むらぎものロココ

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A.スカルラッティ

2005-08-20 14:28:00 | 音楽史
ascarAlessandro SCARLATTI
Cantates
Gerard Lesne
Sandrine Piau
IL SEMINARIO MUSICALE

アレッサンドロ・スカルラッティ(1660-1725)はシチリアのパレルモに生まれた。1672年からローマでカリッシミに音楽を学んだと言われている。1679年には最初のオペラを上演し、これがきっかけでスウェーデン女王クリスチアーナやローマの貴族に庇護されるようになった。1684年から活動の拠点をナポリに移し、宮廷楽長を1703年までつとめた。その間、メディチ家に仕えるためにフィレンツェを訪れたが、スカルラッティの音楽は「難解でメランコリック」だとして当主フェルディナンドに受け入れられなかったため、スカルラッティは再びローマへ赴くこととなった。ローマではアカデミア・アルカディアの一員としてコレッリらと活動した。ローマでは法王がオペラの上演を禁止していたこともあり、この時期のスカルラッティは室内カンタータやコンチェルト・グロッソなどを中心に作曲をした。

室内カンタータは1声部または2声部と通奏低音による音楽で、オペラのように世俗的な内容を持つ。オペラよりも短く、オペラのような舞台もない。これは洗練された知的なもので、教養人向けのものであった。

スカルラッティは「ナポリ楽派」の創始者として知られる。ナポリ楽派とそれまでのオペラが違うところは、台本と音楽が区別されていること、神話的なものではなく歴史的な題材が採用されていること、カストラートなど、歌手の名人芸を強調するようにアリアが作られていることなどがある。このアリアはダ・カーポ・アリアといって、ABAという反復形式を持つ。反復されるAの部分は歌手が即興で歌い、その技巧を見せる部分である。これがカデンツァとして古典派のコンチェルトでも用いられていく。また、レチタティーヴォはレチタティーヴォ・セッコ(すばやく交わされる対話)とレチタティーヴォ・アッコンパニャート(伴奏つきのレチタティーヴォ)の2つがある。そして第一幕が始まる前に急-緩-急の3部形式のシンフォニアを序曲として演奏することが通例となり、これが古典派の交響曲へとつながっていく。実際はこれらすべてがスカルラッティによって生み出されたものではない。

スカルラッティはオペラ110曲、オラトリオ40曲、室内カンタータなど世俗曲を800曲以上作曲した。
大衆化したオペラはカストラートのため、あるいは観客の娯楽のために作られるものとなり、通俗的な台本と使いまわしのアリアを組み合わせたものになりがちであった。スカルラッティは歌手の技巧を際立たせながらも、歌詞の内容に沿った表現をした。ナポリ楽派的なオペラのスタイルはヘンデルを通じてその影響はヨーロッパ中に広がっていったが、大衆に迎合しないスカルラッティの作風は次第に敬遠され、忘れられ、多くの作品は散逸してしまった。