明治以降の妻女山への有名人(要人)訪問年表を作ってみました。これを見ると、妻女山が、いかに政治的、軍事的に利用されてきたかということがよく分かります。江戸時代は、小幡景憲が幕府の要請で「甲州流兵学」を完成させ、自身編集の『甲陽軍鑑』が教科書として使われました。また、近松門左衛門の『信州川中島合戦』がヒットし、更には「謙信槍尻之泉霊水騒動」によって妻女山がクローズアップされました。
そして、明治以降は、日本陸軍参謀本部が編集した『日本戦史』川中島の戦によって軍の教科書となり、軍事演習や戦術研究のために妻女山は利用されました。さらには、満州事変の勃発を契機に川中島戦地を利用した軍事研究のための軍高官や皇族の妻女山訪問と来校が増加したという事実があります。そういう意味において妻女山は、極めて政治的、軍事的な山なのです。尚、川中島合戦の研究は、自衛隊にも引き継がれています。そういう中で、妻女山の名称や位置が、ある時は意図的に、またある時は無知のために、変えられていったと思われるのです。
この年表を読むにあたり、まず知っておいておかなければならない地理的歴史的事実があります。それは、現在国土地理院が三角点を置いている妻女山は、本来の妻女山ではないということです。現在の妻女山(411m)は正しくは赤坂山で、本当の妻女山はその南西にある標高512.8mの頂です。しかも妻女山は、松代藩が江戸時代につけた俗名で、本名は斎場山といいます。それが『甲陽軍鑑』に西条山と誤記され流布しました。国土地理院の三角点は、必ずしも地元でいう山頂に置かれないことがよくあり、それが歴史的事実さえ捻じ曲げてしまうことが全国で起きています。自然地名というのは、文化遺産であるという認識が、行政にも市民にもあまりにも欠けているのです。大手ディベロッパーがつけた夕陽丘とか、全く歴史に依存しない安っぽい地名を見ると、愕然とします。歴史を軽んじるものは、必ず歴史に逆襲されます。
■妻女山:有名人訪問年表(流用転載厳禁)
【江戸時代】
1831 天保3年・・・・・・・・妻女山麓の「上杉謙信槍尻之泉」で霊水騒動が起き、城下近在、善光寺町、下越後よりも人が押しかけ、毎日大騒ぎとなる。
【明治時代】
1868 明治元年・・・・・・・・「戊辰戦争」勃発。松代藩の戦死者52名、負傷者85名。会津は秀吉の国替えにより上杉景勝と共に移った信州の土豪が作った街。江戸時代には伊那高遠藩の保科正之も転封している。戊辰戦争はある意味信州人同士の戦だったともいえる。
1869 明治2年4月17日・・・真田幸民は藩戦死者の英魂を、妻女山頭(赤坂山)に祀る招魂祭を執行。石の玉垣をめぐらした戦没者の石碑を建立、「松代招魂社」と称す。
6月・・・・・・・・・・戊辰戦争の功績をたたえられ、松代藩は賞典録三万石を賜る。
1870 明治3年・・・・・・・・松代藩知事・真田幸民により「妻女山松代招魂社」建立。拝殿内部の額には真田幸民(ゆきもと)ではなく滋野幸民とある。
1872 明治5年4月26日・・・妻女山松代招魂社祭を毎年4月24・25日執行と決まる。
1880 明治13年・・・・・・・拝殿を修繕。
1881 明治14年・・・・・・・一町六か村立妻女山松代招魂社建立。拝殿と本殿。
1896 明治29年・・・・・・・社殿の傍らに山縣有朋による一大石碑を建立。
1902 明治35年・・・・・・・皇太子(後の大正天皇)が妻女山に行啓。清野尋常高等小学校職員・生徒が道島路傍で送迎。
松代町役場が台覧の際に用いた川中島合戦図では、斎場山が妻女山、現妻女山は赤坂山。
1903 明治36年・・・・・・・日本陸軍参謀本部が編集した『日本戦史』川中島の戦・日本戦史学会編刊行。近代デジタルライブラリーで無料で読める。
川中島合戦は、日本帝国陸軍の戦術研究の素材となった。
1904 明治37年5月28日・・金洲占領で清野小学校講堂で祝勝会。式後日章旗を持って村内を巡回。妻女山松代招魂社で万歳三唱後解散。
1906 明治39年・・・・・・・伊東元帥、東郷大将、上村中将の一行が訪問。玄関前で生徒に訓辞。
1908 明治41年・・・・・・・妻女山で、第五十八連隊の幹部演習が行われる。旅団長森川少将、連隊長堀内大佐以下学校で休息。旅団長が生徒に講話。
1909 明治42年・・・・・・・児島少将一行幹部演習の途中に来訪。生徒に演説。
1910 明治43年4月・・・・・妻女山元琴平神社(金刀比羅宮=明治維新の神仏分離・廃仏毀釈が実施される以前は真言宗の象頭山松尾寺金光院)境内を村有として学校の付属とする。
1910 明治43年11月21日・朝鮮合併記念として県庁から交付の欅、銀杏を校門左右に植樹。妻女山学友林へ桐苗83本を植樹。
1911 明治44年・・・・・・・華頂宮博忠壬殿下妻女山へ来訪。北庭へ立ち寄り職員生徒が校門で送迎。それに先立ち社務所建設。合わせて松代、寺尾、東条、西条、清野、雨宮の一町六ケ村により日清・日露の戦没者を祀る乃木将軍筆による忠魂碑建立。
1912 明治45年・・・・・・・明治天皇崩御の大葬につき、午前10時妻女山に於いて児童一同と補助女子一同で遙拝式を挙行。
午後8時男子補修生は村民一同と式を挙行。
【大正時代】
1912 大正元年・・・・・・・・日本陸軍参謀本部陸地測量部制作5万分の1地形図。妻女山と記載するも山頂の測量と位置は示されず。
陣場平辺りに存在しない山を示す不可解な等高線が描かれる。測量の誤りか、『日本戦史』に合わせた陸軍の捏造か不明。
1913 大正2年4月25日・・・一町六か村立の忠魂碑祭で各村高学年生、妻女山松代招魂社に参拝。
1917 大正6年11月3日・・・朝香宮鳩彦王殿下妻女山へ来訪。職員生徒全員で迎える。下山後11時より運動会を参観。
玄関前に松を植樹。夜師団対向演習が行われる。
1918 大正7年2月15日・・・高等科学年会で北埴八校連合兎狩会を西条山で行う。(これは妻女山のことではなく、松代町西条の山域をいう)
3月10日・・・陸軍記念日で妻女山に登り招魂社忠魂碑に参拝。山上で合同体操。下山して学芸会。軍人講話。
4月1日・・・・伯爵真田幸治閣下妻女山に登山後に来校。児童職員村名誉職、講堂で歓迎式。村に二百円の寄付、学校基本財産に。
4月25日・・・松代招魂社外三村社の例祭で参拝、授業なし。
5月27日・・・海軍記念日で校長訓話。妻女山松代招魂社忠魂碑に参拝後、合同体操。
1919 大正8年4月18日・・・海軍大学教官広瀬豊中佐、甲越戦争の研究のため来校。
1920 大正9年5月27日・・・海軍記念日。埴科郡連合運動会が鏡台山北峯上で行われ尋常小学校5年以上が参加。他の学年は休業。
1925 大正14年2月15日・・一町五か村高等科生で兎狩会を西条山で行う。
1926 大正15年11月17日・旅団長、幕僚長来校し旅団司令部として午前中作戦を執行。三年以上川中島で師団演習を見学。
【昭和時代】
1927 昭和2年5月2日・・・・後藤新平子爵来校。松代・西条の高等科生徒も加えて講演を聴く。岩野にも訪問。塚田家で記念撮影。林家に「定慧」の書を残す。
5月27日・・・海軍記念日。全校妻女山松代招魂社参拝。校長講話の後、全員登山。
1929 昭和4年3月10日・・・陸軍記念日。全校妻女山松代招魂社参拝。
5月17日・・・越後春日郡尋常高等小学校5年生以上280名、妻女山登山の途中に来校。
1931 昭和6年4月7日・・・・李王殿下、現地戦術視察の途中来校して昼食。山口県視学が川中島合戦について説明。
陸軍士官学校教官以下学生20数名が現地戦術のため妻女山に登る途中来校。
満州事変の勃発を契機に川中島戦地を利用した軍事研究のための軍高官の妻女山訪問と来校が増加。
1932 昭和7年3月27日・・・結城中将と所沢飛行学校教官15名、現地戦術のため来校、妻女山松代招魂社で昼食茶菓を供する。
10月17日・・朝香宮殿下来校。師団長森中将以下武官と共に運動会を観覧。
1933 昭和8年8月29日・・・澄宮殿下、妻女山へ目標建立を依頼。
1934 昭和9年5月27日・・・海軍記念日で全校登山。尋常科1、2年は傘松(二本松峠)、3年以上は鏡台山。
1935 昭和10年4月11日・・青年会役員で、表参道入口の舟つなぎ松、妻女山の御手植松の改植を行う。
5月25日・・妻女山松代招魂社前広場にて楠公600年祭。
1936 昭和11年11月21日・海軍大学生の高松宮殿下、川中島古戦場御祝祭のため来校。妻女山へ登山、堂平古墳から雨宮の渡を見学。
1938 昭和13年4月25日・・妻女山松代招魂社祭典、一町六か村児童参拝する。
1942 昭和17年2月8日・・・少年団兎狩。3年以上と青年学校生徒全職員参加して堂平学友林付近で兎狩を行う。
1943 昭和18年4月16日・・防空避難演習。全校児童赤坂山(妻女山)に避難。
12月23日・陸軍士官学校校長牧野中将他40名の将校教官等、妻女山に戦史研究後来校。礼法室で休憩昼食をとる。
1947 昭和22年・・・・・・・妻女山松代招魂社拝殿後背の石碑を寄せて周りに配し本殿を建立。
戦後、川中島合戦の研究は自衛隊にも受け継がれ、妻女山への見学や演習、清野小学校訪問も数多く行われた。
1953 昭和28年8月11日・・6年生学有林下草刈り。
1955 昭和30年・・・・・・・岩野の会津比売神社から妻女山招魂社、東風越経由陣場平までの林道が完成。ガーデントラクターでの桑の搬出が可能になる。
1960 昭和35年・・・・・・・国土地理院5万分の1地形図改訂版刊。妻女山は明記されるも山頂の測量と位置は示されず。
1963 昭和38年4月15日・・学有林植林作業。杉苗200本、赤松400本。
1969 昭和44年・・・・・・・NHK大河ドラマ『天と地と』放送。
招魂社への林道が舗装され、長野市により妻女山(赤坂山)が謙信本陣、陣場平という誤った案内看板が設置される。
観光バスは、麓の長芋直売所の敷地に車を止め、観光客は徒歩か小型車に乗り換えて登った。
1970 昭和45年7月・・・・・妻女山道路拡幅大改修工事完了(岩野)舗装、駐車場整備等。
1972 昭和47年4月24日・・5、6年生妻女山掃除。
4月25日・・妻女山松代招魂社祭納剣道大会に4年生以上参加。
5月25日・・長野市小学校校長会。授業参観、妻女山見学、授業研修会行われる。
国土地理院地形図に標高411mの赤坂山が妻女山と明記される。
本来の妻女山(斎場山)は、未測量で名無しのまま放置される。
1976 昭和51年4月25日・・妻女山松代招魂社祭納剣道大会に児童多数参加。
1977 昭和52年5月25日・・妻女山道路ガードレール取り付け工事竣工。
1978 昭和53年4月27日・・会津比売神社、大宮神社、離山神社、三社合同の斉田祭本年から中止。
1983 昭和58年4月25日・・妻女山松代招魂社祭典は、奉賛会、遺族会、区長会の三者により執行することとなる。
1984 昭和59年7月・・・・・妻女山道路舗装工事完了。
1987 昭和62年・・・・・・・『長野県町村字地名大鑑』長野県地名研究所刊。妻女山(往古斎場山)と妻女山(往古赤坂山・現妻女山)が記載。
【平成時代】
2002 平成14年・・・・・・・翌年まで千曲市により斎場山古墳の発掘。報告書には五量眼塚古墳と誤った俗名を記載。五量眼の名称の元は御陵願平だが、斎場山の西にある尾根上の平地で、古代斎場山古墳を拝んだ場所といわれる。転訛して竜眼平ともいう。
2007 平成19年・・・・・・・NHK大河ドラマ『風林火山』放送。招魂社駐車場・林道整備、案内看板が取り替えられる。
妻女山の文字は本来の妻女山(斎場山)辺りに、現妻女山は赤坂と記載。しかし、説明は無し。
妻女山(赤坂山)展望台は、観光客であふれる。斎場山は人知れずそびえる。
2009 平成21年・・・・・・・NHK大河ドラマ『天地人』放送。妻女山(赤坂山)は、再び観光客が増える。当サイトを見た人か、斎場山まで足をのばす人も増える。
2015 平成27年・・・・・・・NHK大河ドラマ『真田丸』放映決定。妻女山(赤坂山)は、再び観光客が増え始めた。
2016 平成28年・・・・・・・NHK大河ドラマ『真田丸』効果で妻女山、斎場山、陣馬平、鞍骨城跡への訪問者が増える。
★赤坂山と斎場山はひとつしかないが、妻女山という場合は、赤坂山をいう場合と斎場山をいう場合、妻女山山系全体をいう場合があるということが分かる。さらに小字名で字妻女、字妻女山があり一層混乱を招いている。
■参考資料:清野小学校開校百年誌(昭和61年発行)他
■『川中島謙信陳捕ノ圖 一鋪 寫本 』(かわなかじま けんしん じんとり の ず) 榎田良長 彩色
出典:東北大学附属図書館狩野文庫(平成20年5月23日掲載許可取得済)流用転載厳禁!
★妻女山の詳細は、妻女山(斎場山)について研究した私の特集ページ「「妻女山の真実」妻女山の位置と名称について」をぜひご覧ください。妻女山がいかに時の政治権力や文化の変遷に翻弄されてきたかが分かります。それは今も続いているのです。歴史というのは、いつの時代でも時の権力にとって都合のいいように書き換えられ解釈されるものなのです。