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ペルゴレージ

2005-08-31 02:01:47 | 音楽史
pergoPERGOLESI
STABAT MATER/SALVE REGINA

Christopher Hogwood
ACADEMY OF ANCIENT MUSIC

ジョヴァンニ・バッティスタ・ペルゴレージ(1710-1736)は、イェジに生まれた。幼い頃から身体が弱かったが、音楽に早熟な才能を示した。イェジの大聖堂の楽長であったフランチェスコ・サンティから音楽の基礎を学び、フランチェスコ・モンディーニからヴァイオリンを学んだあと、ナポリの音楽院に入学し、ガエターノ・グレコやレオナルド・ヴィンチ、フランチェスコ・デュランテらに学んだ。この頃ペルゴレージは少年聖歌隊員として、あるいはヴァイオリニストとして演奏活動をしていたようだ。音楽院を卒業したのは1730年頃で、翌年にはオペラ・セリア「サルスティア」を上演したが不評に終わった。1732年からスティリアーノ侯爵に仕えるようになり、この年にオペラ・ブッファ「妹に恋した兄」を上演し、これは成功を収めた。また、ナポリを襲った大地震の後、ナポリ市からの依頼でミサ曲を作り、この成功によって名声を得ることになった。1733年にはオペラ・セリア「誇り高き囚人」とインテルメッゾ「奥様女中」を上演し、「誇り高き囚人」は不評に終わったものの、「奥様女中」はペルゴレージの作品の中で最も知られ、絶賛されたものとなった。1734年からはマッダローニ公に仕え、ナポリの楽長に就任した。その後もメタスタジオの台本に基づくオペラ・セリアを上演するがことごとく失敗し、1735年のオペラ・ブッファ「フラミニオ」は好評を博した。この頃から健康状態が悪化していたペルゴレージは1736年にポッツォーリのフランチェスコ修道院で療養生活に入り、そうした状況のなかで「サルヴェ・レジナ」や「スターバト・マーテル」を作曲した。その完成後、ペルゴレージは結核のため26歳の若さで死去した。

「スターバト・マーテル」は13世紀イタリアの修道士ヤコポーネ・ダ・トーディが書いたとされるラテン語の詩で、聖母マリアの苦しみに共鳴した祈りの詩である。18世紀にはローマ教会の公式ミサに採用された。ペルゴレージはナポリ貴族の団体である「悲しみの聖母騎士団」から依頼を受け、作曲することになったのだが、それまで使われてきたアレッサンドロ・スカルラッティの曲が時代遅れになったからだと言われている。ペルゴレージは明るい曲を交えているが、オペラ・ブッファ的だとの批判もあった。「ルソン・ド・テネブレ」同様、宗教曲がオペラなどの娯楽の代用となっていた時代の傾向をここにも見ることができる。

ペルゴレージが作曲し、上演したオペラ・セリアはことごとく不評で失敗に終わり、オペラ・ブッファやインテルメッツォは常に好評を博したが、その背景には市民社会の興隆がある。神話の英雄が登場し、大仰なアリアが歌われるオペラ・セリアよりも日常的な題材でごく普通の人間が登場し、ユーモアや風刺に満ちたオペラ・ブッファのほうが市民に受け入れられたのだ。こうした傾向は、例えばイギリスでもジョン・ゲイの「乞食オペラ」がヘンデルのイタリア・オペラをしのぐ人気を得たために、ヘンデルがオペラを諦めざるを得なかったように、時代の流れであったのだろう。
1752年にはペルゴレージの「奥様女中」をきっかけにいわゆるブッフォン論争が起こり、イタリア音楽とフランス音楽の優劣について激しく議論が交わされた。


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