を開いたという点も注目されます。
島が舞台という設定は次作『ゴジラの息子』に引き継がれ、その後の怪獣島にもつながっていくモチーフでしょう。
この点についても、絶海の無人島としておくほうが、人間社会に被害が出ず“正義の味方”ゴジラとしては都合がよかったということなんじゃないか、と邪推してしまうんですが……