むらぎものロココ

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J.S.バッハ

2005-08-26 14:13:00 | 音楽史
bachMUSIKALISCHES OPFER, BWV 1079
Gustav Leonhardt
Barthold Kuijken Wieland Kuijken
Sigiswald Kuijken Robert Kohnen
Marie Leonhardt

ヨハン・セバスチャン・バッハ(1685-1750)は音楽家の家系に生まれた。幼い頃にオルガニストであった兄からチェンバロやオルガンの手ほどきを受け、15歳からリューネブルクの聖ミカエル学校に入学した。奨学金を受けたため、聖歌隊への入隊を義務付けられ、教会の主要な儀式に参加しながら、教会のオルガン音楽や宮廷でフランスの音楽など聴くようになった。
1703年にアルンシュタットで教会のオルガニスト兼合唱長となった。ブクステフーデのオルガンを聴くために徒歩でリューベックまで行ったのはこの頃で、休暇期間をはるかに過ぎてから戻ったことに対して叱責されただけでなく、ブクステフーデからの影響で不協和音や半音階を多用したオルガン曲も非難を浴びた。
1708年からはヴァイマールのヴィルヘルム公の宮廷でオルガニストとなったが、オルガン音楽に強い関心を持っていたヴィルヘルム公のもとで「トッカータとフーガ」など、オルガン曲のほとんどはこの時期に作曲された。
1717年にはケーテンのレオポルド公の宮廷で宮廷楽長として活動した。レオポルド公は教会音楽に関心を示さなかったため、この時期のバッハは室内楽曲や独奏曲を作曲した。「インヴェンションとシンフォニア」、「無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ」、「無伴奏チェロ組曲」、「ブランデンブルク協奏曲」などなど。しかし、レオポルド公の妻が宮廷での音楽活動を抑制するようにさせたため、音楽活動ができなくなってしまった。その頃にバッハは「平均律クラヴィーア曲集第1巻」を作曲した。
1723年にヨハン・クーナウの後継としてライプツィヒの聖トマス教会の楽長に就任した。教会側では当初、テレマンを望んだが、テレマンはこれを固辞してハンブルクに留まったため、バッハにこの楽長職がまわってきたのであった。バッハは聖トマスと聖ニコライの2つの教会のための音楽を担当し、礼拝用の音楽やクリスマスや復活祭の音楽、受難曲や葬送曲など作曲し、教会の学校の生徒に勉強を教えたり、多忙を極めた。この頃、200曲を超えるカンタータ、「ロ短調のミサ」、「マタイ受難曲」、「ヨハネ受難曲」など作曲した。
しかし、教会との間で絶え間なく摩擦が生じ、バッハの活動に様々な支障が生じるようになり、1738年になるとバッハは宗教合唱曲の作曲から完全に背を向けてしまい、以後は抽象的な器楽作品を作曲するようになった。「平均律クラヴィーア曲集第2巻」、「ゴルトベルク変奏曲」、「フーガの技法」などがこの頃に作られた。

「音楽の捧げ物」はフリードリヒ大王に献呈されたもので、1747年にバッハがベルリンに旅行した際、ポツダムでフリードリヒ大王の前で演奏する機会が与えられたことによる。そこでバッハはフリードリヒ大王の提示した主題をもとに3声のフーガを展開し、また、6声のフーガが可能かどうか試され、バッハ自身が選んだ主題をもとにそれに応え、大王やその場にいた音楽家たちを驚嘆させたと言われている。バッハはライプツィヒに戻ると、王の主題による6声のフーガを作曲し、そのほか、王が好んだフルートが加わるトリオ・ソナタなどをあわせて王に献呈したとされるが、「音楽の捧げ物」は「フーガの技法」と並んで、ひとつの主題から様々な音楽を展開するというバッハの音楽が到達した頂点とされている。