むらぎものロココ

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ヘンリー・パーセル

2005-08-19 20:19:00 | 音楽史
purcellPURCELL
FANTAZIAS & IN NOMINES
 
 
FRETWORK

清教徒革命によって1649年にチャールズ1世が処刑されてから、イギリスはクロムウェルを護国卿とした共和政となった。この間、禁欲的なピューリタニズムによって劇場は閉鎖され、王室の楽団も解散させられるなど、公式の場での音楽活動は著しく制限されていった。しかし、クロムウェルの死後まもない1660年、フランスに亡命していたチャールズ2世が即位し、王政復古がなされると、フランスの宮廷文化に影響を受けた国王は王室の楽団を再興し、様々な行事で音楽を用いるようになった。
ヘンリー・パーセル(1659-1695)はクロムウェルの共和政からチャールズ2世の王政復古へ移行していく時期に生まれた。

父も伯父も王室礼拝堂の音楽家という環境でパーセルは育った。幼い頃から王室礼拝堂の少年聖歌隊員として活動し、変声期を迎えて聖歌隊をやめた1673年、14歳で王室礼拝堂のオルガン調律者であったジョン・ヒンジェストンの補助となり、翌年にウエストミンスター寺院のオルガン調律者になった。この時期にジョン・ブロウからバードなどエリザベス朝時代の音楽を学んだ。1677年にはマシュー・ロックの後を継いで、18歳で王室弦楽団の作曲家になり、1679年からは師であるジョン・ブロウの後継としてウエストミンスター寺院のオルガニストになった。1680年頃からはセミ・オペラなど劇音楽の作曲に没頭するようになり、1683年にはヒンジェストンの後を継いで王室礼拝堂のオルガン調律者になった。
パーセルは王室礼拝堂のアンセムやサーヴィス、宮中での祝典音楽であるオードやウェルカムソングなど20年たらずで800曲を作曲し、36歳の若さで死んだ。

パーセルの音楽はイギリスの伝統にフランスやイタリアの新しい音楽を融合したものとされる。イギリス・バロック期唯一の本格的なオペラ作品である「ディドとエネアス」はフランス風の序曲とレチタティーヴォとアリアが交互に現れるイタリア・オペラの構造を持つ。
パーセルは英語が持つ言葉の魅力を表現する特別な才能を持っており、その才能は声楽曲に遺憾なく発揮された。
器楽曲にはコレッリ的なトリオ・ソナタやイギリスの伝統である対位法を用いたヴィオール合奏(コンソート)のファンタジアなどがある。

ファンタジアは16世紀半ば、イギリスから大陸へ広がったもので、テクストの情感を表現するのではなく、音楽家に降りてきた霊感に従い、様々な規則や制限から解き放たれた即興的な音楽で、調性や和声がめまぐるしく変化するのが特徴である。パーセルのファンタジアはルネサンスのコンソートが到達した最終形態とされている。