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信州里山通信。自然写真家、郷土史研究家、男の料理、著書『信州の里山トレッキング東北信編』、村上春樹さんのブログも

倉科三滝の知られざる歴史(妻女山里山通信)

2010-05-22 | 歴史・地理・雑学
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 先日、ある山菜を採りに倉科の奥にある三滝上の谷へ行きましたが、たいへん驚きました。無数の杉の大木が倒れて谷を塞いでいるのです。今年の春は、強風の南風が何度か吹き荒れました、北信濃の山の樹木は北風には強いのですが、強い南風はあまり吹かないため弱いのだとか。そこは北向きの谷なのですが、おそらく尾根を越えた強風がダウンバーストように吹き降ろして、北に延びる尾根の西側斜面の大木をなぎ倒したのではないかと思われます(写真一番下のカット)。

 この三滝ですが、地元の人にもあまり知られていない不思議な歴史があるのです。キーワードは、「幻の県道・治助橋・甌穴(おうけつ) 」。この三つはそれぞれ深い因縁で結ばれています。
 
 幻の県道ですが、「長野県道392号白石千曲線」のことです。松代町豊栄字白石付近(旧地蔵峠近く)を起点とし、高遠山の北面を通り、三滝山北で戸神山脈を越え、倉科の百瀬を下って三滝へ下り、倉科からあんず街道を通り、千曲市(旧更埴市)小島の屋代駅前交差点とを結ぶ一般県道です。この県道は、結局途中で計画が頓挫し、現在起点から千曲市倉科三滝までは通行不能(不通区間)となっています。

 この不通区間について、「松代町側からは約2kmまで(林道山の神線)、千曲市側からは約1km(三滝付近)までは林道があるものの、その間の山中(直線距離にして3kmほど)には道が通じていない。」とWikiにありましたが、幻の県道の計画ルートかは分かりませんが、西条の稲葉を通じて戸神山脈の峠を越えて百瀬経由で林道芝平樽滝線へ下る道はあります。雨中雨後や積雪期でなければ四輪駆動の軽トラやオフロードバイクなら通れそうですが、林道芝平樽滝線から百瀬へ上がる道は県有林の作業道のため一般車通行止めです。確かめたいかたはマウンテンバイクか歩いてどうぞ。

 甌穴とは河底や河岸の岩石面上にできた円形の穴で、かめ穴ともいいます。英語ではポットホール(pot hole)。穴の直径、深さとも数cmのものから数mのものまであり、中には底に穴を形成した磨耗した小石が残っているものもあります。長野県で有名なのは木曽郡上松町の寝覚の床(ねざめのとこ)。上高地や姨捨山、天竜峡、光前寺庭園と共に長野県に5箇所ある国指定の名勝で、浦島太郎伝説の地です。
 この三滝の甌穴ですが、明治の倉科村村誌には「二の滝、高四丈三尺、幅一丈七尺、是に龍の劍摺石と唱うる石ありて、自然の穴七ツあり、俗に摺鉢と称す」とあります。

 旧長野県庁舎は、1913(大正2年)に建てられた木造2階建てで、現在は飯縄高原に移築されていますが、1948年(昭和23年)に、一部が焼失しました。その庁舎建設の折りに倉科・西条の山林の木材を使用したようです。その際に松代町豊栄白石から高遠山の南面を通って戸神山脈を越え倉科の百瀬から三滝へ通じる山道を広げ県道に格上げしてもらったらしいのです。

 その時に林業関係の親方をしていた治助さんが、県道を造るにあたり、三滝の下から道を広げ、現在遊歩道となっている三滝東側の道を切り開き、橋を渡って西の谷から尾根への道を造ったわけです。その橋が「治助橋」です。その道を造る際に、岩場を切り崩すためにダイナマイトで破壊したのですが、その岩が大量に三滝の二の滝下に落ちて摺鉢といわれた七つの甌穴と龍の劍摺石といわれた大石を隠してしまったというのです。最初のカットの円の中辺りがそうです。
 その規模からいって国指定名勝地ほどではないとしても、県の名勝地はなったであろう甌穴と龍の劍摺石が埋没してしまったのは本当に残念なことです。
 
 この幻の県道ですが、治助橋を渡って崖を巻いた谷の奥で消滅しています。古い地形図を見ると、そこから三滝上の尾根へ山道が続いています。この尾根道は昨年の夏に息子達と下っています。ここが県道とはとても思えないような急峻な尾根です。実際はどこをどう通そうとしたのでしょうか。

 ところで明治の埴科郡誌の倉科村の項には、傍陽(そえひ)街道として倉科から真田町の傍陽へ越える街道のことが書いてあります。
【傍陽街道】三等道路に属し、本村酉の方本郡森村境より、三瀧山を経て辰の方、小県郡傍陽村に至る。長三里十六町、幅九尺、険路なり。
 幅九尺といえば約2.7m。かなりの広さの山道です。この正確なルートを知りたいと思っています。この道は、松代町西条から坂城町の日名へ越える通称「猿飛越」と戸神山脈の上で交差していました。これは武田別働隊が斎場山の上杉軍を背後から急襲するために越えた山道かもしれないからです。

★フォトドキュメントの手法で綴るトレッキング・フォトレポート【MORI MORI KIDS(低山トレッキング・フォトレポート)】には、今回の三滝や三滝山などのトレッキングルポがあります。

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