ロック探偵のMY GENERATION

ミステリー作家(?)が、作品の内容や活動を紹介。
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ブログ7周年

2024-08-20 22:45:57 | 日記


本日をもって、このブログは7周年を迎えることとなりました。

よく7年もやってきたものだと思います。
最近はちょっと更新頻度が落ちてますが……まあ、マイペースな感じでやっていこうかと。
そういうわけで、今後ともよろしくお願いします。



高石ともやさん死去

2024-08-19 21:33:39 | 日記


高石ともやさんが亡くなったというニュースがありました。

日本フォーク草創期の巨匠……
RCサクセションがカバーした「明日なき世界」の訳詞は高石さんによるものをベースにしているという話をこのブログで先日書いたばかりでした。
その高石さんのバージョン。

明日なき世界

RCバージョンは、基本的にこの歌詞ほぼそのままです。
高石ともやという人は、忌野清志郎にこうしてとりあげられる存在でもあったわけです。

高石さんは、日本フォークの黎明期を代表するレーベルであるURCレコードの創設にも大きな役割を果たしました。
URCがその後の日本音楽に与えた影響というのは評価が難しいところではありますが……しかし、この国の大衆音楽史にURCというものが存在したことは、誇ってよいでしょう。

もう一曲、ボブ・ディランの曲に訳詞をつけた「時代は変わる」。

時代は変る

この曲に関しては、これまでいくつものバージョンを本ブログで紹介してきました。
まさに、フォークの、そしてロックのグレートスピリッツ……たしかに、高石ともやさんはその絶えざる流れのなかにいる人でした。
冥福をお祈りします。





盧溝橋事件

2024-08-15 22:47:54 | 日記


今日は8月15日。
終戦記念日です。
この日にあわせて、本ブログでは毎年近現代史記事を書いており、今回もそのシリーズで近現代史です。

前回の近現代史記事では、昭和11年の2.26事件を取り上げました。

今回取り上げるのは、その翌年昭和12年に起きた盧溝橋事件です。
ちょっとした軍事衝突から、日中戦争という泥沼に足を踏み入れていくきっかけとなった事件……そこから対米英戦争にまで発展していくわけで、大日本帝国崩壊の序曲といえるかもしれません。



ことの発端は、天津に駐屯していた日本軍が盧溝橋で演習を行っている際に、銃声が響いたというもの。
あわてて点呼をとると、兵士の数が足りない。これは一大事ということで、捜索がはじまります。
よく知られているように、不明とされた兵士は小用を足しにいっていただけですぐに戻ってきていたわけですが、その本人も一緒になって行方不明者を探していました。

そして、銃撃を受けたという報告を受けたのが、そこで連隊長をやっていた牟田口廉也大佐。後に「史上最悪の作戦」として悪名を馳せることになるインパール作戦を指揮したことで知られるあの牟田口廉也です。彼が「断固戦闘を開始して可なり」としたことで、戦闘がはじまります。

衝突開始から二日後の7月9日にいったんは停戦協定が結ばれますが、あいにく当時の日本軍ではこれで話が終わってくれません。
戦闘は、すぐにまた始まってしまうのです。
9日の停戦協定でいったん戦闘がおさまった直後に、「中国側が停戦協定を守るはずがない」といって牟田口廉也は独断で兵を動かします。中国軍の主力がいるとみられる宛平県城にむかって進軍していくと、それを発見した中国側が銃撃してくる。これを受けて牟田口は、やっぱり中国側は攻撃をしかけてきたといって本格的な戦闘を開始するのです。いや、そりゃあんたが軍隊を引き連れて近づいていったからでしょうと思うところですが……まあ、戦争なんてのはこうやって起こるものでしょう。結果、ここから日本は泥沼の日中戦争に突き進んでいくことになりました。

牟田口廉也は皇道派と見られていた人物で、軍内部における派閥抗争で統制派が実権を握ったことにより、天津くんだりに左遷されたというような意識があったといいます。その鬱憤が無謀な行動につながったという見方もあるようです。私としては、こういう後先もなにも考えずにとにかく戦闘に突き進んでいくのがいかにも皇道派気質というふうに感じられますが……
しかしながら、ここでの問題は単に牟田口廉也という人に帰せられるものでもありません。
もっと上にいる人間がそれを止めなかったというところにも、大きな問題があると思えます。
盧溝橋事件から日中戦争という流れの場合、河邊正三という人がいます。この人は、天津駐屯軍で旅団長という立場でした。
7月7日に最初の衝突が起きたときには視察でよそにいっていて、8日に戻ってきたところで、牟田口から報告を受けましたが、そこでは特段軍事行動を咎めはしなかったといいます。しかし、その二日後に牟田口が戦闘を再開した際には、さすがにそれはまずいということで、牟田口のもとに血相を変えてやってきます。しかし、そこで上官としてただちに勝手な軍事行動をやめさせたかというと、そうはなりませんでした。牟田口を鋭い形相でにらみつけただけで、そのまま何も言わずに立ち去ってしまったというのです。
不可解な態度ですが、これはまさに、それまでの十数年にわたって青年将校らの暴走を容認、黙認、追認してきた軍上層部の態度を象徴しているのではないでしょうか。
困ったことをしてくれたとは思っている。だけど、それは咎めたり止めたりはしない、という……
その背景には、いろんな理由があるでしょう。自分自身も一定の理解はしているとか、へたに咎めだてすれば自分の立場が危うい、下手をすれば命の危険すらあるとか、いま止めたところで結局そのうち同じことが起きるだろうから意味がないとか……そういったことがないまぜになって、結局は暴走を止めない、止められない。結果、戦闘はいたずらに拡大して収拾がつかなくなっていきます。

それが、数年後のインパール作戦にまで至ります。
牟田口は牟田口なりに、自分のせいで大変なことになってしまったという意識はあったようで……その状況を打開して罪滅ぼしをするというような考えが、インパール作戦につながりました。
しかしながら、そのインパール作戦は大失敗に終わります。
そしてこのときも、牟田口の上には河邊正三がいました。牟田口は第15軍司令官、河邊はビルマ方面軍司令官という立場で、ここでまた一緒になったのです。同じ二人のあいだで、同じ過ちが繰り返されます。作戦実行前はともかく、実際にやってみて作戦の失敗があきらかになっても、河邊はそれを止めようとしませんでした。
視察に訪れた秦参謀次長が「インパール作戦は失敗だから中止したらどうか」といったところ、河邊は失敗を認めつつも、はっきり中止したいとはいいません。そして、秦が帰国してインパール作戦は失敗だということを遠回しに報告すると、参謀総長を兼ねていた東條英機首相は、「戦さは最後までやってみなければ判らぬ。そんな気の弱いことでどうするか」と一喝したとか……こうなるとまさに、「腰まで泥まみれ」の世界です。

インパール作戦の失敗自体には、戦争初期の勝利からくる慢心とか、敵戦力の過小評価とか、物資の欠乏とかいろいろ理由があるでしょうが……やはりそれとは別に「止めなかった」ということが大きな問題ではないでしょうか。
そしてそれは、盧溝橋事件から日中戦争に雪崩れ込んでいく一連の流れでも同じだったと思われるのです。


……というところで、盧溝橋事件の話に戻りましょう。
武力衝突が拡大しつつあった八月ごろ、その当時の首相だった近衛文麿が南京を訪れて蒋介石と直接会談し和平協定を結ぶ案があったといいます。
衝突再開後に再び結ばれた停戦合意を派兵決定で台無しにしたり、後には蒋介石を「対手とせず」として和平の道を閉ざすなど事変対応にはいろいろと不手際を指摘される第一次近衛内閣ではありますが……決して対中戦争一辺倒ではなかったのです。
しかし、このトップ会談の話は、結局立ち消えとなりました。
当時内閣書記官をつとめていた風見章によれば、立ち消えとなった原因は陸軍の統制力に対する疑念でした。
すなわち、仮にトップ会談によって和平が成立したとしても現地軍がそれを遵守する保証がない、という問題です。
現実問題として、先述したように衝突発生直後に一度は現地で停戦協定が結ばれているにもかかわらず、それがすぐに破られているわけであり……この懸念は決して捨て置けるものではありません。というよりも、政治家同士のトップ会談で和平が結ばれたとしても、現地軍がそれを無視するであろうことは――驚くべきことに――当時の中国大陸ではほぼ確実とさえいえたでしょう。近衛政権で外相をつとめていた広田弘毅を派遣するという話もあったようですが、打診を受けた広田も、やはり難色を示します。広田はその前に総理大臣をやっていて、軍の横暴をいやというほど味わっていたために、よりいっそう懸念は強かったでしょう。
こうして、軍の上層部も政治家も軍の暴走を止めることができず、日本は中国大陸で戦争の泥沼に沈み込んでいきます。腰まで、首まで泥まみれとなっても、愚か者は「進め」と叫ぶ……まさに「腰まで泥まみれ」を地で行く話です。その先に破滅的な事態が待っているのは、ある意味当然ともいえるでしょう。



RCサクセション、COVERSの世界

2024-08-12 21:44:08 | 日記


先日の記事で、RCサクセション「明日なき世界」のオーディオ動画を載せました。

そこでもちょっと書いたんですが、清志郎関連の動画は、Youtubeで随時アップされているらしいです。アルバムCOVERSに関しても、全曲がYoutubeにアップされているようで、これは感涙もの。
COVERS期のRCは、古くからのファンにとってはちょっととっつきにくいところがあるかもしれませんが……私にとっては、ここからタイマーズの活動に入っていくあたりが、清志郎の世界に入っていく入り口でした。そして、清志郎のキャリア全体からみれば、COVERSでやっていることはむしろ原点回帰といえるでしょう。そんなわけで、この時期のRCを知ってほしい、再評価してほしい。ということで、今回はRCのYoutubeチャンネルからCOVERS収録曲のいくつかを紹介したいと思います。


「ラブ・ミー・テンダー」。
いわずとしれた、ロック史上不朽の名曲。

Love Me Tender

この曲については、このブログでこれまで何度か書いてきました。エルヴィス・プレスリーの曲として有名で、前に記事を書いた映画『エルヴィス』でも当然流れていましたが……もともとは19世紀に作られた曲。“キング”エルヴィスによって新たな命を吹き込まれ、以来数々の大物アーティストたちにカバーされたこの曲を、忌野清志郎は反原発ソングとして歌いました。
こういう反原発ソングを歌っていたことで、アルバムが発売できなくなるという騒動があり、この事件がタイマーズというバンドの出発点となり、清志郎は東京FM事件といったさらなる大事件を巻き起こしていきます。事件を起こすロックンローラー……忌野清志郎は、そういう稀有な存在でした。



「サマータイム・ブルース」。
これもまた、世界中で多数のアーティストにカバーされてきたロックスタンダード。
ここでは、泉谷しげるさんと三浦友和さんが参加しています。三浦さんはミュージシャンというわけではありませんが、高校時代から清志郎の友人でした。

Summertime Blues

この歌も、歌詞は原発問題を扱ったものとなっています。
忌野清志郎が死去した2009年、フジロックに初登場した頭脳警察がこの曲をカバーしたという話がありました。


ボブ・ディラン「風に吹かれて」。
この曲には、山口冨士夫さんが参加。そして、清志郎のキャリア後期において右腕ともいうべき存在だった三宅伸治さんが参加しています。

Blowin' In The Wind


ジョニー・リヴァース「シークレット・エージェント・マン」。
なんとここでは、演歌歌手の坂本冬美さんがゲスト。
坂本冬美さんとは、細野晴臣さんも加えて3人でHISというユニットもやっていました。

Secret Agent Man

「明日なき世界」に参加していたジョニー・サンダースは、この曲にも参加しています。
また、冒頭部分の音声は大韓航空機事件で知られる金賢姫のもの。この人の名前は、タイマーズの「あこがれの北朝鮮」でも出てきます。北朝鮮という国には深い関心をもっていたのでしょう。独裁者を嗤うというスタンスは、まさにロックンローラーの真骨頂といえます。


ローリング・ストーンズ「黒くぬれ!」。
ここでは、山口冨士夫、三浦友和、三宅伸治というメンツがそろい踏み。
あるインタビューで、ストーンズの好きな曲はと問われた清志郎がこれを挙げていました。そういうお気に入りの曲をチョイスしたということでしょう。

Paint It Black


「マネー」。
オリジナルはバレット・ストロングという人ですが、ビートルズがカバーしたバージョンのほうが有名じゃないでしょうか。私も、ほぼビートルズの曲として認識しています。
山口冨士夫、三浦友和、三宅伸治というメンツはここでもそろっています。

Money


ビートルズの名前が出てきたところで、最後にジョン・レノン「イマジン」。

Imagine

最近パリ五輪で、DJが「イマジン」を流して選手同士の小競り合いを収めたという話がありました。今なお、そういう存在であり続けている……これもまた、不朽の名曲である証しでしょう。



長崎原爆忌

2024-08-09 16:27:36 | 日記


今日8月9日は、長崎原爆忌です。

例年どおり、関連記事を書こうと思うんですが……

今年の長崎平和祈念式典では、ちょっとしたトラブルがありました。

イスラエルの大使を招待しなかったことで、欧米6か国が自国の駐日大使を式典に参列させないという措置をとったのです。

長崎市としては、「不測の事態が発生するリスクを避けるため」としていますが、その真意がどうあれ、結果としてある種の政治問題になってしまいました。

米欧側は「イスラエルをロシアやベラルーシと同列に見ていることになる」というふうに反発しているわけですが……少なくとも、ガザ侵攻に関するかぎり、そこはもう同列とみられても仕方ないんじゃないのかという気はします。
ここに至るまでの歴史的経緯を考えれば、イスラエルを単純に被害者とみることはできません。報復攻撃の権利を仮に認めるとしても、その後イスラエルがやっていることは度を越した過剰防衛のそしりを免れないでしょう。だからこそ、世界中で激しい反対運動が起きていたわけです。ガザをめぐっては、昨年イスラエルの閣僚が核の使用も「選択肢の一つ」と発言したりもしています(ただし、ネタニヤフ首相はこの発言を批判)。そういったことを考えると、今回の件はいろいろとひっかかりを感じるところが多く、後味の悪いものとなりました。本来、平和祈念式典というのはそういうものではないはずなんですが……戦争がいかに人間を狂気に陥れるかということが、今回の件で示されたんじゃないでしょうか。