モーツァルト@宇奈月

湯の街ふれあい音楽祭 モーツァルト@宇奈月
scince2010年秋。毎年9月に音楽祭を開催しております。

モーツァルト伝記

2011年01月09日 | モーツァルト伝
モーツァルトが亡くなったのが、寛政3年の12月。こちらは、モーツァルトのレクイエムの逸話もあってよく知られています。
一方、生まれたのは、宝暦6年1月27日のことです。
違和感があった方も多いでしょう。年号で表記するとそんな感じなんです。西暦で書くと、1756年から1791年の方ということになります。ちょうど、ヨーロッパではフランス革命などに代表される時代の変革の時期に当たりました。ハプスブルク家のマリア・テレージアやその娘、マリー・アントワネットなどがモーツァルトの人生とも交錯しています。
私たちは、モーツァルトが遺した仕事を今に感じ取っているわけですが、モーツァルトいう人の生涯を少し知ることで、ザルツブルクと宇奈月の距離感をもうちょっと測ってみようと考えました。
そこで、モーツァルトの誕生日のお祝いに、モーツァルトの伝記を連載します。みんなで、モーツァルトという人の人生をちょっとだけ勉強してみましょう。
今回は、プロローグです。時代の様子を少しひもときます。

モーツァルトが生きた時代は、日本では、江戸時代。田沼意次から寛政の改革で知られる松平定信の時代です。有名な天明の大飢饉があり、92万人の人口減があったと推測される時代です。天明の大飢饉の原因は、天明3年(1783)の岩木山、浅間山の噴火による日照低下による冷害と考えられていますが、同じ年ヨーロッパでもアイスランドでもラキ火山が噴火し、低温化があったそうです。当時、モーツァルトは大司教との関係悪化後で、ウィーンに住んでいたようです。
この時期、世界的にも動乱の時代です。
1773年には、ボストン茶会事件。最近、オバマの政策に反対する人たちのグループ「ティーパーティー」が話題になりましたが、名称はこの事件に発しています。アメリカの独立戦争の引き金といわれています。1776年にアメリカは独立を宣言、1787年合衆国憲法が制定されます。この年、「ドン・ジョバンニ」が初演。私たちが宮廷的なイメージをもってモーツァルトの時代を見てしまいがちですが、こういう背景があるんですね。1789年、フランス人権宣言の年は、亡くなる少し前です。世界の動きや天候の不安定は、モーツァルトならずとも終末観を高めるには、十分な要素だったかも知れません。
モーツァルトが若き日に求婚したマリー・アントワネットが処刑されるのが、1793年。モーツァルトはすでにこの世の人ではありませんでした。
日本では、寛政の改革が1787年に始まります。江戸幕府の財政状況が逼迫し始めるころですね。日本は米本位制だったので、大飢饉は直接財政に影響します。お金を水田で育てていたのですから、それは当然でしょう。逆に、そういう作物を通貨価値に換算できたということは、それだけ収量が安定していたということでもあり、数年に及ぶ飢饉がすさまじいものであったことは想像できますね。大黒屋光太夫が遭難し、辛苦の果てにエカテリーナ女帝に謁見するのが1791年。まさに、モーツァルトの没年でした。翌年記憶した光太夫は軟禁されたとも聞きますが、彼からヨーロッパの事情がいくらか伝わったともいわれています。
こうしてみてみると、ハプスブルクに代表されるヨーロッパの王侯文化が最後の華を開いていた季節に、モーツァルトがそうした文化をすべて統合するかのように、すばらしい楽曲を生み出していたような風景が見えてきます。
そのまま、書いてしまうとただの物語になるので、ちょっと趣向を凝らしています。どこでも読めるものをこのブログで提供しても仕方ありません。西洋の楽聖のことを江戸時代の人たちが耳にしたらどうなるだろう。そんなことを考えてみました。どういう展開になるかはお楽しみに。
少年モーツァルトが最も光り輝いたのが、池波正太郎の「剣客商売」のころでしょうか。時代は少し下がって、遠山金四郎が奉行を務めたころ、そのころの人々が楽聖モーツァルトの話を聞く、そんな設定を考えてみました。
不定期連載です。時々、覗いてみてください。
そうそう、その頃の宇奈月はどうだったか。ちゃんと書いておきましょう。
文献からは、正保2年(1645)、現在の黒部市宇奈月町音沢の太郎左右衛門が黒薙温泉を発見しています。国境警備上の問題もあり、加賀藩は開湯を許しません。当時は、黒部奥山と呼ばれる黒部川沿いの山岳地帯は御取締地として厳しく立ち入りや開発を制限していました。開湯が許可されるのは、慶応4年(1868)です。龍馬暗殺の翌年です。ここからお湯を引いて、ウナズキ平に宇奈月温泉が開かれたのが、大正12年(1923)のことです。7キロメートルに及ぶ引湯管は全国的にも珍しいのですが、加賀藩はそれが可能かどうかを、用水路の設置で優れた技術をもち、数々の難工事を成功させた椎名道三に測量させています。それほどによいお湯だったのかもしれませんね。

プロローグにしては、少々長すぎましたね。
では、次回より連載開始。お楽しみに。