むらぎものロココ

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ジャン=マリ・ルクレール

2005-08-30 20:00:56 | 音楽史
leclairLECLAIR
Sonatas a Violon seul Extraits de troisieme livre
寺神戸亮(Baroque violin)
Christophe Rousset(Harpsichord)
上村かおり(Viola da gamba) 鈴木秀美(Baroque violincello)

17世紀フランスの器楽曲はリュートやハープシコード、あるいはヴィオールのためのものであった。しかし17世紀も後半になるとイタリアで生まれたヴァイオリン音楽の影響がフランスにも広がってきた。とりわけコレッリのソナタのインパクトは大きく、フランソワ・クープランによって最初にトリオ・ソナタが作曲されたが、フランスの音楽環境のなかでイタリアの音楽とフランスの音楽を融合させ、ヴァイオリンのための音楽を確立したのはルクレールであった。教会ソナタの枠組みと憂いを帯びつつも気品に満ちた旋律。

ジャン=マリ・ルクレール(1697-1764)はレース職人の息子としてリヨンに生まれた。ルクレールはダンスとヴァイオリンを兄から学んだ。当時、ほとんどのヴァイオリニストはダンスの教師でもあって、ヴァイオリンで伴奏しながらダンスを教えたという。1716年、19歳のルクレールはリヨンのオペラのステージに立った。1721年からはパリを活動の拠点とし、1723年にパリでヴァイオリン・ソナタ第1集を出版した。この頃、トリノに行き、コレッリの弟子であったソミスのもとでヴァイオリンの技巧にさらに磨きをかけた。1728年にはパリでヴァイオリン・ソナタ第2集を出版し、コンセール・スピリチュエールでのデビューを果たし、絶賛された。以後はヨーロッパ各地を演奏旅行してまわり、カッセルではロカテッリと共演した。その柔軟なリズムと美しい音で、ルクレールはロカテッリとは対照的に、天使のようにヴァイオリンを弾くと言われた。1730年にパリに戻ると、1733年にはルイ15世の王室楽団の常任ヴァイオリン奏者の地位を得、ヴァイオリン・ソナタの第3集を王に献呈した。この頃がルクレールのキャリアのなかで最も輝かしいときであった。しかし、その2年後、楽団内でトラブルが生じ、これが原因でルクレールは1737年に王室楽団を辞職した。1738年から5年ほどオランダのアン王女のもとに仕えながら、ハーグで宮廷楽長をつとめたりもしたが1743年にパリに戻った。このときからルクレールはほとんど引退同然の生活に入った。しかし1746年、49歳のとき、オペラの作曲という、ルクレールにとってはまったく新しい領域へと踏み出した。これはジャン=フィリップ・ラモーが50歳で初めてオペラを作曲し脚光を浴びたのに倣ってのことであった。そして完成した「シラとグロキュス」は好評で、2ヶ月の間に18回も繰り返し上演された。
1748年からはグラモン公爵が所有する劇場の音楽監督となったが、1758年からはパリの城壁外の危険な地域に暮らすようになった。
そして1764年、ルクレールは自宅の戸口で死んでいるのを発見された。三箇所ほど刺された痕があったという。


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