球形ダイスの目

90%の空想と10%の事実

休養日。

2007-01-25 | マジメな話
そんな訳で今日は22:30に帰宅できました。
これくらいの時間に帰宅できると心に余裕があって、キーを叩く手も
いつもほど筋張っていないし、体の重みさえ安らぎになります。
僕の体は、やがて一つの質点となって、椅子の上に、降りてゆく。降りてゆく。
ここまで椅子が心強い乗り物だなんて、知らなかったね。

結局ある程度以上は休まないと、何も果たせないのかもと思い知った気がします。
一人でもがいて一人で失敗を繰り返す時期。
…たぶん、誰にでもあるもの。



でも、最近仕事にほぼ全部の精神力を使っていて、思うことがあるんですよ。
"やればできる子"なんて、剣呑で使えやしない言葉だってこと。
今まで自分を"やればできる人"だと思っていて、どれだけ自分を見据える努力を怠ってきたのか…

気が狂いそうなくらい何か(僕の場合12月~今の状況がそれに該当した)をやり、
"100%の努力"をしたと言い切れたときに、"やればできる子"なんて幻想はようやく霧になってくれました。
どうしたらもっとよくなるか、それを本気で考えるためには100%でやり続けていかないとダメなんですね。
うわ、俺、或いは死ぬかもと思うくらい。

絵の具を大量の水で溶き、校庭(の地面)を1mmぐらいの絵の具で、1分で描ききってしまったものと、
丹念にきちんと絵の具も必要な分は使って時間をかけて描いたものとでは、
他人の評価はおろか自分の評価が全然違います。
前者は"テキトー描いたから、まぁこんなものだよ"だけど、
後者は、テキトー描いてないから、よくするための方法をちゃんと考えなくちゃいけない。
100%でやれってのは、まぁそういう意味です。

本当によいものを作ったり、演じたり、しなくちゃならないから。
そういう意味では、このスペースも常に全力投球していくことを考え続けていた方が、
数年後に何かしらの差がうまれてくるのでしょう。

しかし、今ある蛹を破って何かが出てくるのだとしたら、
それはどういうものになるのかな。



僕は蛹の中の虫になる。
ただ、なんで蛹になったのかは憶えていない。
蝶もカブトムシも、幼虫のまま経験だけを重ねて成虫になったりはしないようだ。
蛹の中は居心地がいいのかどうか、誰にもわからない。
だから、今は、蛹ってのが、誰も助けてくれない暗く辛い空間であることにしてみる。
(繭なんて、表面は白いけど、全てを覆うことを考えた王様がみるのは結局闇だけなのさ。)
実は入った瞬間から飽きているかもしれないし、
蚕の繭なんて、学研の教材になって各家庭に配布された時期だってあった。
だけど、どの虫も、人間の脳があったら思うだろう、結局必要だからやっている。

…飽きて自分で繭を食い破ったら、そのまま死んでしまう。
そんな、じっとした、成虫待ち。





コメント
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