本日8月9日は、長崎原爆忌です。
これもやはり、このブログで迎えるのは最後ということになりますが……
もう長いことブログをやってきて思うのは、一発目の原爆を投下した三日後に、二発目を投下しているというこの時間間隔です。
原爆忌について書かなきゃな、という意識でいると、その性急さが切実に感じられます。
世間的にもそうでしょう。ゆえに、どうしても長崎原爆忌は広島の陰に隠れてしまうような部分が出てきてしまいます。
音楽の世界でもそうでしょう。
このブログでは、洋楽もよく扱ってきましたが……広島原爆のことを歌って、歌詞のなかにHiroshima という言葉が出て来る歌はたまにあるものの、長崎はあまりない印象です。
そのレアな例の一つとして、Crass のNagasaki Nightmare という歌があります。冒頭部分では、日本語で核兵器について語っているパートも。
Nagasaki Nightmare
英国パンク/ハードコアのなかでもきわめてラディカルで前衛的なバンドだからこそかな、と思われます。
一方、被爆国である日本では、長崎の原爆禍を扱った歌も少なくないでしょう。
なかでもとりわけ有名なのが「長崎の鐘」。
古関祐而の手になるこの歌は、これまでこのブログで何度か取り上げてきましたが……最近Youtubeでこんな動画を見つけました。
【フル歌詞付き】長崎の鐘 -藤山一郎【ピアノver. / Covered by saya】
歌っているのは、先日の参院選で当選した「さや」こと塩入清香氏。
この方はジャズシンガーでもあるわけですが、去年「長崎の鐘」をカバーする動画をあげていました。最近この手の話をうかつに信じていいか警戒するところもあるんですが、Xのリンクなどを見ても、おそらくご本人のものと思われます。
本当に本人か、と疑いたくなるのは……先日広島原爆忌の記事で書いた「核武装は安上り」という発言をしたのが、ほかならぬこの方だからです。
もちろん政治と音楽は基本的に分けて考えるべきなので、歌う歌の内容と政治信条が一致している必要もないといってしまえばそれまでではありますが……核武装は安上りと思っている人にこの歌を歌ってほしくないな、というのも正直な気持ちとしてあります。
原爆に関しては、ここ数日「過ち」の主語論争が話題になっています。
「過ちは繰り返しませんから」というときの主語は誰なのか……かねてから議論されている問題ですが、ここはやはり、主語は広く「人類」ととらねばならないでしょう。
日本の側に過ちがない、というのは、歴史的な経緯に照らしてみて、そうはいえないことだと思います。
原爆や空襲の話をするときによく「罪のない人々」という言い方をしますが、この言葉はかなり曲者です。あの戦争に至った歴史において、道徳的な意味での“罪”はともかく、社会的、政治的なレベルでの“責任”は一般国民も免れない、と私は考えています。一般国民は、「罪のない人々」であったとしても、「責任のない人々」ではないのです。無論、だからといって無差別爆撃や大量破壊兵器の使用が容認されるかというのは別問題ですが……
戦争の惨禍について語るとき、一般国民の戦争責任、あるいは、潜在的に広く薄く分有されている加害性という部分は、ときに意識的にわきに追いやられてしまいます。結果、空襲や原爆についての物語は「何の過ちも犯していない人がひどい目にあった」というかたちになりがちです。これでは、話はかみあわないでしょう。アメリカ側からすれば、そっちから戦争しかけてきておいて、反撃されたからといって文句をいうのはおかしいだろ、となってしまいます。
ここで念のためもう一度言いますが、だからといって原爆の使用が正当化されるとは私は考えません。ただ、そこにいたる“過ち”の一端が、日本の側にもあることは否定できないでしょう。だからこそ、「過ちを繰り返さない」というときの主語は、人類全体でなければならないのです。