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ロック探偵のMY GENERATION

ミステリー作家(?)が、作品の内容や活動を紹介。
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終戦の日2025

2025-08-15 15:43:06 | 日記


今日8月15日は、終戦記念日です。

ということで、例年どおり、近現代史の記事を書こうと思うんですが……
gooブログ終了ということで、おそらく今回が、最後の近現代史記事となります。
このカテゴリーではこれまでに少なくない記事を書いてきたとはいえ、日本があの戦争に突き進んでいった経緯には、いくつも論点があり、とても書ききれるものではありませんが……
最後に触れておきたいのは、一般国民の戦争責任ということについてです。
前回、長崎原爆忌の記事でもちょっと言及しましたが、この点についてもう少し書いておきたいと思います。


その当時、政治家や軍の上層部でも、英米相手の戦争は避けたいと考えていた人は少なくなかったといわれます。
しかし、彼らは戦争を止めることができませんでした。
それは、一般国民からの突き上げがあったため、ということは否定できないでしょう。多くの国民が、軍の起こしたクーデターや軍事行動を支持し、それが太平洋戦争にまで突き進むエネルギーとなりました。


一方で、国民はだまされていたのだ、という考え方もあります。

軍のプロパガンダやマスコミに煽動されていたのだと……たしかに、そういう側面はあるでしょう。
しかしでは、だまされていたということですませてしまえるのか。そこは問題です。
この点について考えるとき、伊丹万作の「戦争責任者の問題」という文章が非常に示唆に富んでいます。

ここで伊丹万作は、だます側とだまされる側ははっきり区別できるものではなく、国民全体がだまされる側であり、また、だます側でもあったのではないかと問題を提起します。

しかし、一面でそれはだます側の範囲を広くとりすぎているかもしれない……
そこで、だました人間の範囲を最小限にとどめた場合として、伊丹万作は論を展開します。
私が思うに、この文章の真骨頂はここです。
以下、抜粋して引用しましょう。


 もちろんその場合は、ごく少数の人間のために、非常に多数の人間がだまされていたことになるわけであるが、はたしてそれによつてだまされたものの責任が解消するであろうか。

 いくらだますものがいてもだれ一人だまされるものがなかつたとしたら今度のような戦争は成り立たなかつたにちがいないのである。

 つまりだますものだけでは戦争は起らない。だますものとだまされるものとがそろわなければ戦争は起らないということになると、戦争の責任もまた(たとえ軽重の差はあるにしても)当然両方にあるものと考えるほかはないのである。
 そしてだまされたものの罪は、ただ単にだまされたという事実そのものの中にあるのではなく、あんなにも造作なくだまされるほど批判力を失い、思考力を失い、信念を失い、家畜的な盲従に自己の一切をゆだねるようになつてしまつていた国民全体の文化的無気力、無自覚、無反省、無責任などが悪の本体なのである。

 このことは、過去の日本が、外国の力なしには封建制度も鎖国制度も独力で打破することができなかつた事実、個人の基本的人権さえも自力でつかみ得なかつた事実とまつたくその本質を等しくするものである。

 「だまされた」といつて平気でいられる国民なら、おそらく今後も何度でもだまされるだろう、いや、現在でもすでに別のうそによつてだまされ始めているにちがいないのである。

 このレベルで考えれば、一般国民の戦争責任というのは小さくないといわなければなりません。
 大きな嘘にだまされていないか、自分もまたその嘘を拡散してだます側にまわっていないか……過ちを繰り返さないためには、そのことを自問していなければならないと思うのです。



長崎原爆忌2025

2025-08-09 16:30:50 | 時事


本日8月9日は、長崎原爆忌です。

これもやはり、このブログで迎えるのは最後ということになりますが……
もう長いことブログをやってきて思うのは、一発目の原爆を投下した三日後に、二発目を投下しているというこの時間間隔です。
原爆忌について書かなきゃな、という意識でいると、その性急さが切実に感じられます。
世間的にもそうでしょう。ゆえに、どうしても長崎原爆忌は広島の陰に隠れてしまうような部分が出てきてしまいます。

音楽の世界でもそうでしょう。

このブログでは、洋楽もよく扱ってきましたが……広島原爆のことを歌って、歌詞のなかにHiroshima という言葉が出て来る歌はたまにあるものの、長崎はあまりない印象です。
そのレアな例の一つとして、Crass のNagasaki Nightmare という歌があります。冒頭部分では、日本語で核兵器について語っているパートも。

Nagasaki Nightmare

英国パンク/ハードコアのなかでもきわめてラディカルで前衛的なバンドだからこそかな、と思われます。


一方、被爆国である日本では、長崎の原爆禍を扱った歌も少なくないでしょう。
なかでもとりわけ有名なのが「長崎の鐘」。
古関祐而の手になるこの歌は、これまでこのブログで何度か取り上げてきましたが……最近Youtubeでこんな動画を見つけました。

【フル歌詞付き】長崎の鐘 -藤山一郎【ピアノver. / Covered by saya】  

歌っているのは、先日の参院選で当選した「さや」こと塩入清香氏。
この方はジャズシンガーでもあるわけですが、去年「長崎の鐘」をカバーする動画をあげていました。最近この手の話をうかつに信じていいか警戒するところもあるんですが、Xのリンクなどを見ても、おそらくご本人のものと思われます。
本当に本人か、と疑いたくなるのは……先日広島原爆忌の記事で書いた「核武装は安上り」という発言をしたのが、ほかならぬこの方だからです。
もちろん政治と音楽は基本的に分けて考えるべきなので、歌う歌の内容と政治信条が一致している必要もないといってしまえばそれまでではありますが……核武装は安上りと思っている人にこの歌を歌ってほしくないな、というのも正直な気持ちとしてあります。


原爆に関しては、ここ数日「過ち」の主語論争が話題になっています。
「過ちは繰り返しませんから」というときの主語は誰なのか……かねてから議論されている問題ですが、ここはやはり、主語は広く「人類」ととらねばならないでしょう。
日本の側に過ちがない、というのは、歴史的な経緯に照らしてみて、そうはいえないことだと思います。
原爆や空襲の話をするときによく「罪のない人々」という言い方をしますが、この言葉はかなり曲者です。あの戦争に至った歴史において、道徳的な意味での“罪”はともかく、社会的、政治的なレベルでの“責任”は一般国民も免れない、と私は考えています。一般国民は、「罪のない人々」であったとしても、「責任のない人々」ではないのです。無論、だからといって無差別爆撃や大量破壊兵器の使用が容認されるかというのは別問題ですが……
戦争の惨禍について語るとき、一般国民の戦争責任、あるいは、潜在的に広く薄く分有されている加害性という部分は、ときに意識的にわきに追いやられてしまいます。結果、空襲や原爆についての物語は「何の過ちも犯していない人がひどい目にあった」というかたちになりがちです。これでは、話はかみあわないでしょう。アメリカ側からすれば、そっちから戦争しかけてきておいて、反撃されたからといって文句をいうのはおかしいだろ、となってしまいます。
ここで念のためもう一度言いますが、だからといって原爆の使用が正当化されるとは私は考えません。ただ、そこにいたる“過ち”の一端が、日本の側にもあることは否定できないでしょう。だからこそ、「過ちを繰り返さない」というときの主語は、人類全体でなければならないのです。



広島原爆忌2025

2025-08-06 22:20:32 | 時事


 今日8月6日は、広島原爆の日です。

 毎年、このブログでは、関連記事を書いてきました。
 80年目となる節目。そして、gooブログでこの日を迎えるのもこれが最後ということになりますが……今年もその例にならいましょう。

 広島で行われた式典では、松井一実広島市長の平和宣言が読み上げられましたが、この宣言の中で、松井市長は核保有論の台頭に憂慮を示していました。ウクライナ戦争や中東情勢を踏まえて、自国の安全保障のためには核保有もやむをえないという考え方が強まりつつある、という指摘です。
 これは、日本も無縁ではないでしょう。
 折しも、先日の参院選で当選した某議員から、「核兵器は安上り」という話がありました。まあ、詳しく書かれた記事を読むと、いろいろ留保をつけたうえで出てきた発言なので、そこだけ切り取るのはそれはそれで問題があるという話になるかもしれませんが……
 しかし、本当に核保有は有効なのか。
 この点については、私としては、ちょっと待てよといいたくなります。
 まず第一に、定義の問題として……以前一度書いたかもしれませんが、「核抑止力」というのは、あくまでも核戦争を抑止するものであって、通常兵器による攻撃を抑止するものではない、という議論があります。安全保障の専門家でも、この立場に立つ人は少なくないようです。そして、この立場に立つならば、「戦争をしかけられないために抑止力として核を持つ」という発想はナンセンスということになります。
 そして、もう一つ……核保有論それ自体がリスクをはらんでいるということがあります。
 たとえば、先日イスラエルによるイラン攻撃がありました。あれは、イランが核開発をしているから、ということで攻撃したわけです。ということは、核開発がむしろ攻撃を受ける原因となっているわけです。
 そして、核保有論自体がはらむリスクとして私がもう一つ論じたいのは、核に頼ろうとする姿勢は、結果として核兵器使用のハードルを下げ、間接的に核攻撃を受けるリスクを高めることになる、ということです。
 どういうことか。以下に、説明しましょう。


 核兵器は実際には使えない兵器だ、とよく言われます。
 核兵器がなぜ使えないのかという理由はいろいろ挙げられますが……一つの大きな理由は、核を使用すれば非人道的という非難を受けることになるから、ということがあります。
 それが成立するのは、核兵器は非人道的だ、という国際世論があるためです。世界の多くの人が、核兵器を使うなんてとんでもないと思っているからこそ、それが無形の抑止力となるわけです。世論などというあやふやなもので止められるはずがないという人もいるかもしれませんが、この80年、核兵器が使用されなかったのは、それが大きな理由の一つだと私は考えます。核保有国と非核保有国が戦争して、核保有国のほうが苦戦した場合も多々あるわけですが、そんなときでも核兵器は使用されませんでした。これは、核抑止力では説明できません。そういった戦争で核兵器が使われなかったのは、核保有国の側が、核の使用によって非人道的と非難されることを怖れたというのもたしかに一つの大きな要因と思われるのです。すなわち、核兵器の非人道性を訴えることは、核に対する抑止力となりうるのです。
 ところが……ひとたび核兵器を保有したら、あるいは、保有を目指して動き始めたとしたら、それは核の有用性を認めることであり、核兵器を非人道的と非難することができなくなります。それは結果として「核兵器は非人道的である」という国際世論を弱めることになるでしょう。
 このため、逆説的ですが、核兵器を持つということは間接的に核兵器への抑止力を弱めることになってしまうのです。まして、唯一の被爆国が核兵器の非人道性を訴えなくなってしまったら、それは大きな影響を与えることになるのではないでしょうか。
 そうならないためには……平和宣言にあったように、「対話を通じた信頼関係に基づく安全保障の構築」を目指すべきでしょう。核兵器というのは、安全保障において絶対的な切り札として機能するようなものではいのです。そんなものを手に入れようとして大きな代償を払うぐらいなら、別のもっと“現実的な”道を探ったほうが賢明ではないでしょうか。



巨星、墜つ

2025-07-24 23:01:27 | 日記


 オジー・オズボーンが死去しました。

 このブログでは、大物ミュージシャンの訃報というのを幾度か書いてきましたが……最後になって、最大級の衝撃が訪れたという感覚です。
 先日ブラックサバスのラストステージというのがあったわけですが、その直後ということでも驚きです。まるで、この世に別れを告げて旅立ったかのような……76歳という年齢は、まだ死ぬには早いという感じもしますが、やはりパーキンソン病のこともあったんでしょうか。

 また、ほぼ時を同じくして、日本でも大きな訃報がありました。
 音楽評論家の渋谷陽一さん……日本のロック界を代表する評論家といえるでしょう。私も、氏の著書には教えられることが多くありました。
 
 この二人が世を去ったというのには、ロックを取り巻く時代環境が大きく変化しているということを意識させられます。ロックは死んだ、などというのはもう半世紀以上も前からいわれているわけですが、この数年で、その言葉がだんだん切実な響きを持って聞こえてくるような……

ロックというジャンルがこれからどうなっていくのか、一リスナーとして、しかと刮目していたいと思います。



2025年参院選

2025-07-21 22:07:32 | 時事


 昨日、参議院選挙が行われました。

 結果に関しては、まあほとんど下馬評のとおりではありましたが……トランプ的な現象がいよいよ日本でも本格的に起こり始めたというところでしょうか。
 維新は今回の参院選ではかなり影が薄かった印象がありますが、かつて維新が勢いのあったころのポジションにいま参政党がいるということだと思えます。
 そうなると、参政党に問われるのは、今後維新を超えるようなパフォーマンスができるかということでしょう。
 いくら大躍進といっても、当面参政党が単独で国会の過半数を制するのも難しい話なので、他党との連立ということになってくるわけですが……そこで思い出すのは、かつて維新がそれをやろうとしたときの顛末です。
 十年ほど前に渡辺喜美氏の率いる「みんなの党」(旧)という党があって、維新はここと連携することで勢力拡大をはかりました。しかし、ちょうどその頃、代表だった橋下徹氏の従軍慰安婦発言や、その流れで出てきた維新所属議員による嫌韓的な発言が問題となりました。その具体的な内容はここには書きませんが……この失言問題で「みんなの党」は維新を突き放し、連携は白紙となったのです。(おそらくそれだけが理由ではないし、それで完全に関係が途絶したわけでもないといった注釈はいりますが)
 参政党も、同じような事態を起こす可能性は低くないでしょう。
 この参院選期間中だけみても、参政党は所属議員らの発言や、過去の著述内容などが多方面から差別的と批判されています。そうして叩かれることがむしろ党への支持を強めて躍進につながったという側面もあるでしょうが、他党との連携ということを考えたときには、そういうわけにもいきません。どこかの党と協力しようという話を進めていても、所属議員から差別的と批判されるような発言が飛び出せば、白紙撤回となることはありえます。そういったことが何度か重なれば、結局政策の実現性を疑問視されることになり、党勢も失速ということになるでしょう。
 つまりは……あえて差別的な発言で一部有権者の歓心を買い、批判勢力に叩かれることでむしろ人気を得るというようなやり方では、国政を担う政党にはなれない、ということです。そういう姿勢では、数十議席ぐらいの中小政党としてやっていくことはできたとしても、やがて飽きられ、もっと過激なことをいう別の新興政党が出てきたらそちらが脚光を浴びて一気に忘れ去られるというのがオチでしょう。そして、その新興政党も十年ほどかけて同じような道を歩み……となったら、こんな不毛なことはないわけです。参政党が本気で政権を担おうと思うなら、分断を煽るような言動(本人たちが否定しようと、客観的にみてそうでしょう)ではなく、包摂的なアプローチを……少なくとも、差別的と批判を受けるような発言は厳に慎むべきでしょう。