ロック探偵のMY GENERATION

ミステリー作家(?)が、作品の内容や活動を紹介。
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岡林信康「友よ、この旅を」

2022-11-29 22:20:50 | 音楽批評


今回は、音楽記事です。

先日の記事で、フォークゲリラに関するドキュメントについて書きましたが……そのフォークゲリラにおいてアンセムのように歌われていた歌がありました。

それは、岡林信康さんの「友よ」。
というわけで、今回は岡林信康さんについて書こうと思います。


はじめに、もう少しフォークゲリラのことを書いておきましょう。

大木晴子さんは花束デモではじめてデモのなかで歌を歌い、その2か月後に新宿のフォークゲリラがはじまるわけですが……その間の重要なできごとして、大阪訪問がありました。
花束デモには大阪からきたメンバーも参加していたようで、大木さんと仲間たちは彼らの活動を参考にしようと、大阪へ。そこで見聞きしたことをもとにして、新宿のフォーク集会を立ち上げていくのです。

そうすると、いわゆる関西フォークの影響が及んでいるとみることもできるでしょう。
象徴的なのは、大木さんが大阪でギターを買ったということです。
ギター弾きである仲間に選んでもらってギターを買い、東京へ帰る汽車のなかで練習。そして弾けるようになったのが「友よ」でした。

Tomo yo (Live)

このときマスターしたのが「友よ」だったというのも、象徴的です。

というのは、この曲は、非常にコード進行がシンプルなのです。
原曲キーだと短時間では難しいでしょうが、1カポか半音下げたキーにしてやれば、かなり簡単になります。基本的にスリーコード(D,G,A)のみで、バレーコードがないどころか左手側の小指を使う必要もない……数時間の練習で弾けるようになるのもうなずけます。
すなわち、シンプルであるがゆえに、誰でも弾ける、歌える、ということです。誰でも歌えるからフォークソングなのであって……そういう大衆性があるがゆえに、そこまで音楽に打ち込んでいるわけではない学生たちが運動に取り入れることができたわけです。

ただ、この点に関しては賛否あるでしょう。
そうした学生運動でフォークソングが歌われていることを、政治利用と批判する声もあります。当の学生たちの間でも、そういう葛藤はあったようです。歌は、音楽は、政治運動のために利用されていいものなのか、と……


そうした葛藤は、歌を作った本人である岡林信康さんにもあったかもしれません。

……ということで、ここから岡林信康さん本人について書いていきましょう。

前に一度どこかで書いたと思いますが、岡林さんはもともとはURCレコードから作品を発表しました。
URCはいまでいうインディーズレーベルで、メジャーのレコード会社から発表を拒否されたために、ここから出ることになったわけです。
その発表を拒否された曲の一つが「くそくらえ節」。

くそくらえ節

まさに、URCフォークというべき曲です。この頃の岡林さんは、こういう曲をよくやっていました。

たとえばボブ・ディランのカバー「戦争の親玉」。
高石ともやさんがつけた日本語詞で歌っています。

Sensou no Oyadama

高石ともやさんはURC創設にも関与した人で、この人との出会いは岡林さんがフォークをはじめる一つのきっかけでもありました。


セカンドアルバムから「私たちの望むものは」。
フランスの五月革命に触発された歌といいます。

Watashitachi No Nozomumonowa


JACKSのカバー「ラブ・ゼネレーション」。
JACKSもまた、URCを代表するアーティストといえるでしょう。岡林さんのファーストアルバムでバックバンドをつとめたのも彼らでした。

Love Generation

これらの曲は、しびれます。
ちなみに、「見る前に跳べ」というアルバムのタイトルは大江健三郎さんの小説からとったもの。そういうところもふくめて、この時代の空気が濃厚に漂っています。


しかし、時代の変化は“フォークの神様”を複雑な立ち位置に追いやります。

多くのフォークシンガーと同様、岡林さんも60年代風のフォークソングを歌い続けはしませんでした。
田舎に移住し、演歌をやり、テクノポップみたいなことをやり、民族音楽をやり……それらの時期の作品は、とても同一人物とは思えないぐらいに音楽性が変っているのです。

そこには、“フォークの神様”と呼ばれることに対する反発があったといいます。

そういうレッテルに縛られず、自分のやりたいことをやりたいようにやる……それは、たとえばボブ・ディランの生き方に通じるものがあるかもしれません。

ただ、私が思うには……それはそれで、どこか無理をしているような気がするのです。
僭越ながら、この時期の活動には、なにか虚構めいたものがつきまとっている臭いを私は感じています。
日本的リズムの追及や、ムーンライダーズとの共同作業など、意義深い活動は多くあります。しかしどこか、なにかを避けているような感じがあるのです。
それは、商業的な意味での成績がどうこうということとは、また別の話です。時代の変化を考えれば、おそらく旧来のフォークソングをやり続けたとしても商業的な成功は期待できなかったでしょう。そういうことではなく……もっと根源的な部分の問題としてです。
2000年ごろから、およそ20年にわたって作品を発表しない時期が続くわけですが、それも自分自身がある種無理があることを感じていたからではないか。ゆえに、JACKSの早川義夫さんと同じような失語症的状態にとらわれていたのではないか……ライブでも「友よ」を封印していたというのは、その一つのあらわれじゃないでしょうか。


尾崎豊のことを歌った「ジェームズ・ディーンにはなれなかったけれど」という歌があるんですが、この歌に関して、自分が東京にい続けたら尾崎のようになっていただろうといったようなことを岡林さんは語っています。
26歳で尾崎は死んだ。そして岡林信康は、26歳で田舎に移住した……それはつまりは、“フォークの神様”は死んだということではなかったでしょうか。そして、自分のやりたい音楽をやりたいようにやりながらも、岡林信康というアーティストは、死んだ神様の抜け殻のようなものをどこかで背負い続けていたのではないかと私には思われるのです。まるで十字架のように……
そんなふうに考えると、ファーストアルバムのジャケットに描かれる十字架の影はまるで預言のようです。
思えば、尾崎豊の最後のアルバム『放熱への証』のジャケットも、十字架が描かれていました。
それは、時代の寵児となったがゆえに背負った十字架ということでしょうか。
岡林さんは牧師の家庭に育ち、同志社に進んだ人。ミッション系の青山に通っていた尾崎……と、案外この二人には共通項があるのかもしれません。

ただし……尾崎はその十字架を背負って死んだわけですが、岡林信康という生身の人間は死にはしませんでした。
そして、『復活の朝』があるのです。

岡林信康 復活の朝

昨年発表された、23年ぶりのアルバム。
このアルバムでは、社会風刺のような歌も聞かれます。タイトル曲は、コロナ禍におけるニュースを聴いているうちに、歌が浮かんできたのだとか。
「作詞作曲の岡林信康は終わったんだな」と思っていてた岡林さんは、「歌がボロボロ出てきた時はびっくりしたよ。自分でも、おかしいな? って(笑)」「とにかく自分の中にあったものが出てきた。そういう感覚やね。 」と語っています。
それがつまりは、無理に封印していた“フォークの神様”が岡林信康という人間の肉体において受肉・復活したということだと私には思われるのです。

このアルバムには、70年ごろのフォークソングのようなメッセージ性があります。
独裁政治の危険に警鐘を鳴らす「アドルフ」。
地球温暖化について歌う「BAD JOKE」……

そして、アルバムの最後は「友よ、この旅を」という歌でしめくくられています。

本人も語るとおり、これは「友よ」へのアンサーソング。
そうすると、やはりこのアルバムは、“フォークの神様”がもとの場所、本来あるべき場所へ戻ってきたということだと思うのです。

 陽は沈み陽は昇る
 歩いて行こう

と、「友よ、この旅を」では歌われます。
これは、「友よ」において「夜明けは近い」と歌ったことへの総括でもあるのです。

  喜びも悲しみも
  受けとめてかみしめて
  この旅を行こう 友よ
  終わりの日まで

夜が明けて「輝くあした」がくるというのではなく、夜と夜明けは繰り返される。それを受け止めて歩いて行こう……かつての学生運動の挫折と、その後の日本社会のありようを踏まえた答えがこれだったということでしょう。
岡林さんは、これが最後のアルバムになると宣言しているそうです。
そのフィナーレにあたる「友よ、この旅を」は、“フォークの神様”のキャリアをしめくくるのにふさわしい曲といえるのではないでしょうか。






『声は届くのか』

2022-11-27 23:24:24 | 日記

昨日のことになりますが、NHKBSのドキュメント『声は届くのか』を観ました。

1969年新宿のフォークゲリラを扱ったドキュメントです。
フォークゲリラというものについては、このブログでこれまで何度か言及してきました。
新宿西口地下“広場”において行なわれていたフォーク集会。しかしやがて、警察権力が介入し、消滅に追い込まれた……「声は届くのか」は、そこにいた人々を描くドキュメントです。



番組に登場していた当事者の一人である大木晴子さんは、“フォークゲリラの歌姫”と呼ばれた方です。

この方はツイッターをやっておられて、私は一度ツイッター上でやりとりをしたことがあります。
その際に、フォークゲリラを扱った映画『’69春~秋 地下広場』を紹介していただきました。今回のドキュメントでは、その「地下広場」の映像が多く使われていたようです。

そこで描かれているように、「反戦フォーク集会」では、集まった人たちが議論を交わすという光景がみられました。
歌も歌うんですが、それがひととおり終わると自然発生的にそういうふうになっていたようです。
映画では、これを古代ギリシャの広場「アゴラ」になぞらえ、草の根的な民主主義の萌芽というふうに描いています。

しかし、先述したように、その集会は長くは続きませんでした。

集会の規模がふくれあがっていくと、警察がここに介入してきます。しかし、その介入が反発を招き、むしろ集会の規模はさらに拡大し、警察と対立するようになってきます。そして最終的には機動隊との衝突となり、フォークゲリラは消滅するのでした。地下広場は地下“通路”とされ、大人数の警官が“警備”にあたるように。彼らが「立ち止まらないでください、歩いてください」と呼びかける姿は、どこかディストピア感も漂っています。


フォークゲリラは、戦後日本においてどういう意味があったのか。

そこで語られていることの中身には賛否あるでしょうが……その空間に形成されていた広場自体には、意味があったと私は思います。見ず知らずの人が、そこで社会問題について意見を交わすというそういう空間……
しかし、その広場を育んでいくことを許さないこの国の風土があった。

それは、取り締まる側の問題というだけのことではなく、発信していく側がその先の展望を示せなかったこと、そして、やはり“世間”……

フォークゲリラに対して批判的な意見をぶつける人たちも、「地下広場」には登場します。
「アジアの国々が共産主義の脅威にさらされている」としてベトナム戦争を肯定するサラリーマン風の男、「やるのは今のうちだけだよ、所帯でももってみなさい、子どもいればね、また考えも違ってくる」と冷笑を浴びせるおじさん。学生運動によって一般市民が迷惑をこうむると指摘する男性……
迷惑という点に関しては、この男性が例として挙げている火炎瓶、投石などの過激な行為はたしかに問題があったかもしれません。しかし、フォークゲリラはそうした行動とは一線を画していました。
 フォークゲリラは、源流の一つに小田実のべ平連があり、「花束デモ」という行動があり、そういうところからでてきた運動でした。
 「花束デモ」というのは、正式には「絶対にジグザクデモをせず、交通を妨害せず、商店に迷惑をかけず、2列になり、花束を持って、ベトナム戦争反対・米軍タンク車通過反対を訴えるデモ」といいい、その長い名前どおりの内容です。大木さんがはじめて新宿西口広場で歌ったのは、この集会においてだったといいます。これが1968年末のことで、そのおよそ2か月後に新宿西口で最初の反戦フォーク集会が行われるわけです。そういう経緯で生まれた集会だったからこそ、ゲバルトとは一線を画した広場性を持ちえたのではないでしょうか。
 しかし、そこへ、やがて全共闘くずれの過激派が入り込んでくる。警察が介入してくる。双方の対立が激化して衝突にいたる……ということになってしまいます。ひっそりと咲きかけた花が、土足で踏みにじられてしまったという印象です。
 素朴な問題提起が道行く人々の共感を呼んだのに、そこに入り込んできた賛否双方の過激派がなぐりあいをはじめて収拾がつかなくなる――これは、よく考えてみればツイッターなんかでしばしば目にする光景です。結局のところ、半世紀がたってもこの国では広場を育てることができていなかったのだな、と思わされます。その果てにあるのが、いまの惨憺たる政治状況ということなんじゃないでしょうか。



ウクライナ侵攻開始から9か月

2022-11-24 22:03:02 | 時事


ウクライナ侵攻開始から9か月が経過しました。

依然として、双方とも決め手を欠くなかで消耗戦が続いているという様相です。


最近の動きとして、欧州議会が、ロシアを「テロ国家」に認定するという決議がありました。
今さらという話ではありますが、一定の政治的意味はあるかもしれません。

いっぽうで、ポーランドにミサイルが着弾した問題というのもあります。
ウクライナ側が迎撃用に発射したミサイルという見方が強まっていますが、ウクライナ側は頑なな姿勢をとっており、これが風向きを微妙に変える要素になりかねないという話にもなってきました。

この件に関しては、そもそもロシアが戦争をしかけなければ起きなかったことなのだから、直接にはウクライナ側による誤爆であるとしても突き詰めて考えればロシア側に責任がある――という意見が国際社会の大勢になっているようで、私もそれでいいと思います。

もう一つ、最近の動きで大きいのは、アメリカの中間選挙でしょうか。
下馬評ほどでなかったとはいえ、民主党はかなりの苦戦を強いられ、下院は共和党に奪還されました。ウクライナに対する“支援疲れ”がその一因ともいわれており……これでアメリカの態度が変わってくると、ウクライナ戦争の先行きにも影響してくるでしょう。それは、停戦、和平交渉という方向にむかうはずです。ただ、ロシア側が態勢をたてなおして侵攻再開とならない方策を考える必要はありますが……



景山民夫『遠い海から来たCOO』

2022-11-22 23:15:44 | 小説



今回は、小説記事です。

先日モダン・フォーク・フェローズに作家の景山民夫さんが在籍していたという話を書きました。
そこでも書いたとおり、この方は『遠い海から来たCOO』という作品で直木賞を受賞しておられます。

話のついでなので、この小説のことを書いておこうかと思いました。


発表されたのは、1980年代後半。

景山さんの代表作といえるでしょう。

ストーリーは、太古のプレシオサウルスが実は生存していて、その子どもが南の島で暮らす少年に拾われて育てられるというもの。
それだけならほのぼのとした話ですが、そこに某国の軍事機密がからんできて、中盤からは国際謀略サスペンス的な色彩を帯びてきます。ネタバレを避けるために詳細は伏せますが、物語としては目指すべきゴールにきれいに着陸しているという印象です。そこから導き出されるテーマは、たとえばその当時のゴジラシリーズ作品なんかと通じるところがあるかもしれません。

ほのぼのとした物語から国際謀略サスペンスへというコントラストが問題になってくるところではあって……某国の特殊部隊が島に潜入してきたりするんですが、そのあたりの描き方には直木賞の選考でもちょっと物言いがついたらしいです。それなりに強い味方がついているとはいえ、民間人が特殊部隊と戦って撃退できるわけがないとか……しかしまあ、そのへんは少年向けの物語として許容範囲であろうと私は思ってます。


この作品はアニメ映画化されているわけですが、その映画のほうもなかなか豪華です。

まず、脚本を手掛けているのが岡本喜八。

この方は、最近『ガッチャマン』の記事で名前が出てきました。ガッチャマン劇場版の総指揮ということで……当該記事でも書いたように、ガッチャマンに関しては名前を貸しただけで実際にはほとんどまったくタッチしていないらしいですが、COOのほうではちゃんと実際に脚本を書いているんでしょう。

それから、細田守監督がこの作品で作画監督補佐をつとめているんだそうです。
この頃はまだ中堅ぐらいの感じだったんでしょうか。

そして、ジュリアン・レノンが音楽として参加しています。
いうまでもなく、ジョン・レノンの息子。この人は、作品のメインテーマを提供しました。

そして、エンディングテーマは、松任谷由実さんの「ずっとそばに」。
ただしこれは、この映画のために作られたというわけではありません。この映画が公開される数年前に発表されていた曲で、原田知世さんが『時をかける少女』のB面としてカバーしたりもしてました。



また、ウィキ情報によると、アニメ映画が制作される前に実写映画化も企画されていたといいます。

実写版では岡本喜八監督がメガホンをとり、平成ゴジラシリーズで知られる川北紘一さんが特撮を担当する予定になっていたとか。そして、作中に登場するプレシオサウルスのデザインを、西川伸司さんが手がけています。この西川さんという人は平成ゴジラシリーズで怪獣のデザインを多く手がけている人ですが、このCOOの企画の際に川北さんにゴジラの同人誌を渡したことがゴジラシリーズに参加するきっかけとなったのだそうで……そんなふうに考えると、『遠い海から来たCOO』という作品は日本特撮史上かなり重要な作品といえるのかもしれません。



モダン・フォーク・フェローズ「朝焼けの中に」

2022-11-20 23:12:43 | 音楽批評


今回は音楽記事です。

ちょっと間が空きましたが……このカテゴリーでは日本のフォークソングについて書いています。
前回は、ザ・リガニーズという本邦フォーク草創期のグループについて書きました。その流れで、今回もその時代の代表的なグループの一つについて書こうと思います。

紹介するのは、モダン・フォーク・フェローズ。

先述のとおり、フォーク最初期に出てきたグループの一つです。

結成は1965年。
いわゆるカレッジフォークの文脈に位置づけられるバンドの一つで、以前紹介したブロードサイドフォーと似たような感じでしょう。

メンバーは何度か変更があったようですが、そのなかで、ベースとして景山民夫という人が在籍していたことがあります。
この景山さんは、後に作家となっています。しかも、ただ小説家というだけでなく、直木賞も受賞しているという大物。直木賞受賞作である『遠い海から来たCOO』は、アニメ映画化もされたので、実際読んだり見たりしたかどうかは別としてタイトルを聞いたことがあるという人は少なくないでしょう。あの原作者が、かつてフォークグループで活動していたということなのです。
ブロードサイドフォーでは、黒澤明の息子がボーカルをやってたなんてこともありましたが、このあたりの何でもあり感というのが、いかにもこの当時のフォークというふうに感じられます。

それは。まさに自由。

彼らの代表曲の一つ「朝焼けの中に」では、こう歌われます。

  朝焼けの中に若者はいる
  まぶしげな眉が輝くとき
  若者は誓う 今日の 今日の幸せ

  金色に輝く道を胸張って

  青空の中に若者はいる
  たくましい肩が輝くとき
  若者は叫ぶ 明日に 明日にむかって


この歌を聞いていると、まさに自由の空気が感じられます。
広大な平原を前にして立っているような、そんな自由です。
何もない平原だけれど、何もないからこそ、そこに新たな道を自分達が切り拓いていくことができる……それは、ブロードサイドフォーが歌った歯を食いしばって歩く若者たちの姿であり、フォーククルセダーズが歌った荒野をめざす青年の姿でしょう。

その後フォークが発展していくとそこに“しきたり”ができていきます。
何もない荒野も、人が通っていくうちにやがて道らしきものができていく。それはよくいえば洗練でしょうが、しきたりがアーティストを縛るようにもなっていきます。道がきれいに整備され、この決められた道を歩かなきゃいけないということになってくる。フォークたるものこうでなければならんという人たちが出てきて、自由が失われていくわけです。
そんなしきたりができあがってしまう前の、自由。
「朝焼けの中に」は、そういう60年代的自由の空気を封じ込めた名曲なのです。