今日8月15日は、終戦記念日です。
ということで、例年どおり、近現代史の記事を書こうと思うんですが……
gooブログ終了ということで、おそらく今回が、最後の近現代史記事となります。
このカテゴリーではこれまでに少なくない記事を書いてきたとはいえ、日本があの戦争に突き進んでいった経緯には、いくつも論点があり、とても書ききれるものではありませんが……
最後に触れておきたいのは、一般国民の戦争責任ということについてです。
前回、長崎原爆忌の記事でもちょっと言及しましたが、この点についてもう少し書いておきたいと思います。
その当時、政治家や軍の上層部でも、英米相手の戦争は避けたいと考えていた人は少なくなかったといわれます。
しかし、彼らは戦争を止めることができませんでした。
それは、一般国民からの突き上げがあったため、ということは否定できないでしょう。多くの国民が、軍の起こしたクーデターや軍事行動を支持し、それが太平洋戦争にまで突き進むエネルギーとなりました。
一方で、国民はだまされていたのだ、という考え方もあります。
軍のプロパガンダやマスコミに煽動されていたのだと……たしかに、そういう側面はあるでしょう。
しかしでは、だまされていたということですませてしまえるのか。そこは問題です。
この点について考えるとき、伊丹万作の「戦争責任者の問題」という文章が非常に示唆に富んでいます。
ここで伊丹万作は、だます側とだまされる側ははっきり区別できるものではなく、国民全体がだまされる側であり、また、だます側でもあったのではないかと問題を提起します。
しかし、一面でそれはだます側の範囲を広くとりすぎているかもしれない……
そこで、だました人間の範囲を最小限にとどめた場合として、伊丹万作は論を展開します。
私が思うに、この文章の真骨頂はここです。
以下、抜粋して引用しましょう。
もちろんその場合は、ごく少数の人間のために、非常に多数の人間がだまされていたことになるわけであるが、はたしてそれによつてだまされたものの責任が解消するであろうか。
いくらだますものがいてもだれ一人だまされるものがなかつたとしたら今度のような戦争は成り立たなかつたにちがいないのである。
つまりだますものだけでは戦争は起らない。だますものとだまされるものとがそろわなければ戦争は起らないということになると、戦争の責任もまた(たとえ軽重の差はあるにしても)当然両方にあるものと考えるほかはないのである。
そしてだまされたものの罪は、ただ単にだまされたという事実そのものの中にあるのではなく、あんなにも造作なくだまされるほど批判力を失い、思考力を失い、信念を失い、家畜的な盲従に自己の一切をゆだねるようになつてしまつていた国民全体の文化的無気力、無自覚、無反省、無責任などが悪の本体なのである。
このことは、過去の日本が、外国の力なしには封建制度も鎖国制度も独力で打破することができなかつた事実、個人の基本的人権さえも自力でつかみ得なかつた事実とまつたくその本質を等しくするものである。
「だまされた」といつて平気でいられる国民なら、おそらく今後も何度でもだまされるだろう、いや、現在でもすでに別のうそによつてだまされ始めているにちがいないのである。
このレベルで考えれば、一般国民の戦争責任というのは小さくないといわなければなりません。
大きな嘘にだまされていないか、自分もまたその嘘を拡散してだます側にまわっていないか……過ちを繰り返さないためには、そのことを自問していなければならないと思うのです。