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monoろぐ

古典和歌をメインにブログを書いてます。歌題ごとに和歌を四季に分類。

柴田流星「残されたる江戸」

2018年08月26日 | 読書日記

残されたる江戸 柴田流星

 十五夜と二十六夜
 秋の月見は八月の十五夜、今も都は芋芒を野にもとむるに及ばず、横丁の八百屋におさんを走らすれば、穂芒の多少は好み次第、里芋も衣かつぎ芋も、栗も、枝豆も、走りを賞する人々が客なる商売物、何一つ揃わぬことなく、月見団子の餅の粉まで、乾物屋へ廻らずともなので、宵には万の供物もととのい、二階座敷に打ちつどうての月待ち、武蔵野の月は昔に瓦屋の唐草を出て唐草に入るまで、さ霧の立ちこむる巷に灯影淡く、折々は人を休むる雲の光りを奪うとも、一楼の明月に雨はじめて晴ればれと、且つ語り且つ喰うて枝豆をつくし、栗を殻ばかりにして、衣かつぎ芋の蛻(ぬけがら)、遠慮のかたまり二つ三つと共に器に山を築く。
「オヤ、ま随分だわねえ。もう皆んなよ」と娘まず驚けば、「そんなに喰べて、お嫁にでもいってたら離縁ものだよ」なぞと母親もまだ何かに手を出しそう。
「僕なんかお嫁に行くんじゃなし、大丈夫だァ」と男の児の手はなお残りの団子に及ぶ。蓋し江戸ッ児には花にも月にも団子なるべきかな。
 二十六夜の月待ちは、鬼ひしぐ弁慶も稚児姿の若ければ恋におちて、上使の席に苦しい思いの種子を蒔く、若木の蕾は誘う風さえあれば何時でも綻びるものよ、須磨寺の夜は知らずもあれ、この夜芝浦、愛宕山、九段上、駿河台、上野は桜ヶ岡、待乳山、洲崎なんど、いずれ月見には恰好の場所に宵より待ちあかして、更くるに遅い長夜も早や二時を過ぎ、三々五々たる人影いよいよ群をなして、かかる砌(みぎり)にも思う人は出来るものぞとか、月いでて後の帰るさに、宵までは見ず知らずの男と女とが、肩をつらねて語りつつ行くもおかし。さても都人は気楽なとムザとは嗤いたもうな、江戸ッ児はザックバランでもそうした出来心の恋にはおちず、前々に月待ちのこの夜落いる箇処の約束はしても、今までに見も知りもせぬ男おんなのいたずら事、大方は都へかりそめに来ている人々の鎮守の祭りに振舞うと一斑で、かかるは吾儕の苦々しくおもうところだ。
 何がさて、今の若き人々の飯ごとなる恋というもの、江戸ッ児にはただ危っかしくてあぶなっかしくてよそごとながらいろいろ思うとは、頭の禿げた江戸の残党が口癖のようにいうこと。それもこれも畢竟は苦労が足らぬからのことで、かくての取締り故に様々な御法度が出来て、江戸趣味を滅ぼしゆかんこと、何ぼうの憾みか知れないことだ。
 然り今の有様では二十六夜待ちの禁止も、あるいはまた出まいものでもなし。恋というもの、するならばするで、せめてそれらしい恋をしては下さるまいか、つまらぬことで江戸趣味をなくしたくないものだて!
(青空文庫より)


若山牧水「木枯紀行」

2017年10月26日 | 読書日記

若山牧水 木枯紀行
 十月二十九日。
  宿屋の二階から見る湖にはこまかい雨が煙つてゐたが、やや遅い朝食の済む頃にはどうやら晴れた。同宿の郡内屋(土地産の郡内織を売買する男ださうで女中が郡内屋さんと呼んでゐた)と共に俄かに舟を仕立て、河口湖を渡ることにした。
  真上に仰がるべき富士は見えなかつた。たゞ真上に雲の深いだけ湖の岸の紅葉が美しかつた。岸に沿ふた村の柿の紅葉がことに眼立つた。こゝらの村は湖に沿うてゐながら井戸といふものがなく、飲料水には年中苦労してゐるのださうだ。熔岩地帯であるためだといふ。(略)
 樹海などと呼びなされてゐる森林青木が原の中に入つたのはそれから直ぐであつた。成る程好き森であつた。上州信州あたりの山奥に見る森木の欝蒼たる所はないが、明るく、而かも寂びてゐた。木に大木なく、而かもすべて相当の樹齢を持つてゐるらしかつた。これは土地が一帯に火山岩の地面で、土気(つちけ)の少いためだらうと思はれた。それでゐて岩にも、樹木の幹にも、みな青やかな苔がむしてゐた。多くは針葉樹の林であるが、中に雑木も混り、とりどりに紅葉してゐた。中でも楓が一番美しかつた。楓にも種類があり、葉の大きいのになるとわたしの掌をひろげても及ばぬのがあつた。小さいのは小さいなりに深い色に染つてゐた。多くは栂(つが)らしい木の、葉も幹も真黒く見えて茂つてゐるなかに此等の紅葉は一層鮮かに見えた。
  わたしは路をそれて森の中に入り、人目につかぬ様な所を選んで風呂敷包を開いた。空が次第に明るむにつれ、風が強くなつた。あたりはひどい落葉の音である。樅か栂のこまかい葉が落ち散るのである。雨の様な落葉の音の中に混つて頻りに山雀の啼くのが聞える。よほど大きな群らしく、相引いて次第に森を渡つてゆくらしい。と、ツイ鼻先の栂の木に来て樫鳥が啼き出した。これは二羽だ。例の鋭い声でけたゝましく啼き交はしてゐる。

 十一月九日。
  早暁、手を握つて別れる。彼は坂を降つて里の方へ、わたしは荒野の中を山の方へ、久しぶりに一人となつて踏む草鞋の下には二寸三寸高さの霜柱が音を立てつつ崩れて行つた。
  また久し振の快晴、僅か四五日のことであつたに八ヶ嶽には早やとつぷりと雪が来てゐた。野から仰ぐ遠くの空にはまだ幾つかの山々が同じく白々と聳えてゐた。踏み辿る野辺山が原の冬ざれも今日のわたしには何となく親しかつた。

野末なる山に雪見ゆ冬枯の荒野を越ゆと打ち出でて来れば
大空の深きもなかに聳えたる峰の高きに雪降りにけり
高山に白雪降れりいつかしき冬の姿を今日よりぞ見む
わが行くや見る限りなるすすき野の霜に枯れ伏し真白き野辺を
はりはりとわが踏み裂くやうちわたす枯野がなかの路の氷を
野のなかの路は氷りて行きがたし傍への芝の霜を踏みゆく
枯れて立つ野辺のすすきに結べるは氷にまがふあららけき霜
わが袖の触れつつ落つる路ばたの薄の霜は音立てにけり
草は枯れ木に残る葉の影もなき冬野が原を行くは寂しも
八ヶ嶽峰のとがりの八つに裂けてあらはに立てる八ヶ嶽の山
昨日見つ今日もひねもす見つつ行かむ枯野がはての八ヶ嶽の山
冬空の澄みぬるもとに八つに裂けて峰低くならぶ八ヶ嶽の山
見よ下にはるかに見えて流れたる千曲の川ぞ音も聞えぬ
入り行かむ千曲の川のみなかみの峰仰ぎ見ればはるけかりけり

 おもうて来た千曲川上流の渓谷はさほどでなかつたが、それを中に置いて見る四方寒山の眺望は意外によかつた。
  大深山村附近雑詠。

ゆきゆけどいまだ迫らぬこの谷の峡間はざまの紅葉時過ぎにけり
この谷の峡間を広み見えてをる四方の峰々冬寂びにけり
岩山のいただきかけてあらはなる冬のすがたぞ親しかりける
泥草鞋踏み入れて其処に酒をわかすこの国の囲炉裏なつかしきかな
とろとろと榾火(ほだび)燃えつつわが寒き草鞋の泥の乾き来るなり
居酒屋の榾火のけむり出でてゆく軒端に冬の山晴れて見ゆ

(青空文庫より。底本:「現代日本紀行文学全集 中部日本編」ほるぷ出版、1976(昭和51)年8月1日初版発行)


木下利玄「山遊び」

2017年10月25日 | 読書日記

 足守川にかゝつて居る葵橋を渡る頃は秋晴の太陽が豐年の田圃に暗く照つて居た。八幡樣の山では松の木立の下に雜木がほのかに黄ばんで櫨の木の紅葉の深紅なのが一本美しく日に透いて居るのが長閑に見えた。河原には、未だ枯れぬ秋の草が野菊交り、色の褪せた死人花交りに未だ青く殘つて居て、親馬についた子馬が其の草を食つて居た。澄んだ細い流れは、日を受けてその間に光つて居た。
(青空文庫より)


大手拓次「夏の夜の薔薇」

2017年06月21日 | 読書日記

夏の夜の薔薇 大手拓次

手に笑とささやきとの吹雪する夏の夜(よる)、
黒髪のみだれ心地の眼がよろよろとして、
うつさうとしげる森の身ごもりのやうにたふれる。
あたらしいされかうべのうへに、
ほそぼそとむらがりかかるむらさきのばらの花びら、
夏の夜の銀色の淫縦(いんじゆう)をつらぬいて、
よろめきながれる薔薇の怪物。
みたまへ、
雪のやうにしろい腕こそは女王のばら、
まるく息づく胴(トルス)は黒い大輪のばら、
ふつくりとして指のたにまに媚をかくす足は欝金(うこん)のばら、
ゆきずりに秘密をふきだすやはらかい肩は真赤(まつか)なばら、
帯のしたにむつくりともりあがる腹はあをい臨終のばら、
こつそりとひそかに匂ふすべすべしたつぼみのばら、
ひびきをうちだすただれた老女のばら、
舌と舌とをつなぎあはせる絹のばらの花。
あたらしいふらふらするされかうべのうへに
むらむらとおそひかかるねずみいろの病気のばら、
香料の吐息をもらすばらの肉体よ、
芳香の淵にざわざわとおよぐばらの肉体よ、
いそげよ、いそげよ、
沈黙にいきづまる歓楽の祈祷にいそげよ。
(青空文庫より)


薄田泣菫「忘れぬまみ」

2017年06月09日 | 読書日記

忘れぬまみ 薄田淳介(薄田泣菫)


夏野の媛(ひめ)の手にとらす
 しろがね籠(がたみ)、ももくさの
香(か)には染(し)むとも、追懷(おもひで)は
人のまみには似ざらまし。


伏目(ふしめ)にたたすあえかさに、
ひと日(ひ)は、白き難波薔薇(なにはばら)、
夕日がくれに息(いき)づきし
津の國の野を思ひいで。


ひと日(ひ)は、うるむ月の夜(よ)に、
水漬(みづ)く磯根の葦の葉を、
卯波(うなみ)たゆたにくちづけし
深日(ふけひ)の浦をおもひいでぬ。

(青空文庫の「白羊宮」より)